軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

36.光の差す方へ sideアルベルト

sideアルベルト

古びた絵具の匂いと、かすかに湿ったキャンバスの布――

薄暗い裏通りの貸し部屋で、私は一人、静かに筆を動かしていた。

ただ描く。

言葉もなく、時間の流れに抗うように。

「絵を描くんですか? 運がいいですよ。この部屋、前の借り手は……あのマティアスだったんです。あなた、第二のマティアスになれるかもしれませんね」

部屋を探していたとき、部屋を紹介してくれた案内人がそう言った。

「……第二のマティアスか……」

つぶやいた声に、自嘲気味な笑いがにじんだ。

かつて称賛され、売れたと信じ込んでいたあの絵。あの喜びは、マリーが仕組んだ虚飾の上に成り立っていたらしい。マリーが何のためにそうしたのか。私のためだったと信じたい。が……。私から簡単に離れていったマリーの思惑はそこではないだろう。

それでも――マリーを愛していたことだけは、後悔していない。

いや、少しは、したな……。裏切られた、と憎んだ。だけど今、胸を締めつけるのは、悲しみでも怒りでもない。

あの幸せだった日々の思い出が、いまだに私を苦しめる。

それほどまでに、愛していたのだ。

技術が身につくほど、目が肥えていくほど、自分の絵の技術の未熟さが骨の髄まで分かってしまう。かつての絵は、ひとりよがりで、見苦しい。よく自慢げに披露できたものだ。

才能のない者の絵を、誰が買うというのか。

私には、何ひとつ残らなかった。貴族名簿からも名を消され、社交界の誰もが、私の存在ごと過去にした。知り合いにばったり会っても、かえってくるのはこんな言葉だ。

「君……もしかして“アルベルト・ベラトラム”……か?」

笑うしかない。こんな反応は当たり前だ。

みすぼらしい今の私を見て、誰が“あの頃”を思い出せるだろうか。

残されたのは、筆と、描くという行為だけだった。

「せめて、この絵のように描けたなら……」

目を向けたのは、壁にかけられた一枚の絵だった。

この部屋を内見しに来たときには、なかったはずだ。

しかし、越してきた日、なぜかひとつだけ、ぽつんと壁に掛けられていた。マティアスの忘れ物だろうか? いや、そんなわけがない。彼の絵は高額で取引されているのだから、1枚たりとて置いて行くものか。

静かな夕暮れ。美しく、そして、どこか寂しい街並み。

その絵は見るたびに、私の心の奥をやさしく掻きむしった。

ああ、なぜだろう。母上を思い出す。

もう戻ることができない、自らの手で捨てたあの日々、あの場所のことも思い出す。

ある日、古びた新聞の片隅で、小さな記事に目がとまった。

『サンリリー商会、王都文化庁と提携――若手芸術家支援プログラム発表。“可能性を、誰にでも”』

そこに、クロエの名前があった。

しばらく視線を落としたまま、やがて、ふっと笑みが漏れた。

「……あいつは、強いな」

誰からも頼られ、前を向き続ける賢いクロエ。

元妻という感覚は無いに等しい。母上に一目置かれ、愛された、母上の義娘だ。口には出さなかったあの頃の悔しさも、嫉妬も、今は、もう胸に湧き上がることすらない。

その日は、不思議なほど空が澄んでいた。

薄曇りの多いこの界隈では珍しく、陽光がアトリエの窓をやわらかく照らしていた。

埃を含んだ光が、古びた絵の具箱を照らし、乾いたキャンバスに長い影を落とす。

私は、静かに筆を置いた。何度も、何度も挑んできた。どこかで、奇跡を待っていたのかもしれない。

でも、描いても、描いても、満足には届かない。

「ああ、そうだ……今日にしよう」

その言葉は、誰に向けたわけでもない。

ただ、自分を納得させるためだけの、小さな吐息だった。

“支え”があった頃の幻想は、今日でもう捨てよう。

どう生きるかに必死な今、思い返すたび、心のどこかに罪悪感が生まれる。人にかけた心労。負担。かつての私はよくあそこまで傲慢になれたものだ。

母を思うと今さらながら胸が苦しむ。意地を張って死に目にも会いに行かなかった。

「……何もしないまま朽ちて、何も変わらないまま母上に会うのは嫌だな」

私は背筋を伸ばし、立ち上がった。誰かに聞かせたい言葉ではなかった。でも、口に出した瞬間、体の奥から何かがほどけるような気がした。

私は机の上に並んだ筆を一本ずつ丁寧に拭いた。絵の具を箱に収め、蓋を閉じる。そして柔らかな布をかけた。

今日これまでの時間に、ひとつの区切りをつけるように。そしてーー

また、いつか筆を手にする日には、笑っていられるようにと。

窓を開けると、朝の空気が頬に触れた。

まだ人通りの少ない路地に、パン屋の香ばしい匂いが流れ込んでくる。

遠くで、行商人の威勢の良い声が響いていた。

かつての私が見下していた“地道な暮らし”というやつだ。なんの飾り気もない、ただの朝。ありふれた日常。

貴族だった頃の私なら、鼻で笑っていたかもしれない。

でも今は――この日常こそが、まっとうで、尊いもののように思える。

「どこか、雇ってくれるところがあるだろうか……荷運びでも、帳簿でも、なんでもいい」

貴族としての誇りや虚勢を捨てた今、ようやく本当の意味で“自分の足”で立ちたかった。

過去は取り戻せない。

それでも、歩き出すことなら――いつだってできる。

私は深く息を吸い、扉に手をかけた。

開いた先の陽射しが、優しく頬を照らす。

少しだけ、目を細めて笑った。

「……まずは、朝食からだな」

かつて“男爵”と呼ばれた男は、人波の中へと紛れていった。

ようやく、地に足をつけて歩き出す。

それが――アルベルトの、新しい人生の始まりだった。