軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

32.鉄格子の男爵

アルベルト様に会うため、私は静かに面会室の扉を押し開けた。冷たい金属音が微かに響く。

鉄格子の向こうに座る男――それがかつてのアルベルト様だと、すぐには信じがたかった。かつては背筋を伸ばし、誇らしげに肩を張っていたその姿は、見る影もなく崩れていた。やつれ果て、虚ろな目でこちらを見つめる彼からは、気位の高さも、貴族としての矜持も感じられない。

「クロエ……はは、お揃いで何の用だ。まさか、私を笑いに来たのか?」

その声には、やせ我慢の笑みと、それを支えきれぬ疲労がにじんでいた。頬はこけ、目の下には深い影。牢で過ごした日々が、静かに、しかし着実に彼の誇りを蝕んでいたのだろう。

「偽証をお認めにならないと伺いました」

「当たり前だ!」

声だけは大きく張っていたが、それは空虚な反響に変わった。

「私は……本当に何も知らなかったんだ。何を認めろというんだ……!」

やはり、何も知らされていなかった。操られていたというわけね。

「魔道具を借りたのは、使用人だったそうですわ。アルベルト様は、証拠不十分で、間もなく釈放されるとか。おめでとうございます」

「使用人が……私を? 騙した……? なぜ……なんのために……?」

アルベルト様の口元が歪み、声が震えた。

「は、はは……釈放されたところで、どこへ行けというんだ。私には、もう……何も残っていない……」

すべてを失ったという顔。彼には、誇りが剥がれ落ちた後に残るものがなかったのだ。

――マリーはどうしたのかしら。

あの人も、あなたを見捨てたの?

「アルベルト様。今日お会いしたのは、きちんとあなたと――綺麗に縁を切るためです」

「……私とて、お前などともう関わりたくない」

私はそっと横に目を向けた。ルシアンがそこに立ち、黙って私にうなずいた。その静かな瞳に支えられ、私は次の言葉を告げる。

「では、爵位をあなたに譲ります」

「……今、なんと言った?」

瞬間、彼の目がぎらりと光った。餌の匂いを嗅ぎつけた獣のように、貪欲な光がその顔に戻る。

「爵位を、譲ると言ったのですわ」

「爵位……はっ! やはりお前には荷が重かったか。ふはは、愚か者め。最初から私に任せておけばよかったんだ。母上も、まったく無駄なことを……」

母ーー聞いた瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。けれど、私は表情を変えない。

「これで、マリーに会いに行ける。ベルトラム男爵としてな!」

彼の目が、執着の色を帯びて輝いた。爵位――それだけが、たったひとつの、彼を形作る最後の鎧。

「では、グレゴリー」

「はい」

側に控えていたグレゴリーが静かに進み出て、書類の束を差し出した。アルベルト様はそれを受け取り、震える手でひとつずつ、確認していく。

「印章も……あるのだろうな?」

「ええ、こちらに」

私は小箱を開き、中に納めた家の印章を差し出す。それを見た彼の顔が、満足げに歪んだ。

「養子縁組解消の書類もございます。今、あなたは正式にベラトラム男爵となりました。どうぞ、当主としての最初の仕事としてサインをしてください」

「……ああ、もちろんだ。喜んでサインしよう。くくく……これでお前はただの平民だな。身の丈に合っているだろう。せいぜい、愚かしく、惨めに生きるがいい!」

彼は高笑いを浮かべながら、勝者のような顔で書類にサインをした。

けれど――私にはその姿が、哀れで、みすぼらしくしか映らなかった。

「……それでは、ベラトラム男爵様。失礼いたしますわ」

そう言って私は、深く一礼する。

ええ。間違いなく、あなたがベラトラム家最後の男爵。

その名とともに、ゆっくりと沈んでいく人。

そしてその名を手放し、愚かしく、惨めに未来へと歩き出す者。

扉が、重い音を立てて閉じる。

鉄格子の向こうから聞こえる笑い声は、やがて壁に吸い込まれるように消えていった。

私は、振り返らなかった。

*****

side アルベルト様

扉が閉まった。

鉄格子の向こう、あの女の姿が見えなくなった途端、何もかもが静まり返っていく。

「……ふっ、は、はは……ははははは!」

胸の奥がすうっと軽くなる。

あいつの顔を見た時は、どうしようもなく苛立った。あの、薄っぺらな言葉と哀れみの目。だが……終わったのだ。私は勝ったのだ。そうだろう?

「そうだ……これでいい、これでようやく私は……元に戻れる……! いや、元よりもっと上へ行ける……」

手の中の書類が、かさりと音を立てる。

折り目だらけの紙なのに、やけに重い。胸に押し当てると、ひどく安堵する。

爵位譲渡の書類……これがあればいい。

これさえあれば、私は――ベラトラム家の名を背負って、もう一度立ち上がれる!

「……マリー」

名前を口にしただけで、涙が出そうになる。

いや、泣くものか。私は、何も失ってなどいない。

全てを取り戻すのだから。

思い浮かぶのは、あの優しい微笑み。白い陶磁器のティーカップを持つ細い指先。

陽差しの下、レースのカーテン越しに揺れていた髪。

マリー……お前は私のものだ。誰よりも私を理解していた。

だから、また戻るんだ。

「今度こそ……迎えに行くよ。ベルトラム男爵として、お前を」

私はまだ、何も終わってなんかいない。いや、始まってすらいなかったんだ。

爵位、名誉、誇り……そうだ、私は貴族だ。お前にふさわしい男だ。

マリー、待っていてくれ。

お前が望んだ世界を、今度こそ私が用意してみせる。お前の笑顔の隣に、私は再び立つのだ。

……クロエ。賢く、誰からも頼りにされる女。だが、夫である私を貶め、辱めた張本人――けれどそれも、今日で終わりだ。

爵位は戻り、名も戻った。

あいつは平民に逆戻り。ふさわしい終わり方じゃないか。だから許してやろう。

「……マリー、もうすぐだ……もうすぐ、すべてが戻る……」