軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

書籍化記念SS 君と、娘と  ルシアンside

「この絵はこちらでよろしいですか」

足場台の上から、グレゴリーがお腹の大きいクロエに声をかける。

「ええ、大丈夫よ。ありがとう、グレゴリー」

窓辺の椅子に腰かけたクロエが、ゆったりと微笑む。身重の身体では高い場所の作業は難しい。だから今日は、私とグレゴリーがクロエの希望を聞きながら、部屋の模様替えをしている。

壁に新しい風景画を掛けると、部屋の空気が少しだけ変わったような気がした。

「いいね。部屋が明るくなったんじゃない、クロエ」

「そうでしょう? 赤ちゃんが見る景色だもの。明るくなくっちゃ」

クロエはお腹にそっと触れる。その仕草を見るたびに、口元が緩む。グレゴリーが、ふと思い出したように言った。

「そういえば、マティアス様からいただいた絵が、いつからか見当たりませんが、どうかされましたか?」

私は一瞬だけ、手を止める。クロエは変わらず穏やかな顔で答えた。

「大事な絵だから、しまっているの」

「そうでしたか」

グレゴリーは、それ以上は何も言わない。私は思わず、小さく笑ってしまう。

しまっている、か。

『私よりも、もっと必要としている人に渡したいのだけれど、いいかしら』

クロエは、あの絵を手放す前、わざわざマティアスに許可を取っていた。

「絵は出会いです。時に人の手を借りて渡り歩いていくものですよ」

それは、マティアスらしい言葉だった。その後、クロエが『付いて来てほしい』と言い外出した先は、前にマティアスが住んでいた部屋だった。

クロエは何も言わず、そっと壁に絵を掛けて、それからすぐに部屋を後にした。

おかしなことをするな、と正直思ったけれど、聞いてほしくなさそうな顔をしていたから、聞かなかった。

ただ、ある時、偶然知ってしまった。その部屋は、クロエの元夫、アルベルトが住もうとしている場所だったことを。

あんなに憎んでいたのに……。

クロエの意図に気付き、不器用な優しさに、ため息をつきつつ笑ってしまった。

「ルシアン?」

クロエが首をかしげる。

「ああ、いや。何でもないよ」

微笑み返す。その時、クロエの顔色が変わった。苦しそうに手で、お腹を押さえる。

「クロエ?」

「グレゴリー。お医者さんを……」

クロエの声が、わずかに震える。一瞬、思考が真っ白になる。

「は、始まりましたか? す、すぐ呼んできます!」

グレゴリーが慌てて足場台を降り、ばたばたと部屋を飛び出していく。私はクロエのそばへ駆け寄る。

「大丈夫かい?」

クロエは小さくうなずく。額に汗がにじんでいるけれど、取り乱してはいけない。私はそっとクロエの手を握った。

「ルシアン様、どうかお座りください」

「ああ、すまない、グレゴリー。じっとしていられなくて」

廊下を何度も往復し、ようやく足を止める。

扉の向こうで、クロエが痛みに耐えている。もう四時間が過ぎた。時計を見るたび、不安がよぎる。

「まだ、だね」

「初産でございます。もうしばらくかかるかと」

「そうか……」

頭では分かっている。初めての出産は時間がかかる。

「こんなことなら痛みを和らげる道具を、もっと真剣に考えておけばよかった」

思わず漏れた言葉に、グレゴリーが静かに応じる。

「お子様のための玩具を、楽しそうに設計なさっておいででした」

「あれは、後でもよかった」

小さな手で握れる積み木。優しく眠りに誘う光る飾り。生まれてくる子が笑う姿を想像して、夢中で作った。

だが今、考えるのは一つだけだ。

クロエの苦痛を少しでも減らせたのではないか。なぜ、そこに力を注がなかったのか。

そのとき。

――ふぎゃあ。

はっきりとした産声が、廊下に響いた。

「……今のは」

「ええ!」

グレゴリーが穏やかにうなずく。扉が開き、侍女が目を潤ませて頭を下げた。

「おめでとうございます。女の子でございます」

「本当かい?」

「はい!」

「入っても?」

許しを得て、そっと寝室へ入る。

室内は静かで、あたたかい。ベッドの上で、クロエがこちらを見ていた。

「ふふ、あなたが望んでいた女の子よ」

彼女の腕の中に、小さな命がいた。私はベッドの傍らに腰を下ろす。

「ああ。君も、子も、無事でよかった」

それが何よりだ。赤子をのぞき込む。やわらかな髪と小さな鼻。

「はは、クロエにそっくりだ」

思わず笑みがこぼれる。クロエはくすりと笑った。

「もう少しあなたの色が混じるかと思ったのだけれど。私にばかり似てしまって、申し訳ないわ」

「どうして? 君に似ているなんて、こんなに嬉しいことはないよ」

本気で首をかしげると、クロエの瞳が、少し潤む。

「きっと、おてんばよ?」

「それも素敵だ」

元気で、よく笑って、自由に育てばいい。それだけで十分だ。

「ようこそ、可愛い私の娘。お父さんだよ」

私は二人を見つめる。守るべきものが、はっきりした。

「ああ、本当に可愛いな。でも、この子を見守りながら、君のそばにもいるとなると……大変だ! 体がひとつでは足りない! どうしよう……」

考え込みかけた私に、クロエが苦笑する。

「また何か作ろうとしているでしょう?」

「……少しだけ」

「ふふ、体はひとつでじゅうぶんよ。ルシアンは私のそばにいて、私と一緒にこの子を守ってくれればいいの」

クロエは静かに言う。私は娘とクロエを見る。

「私を忘れては困りますな」

そうだグレゴリーもいる。

「それもそうか」

肩の力が抜け、笑いがこぼれる。皆でこの子を大切に育てる。そうだ、ただ、それだけでいい。

私は、そっと娘を覗き込み、その愛おしさを瞳に焼き付けた。一瞬の光景をそのまま写し止めるような魔道具を作っていたことも忘れて。

END