作品タイトル不明
第24話
「虫……」
「……でかっ! でかすぎでしょ!?」
巨大な影が、私の全身をすっぽりと覆った。
耳をつんざくような羽音。
高速で羽ばたく、ぶううううんという不快な振動音。
私はぎこちなく、首を上げる。
SAN値が一瞬でゼロになった気がした。
「ガウ!?(バッタ……なんでそんなサイズになってるの!?)」
五メートル。
いや、どう見ても五メートルはある。
おぞましい虫の顔が目の前まで迫り、棘だらけの脚が私の肩に食い込み、そのまま力任せに空へ引きずり上げていく。
地上の二人がどれだけ必死に引っ張っても、私の高度はまったく下がらない。
それどころか、二人ごと空へ持ち上げ始めた。
「ガウ!(このままじゃだめ! 二人まで連れていかれる!)」
「ガウ!(早く手を放して!)」
「くそっ……! 踏ん張れえええっ!!」
神代は素早く体を回転させ、縄を自分の腰へ巻きつけた。
両足は地面を削り、長い土の筋ができている。
「絶対に放さない! 絶対に……!!」
錬金術師の少女も歯を食いしばり、顔を真っ赤にして全力で耐えていた。
けれど――
ここは平地だ。
周囲に縄を固定できる木も岩もない。
二人がどれだけ力を込めても、体重ぶんの抵抗しか生み出せない。
そして、私たち三人分の重さを合わせても、その上昇力には敵わなかった。
「ガウ!(放して!!)」
二人の足が、ついに地面から浮く。
このまま高空まで引きずられ、力尽きて落下したら危険すぎる。
だめ。
絶対にそれはだめ。
……そうだ。爪!
今の私はパンダ。
鋭い爪がある!
熊の腕力で、私は無理やり体を折り曲げた。
「何する気!?」
「馬鹿やめて! せっかく捕まえたのよ!!」
「やめろ!!」
ぶつっ――
縄は、あっけないほど簡単に切れた。
二人は高空へ引きずられる寸前で地面へ戻る。
神代には、もう二本目の投げ縄はない。
全力で追いかけてくるけれど、私が遠ざかっていくのを見送ることしかできなかった。
「……配信は切るな!!」
風に乗って、彼女の声が届く。
「今すぐ冒険者パーティを呼ぶ! 助けに行くから待ってろ!! 配信を続けて! 位置がわからなくなる!!」
「ガウ!(次のごはん、竹が食べたいー!!)」
地面はもう、信じられないほど遠い。
神代も錬金術師も、小さな黒い点になっていた。
もう声も聞こえない。
私は諦め半分で、配信画面を見る。
「ガウ(ご覧の通り、私は人類社会からどんどん離れていってるみたいです……)」
『どうしようどうしよう、今回マジで死ぬんじゃないの!?』
『冒険者協会には異変情報が届いてる! 今たくさんの救援パーティがG172へ向かってるらしい! 配信者さん耐えてくれ!!』
『……ていうかこの配信の主って誰だっけ。俺さっきから三十分、空飛ぶパンダ見てるんだけど……』
『この先の映像グロくないよね!? やだよ!?』
このバッタが、私をどこへ連れていくのか。
雲を抜けた先で、私は深い谷へ運ばれた。
この先に待っているのは何だろう。
バッタの群れ?
魔物の大軍?
バッタ系の層主なら、餌にされる可能性が高い気がする……。
――しかし。
谷底へ降ろされたそこには、二匹目のバッタなど一匹もいなかった。
代わりにいたのは――
黒いローブ姿の、覆面の男!?
「熊を捕まえてこいと言っただろう! なんでパンダを連れてきた!?」
覆面の男は、私を見て固まった。
巨大バッタは、その男の前で地面に伏し、信じられないほど恭しく頭を下げる。
……ってことは、この男、蟲使い?
いや、違う。
調査情報ではG172に人型魔物はいない。
しかもこの男、流暢な日本語を喋っている。
つまり、層主出現によるダンジョン異変じゃない。
蟲使いが、層主級ペットを連れてG172へ侵入している……!?
「まあいい。パンダも熊だ。使えるだろう」
男は私のそばへ来て、肩を見る。
さっき引きずられたせいで、肩はバッタの爪に裂かれ、血が流れていた。
男は治療する気など一切ない。
試験管を傷口へ押し当て、血液を採取する。
たっぷり一本分、満たしたあと。
男は少し離れた巨大な泉へ向かい、その血を水面へ流し込んだ。
「鳥の俊敏を。竜の強靭を。熊の剛力を――我らに迷宮の神の慈愛を授け給え! さあ、皆よ……姿を現せ!」
ざわり、と森の奥から人影が現れる。
次々と。
全員、男と同じ黒ローブ。
同じ仮面。
この光景……。
どう見ても邪教の儀式会場だった。
いや、比喩じゃない。
完全に邪教だ。
私はこっそり配信のホログラム画面を開き、コメント欄を見る。
やっぱり。
『迷宮神教団!? やばい!!』
『迷宮神教団だと……冒険者協会指定の邪教徒じゃねえか!』
『ずっと協会が追ってるのに拠点が見つからなかった連中だぞ! 迷宮異変なんかよりこいつらの方が危険だ!!』
『配信者逃げろ!! 人間だってバレたら絶対口封じで殺されるぞ!!』
私だって逃げたい。
でも、この巨大バッタがずっと私を掴んでいる。
パンダ化の効果時間は一時間。
切れれば元の姿に戻るはずだ。
もしここで戻ったら、本気で終わる。
「諸君。我ら皆で、迷宮の神の恩寵を味わおうではないか!」
教徒たちは泉の周囲へ集まった。
そして一斉に、懐から黄金の杯を取り出す。
眩しく輝く黄金杯を水の中へ沈め、なみなみと泉の水をすくい上げる。
男は高々と杯を掲げた。
「迷宮の神に。」
他の教徒たちも、一斉に杯を掲げる。
「迷宮の神に!!」
「乾杯――!!」
ごく。
ごく。
ごく。
全員が貪るように泉の水を飲み干し、一滴残らず空にした。
直後。
先頭に立つ男が仮面を引き裂くように外し、その下の狂信的な笑顔を晒す。
両腕を広げ、空を抱くように叫んだ。
「降臨せよ!! 熊の力よ――!!」
どんっ!!
一筋の光が、男へ落ちた。
まるで偉大な力そのものが天から注ぎ込まれたかのように。
男の姿が、一瞬で消える。
代わりに現れたのは――
――
――
ぽかんとした顔のモルモットだった。
「チュイ?」
次の瞬間。
恐ろしい重力が、そのモルモットへ叩きつけられた。
べしゃっ!!
四肢を投げ出したまま、地面へ押し潰される。
そして――
口から、雲みたいにふわふわした謎の白い霧が抜けていく。
その霧の中に、うっすら男の顔が見えた気がした。
「……」
私はふと、神代が前に言っていた言葉を思い出す。
――もし蚊が私を刺したら、不幸なのは私なのか、蚊なのか。