軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

25.静かなる偽証 sideマリー

sideマリー

「アル? こんなところで……何をしてるの?」

窓は開け放たれ、春の光が静かに室内へ差し込んでいた。その光の中に、アルの背中がくっきりと浮かび上がる。

手には筆。

キャンバスには、まだ乾ききらない絵の具が瑞々しく煌めいていた。

私は思わず、息を呑んだ。――その“緊張”は、期待からではなかったけれど。

「おお、マリー! ちょうどよかった。君に……これを見せたかったんだ」

彼は嬉々として振り返り、満面の笑みを浮かべながら、キャンバスをこちらに差し出した。

「これは……まさか、アルが……?」

言葉が喉でつっかえた。いや、何か言わなければという義務感だけで、ようやく声をひねり出した。

目の前にあるのは――絵、らしきもの。

色彩は暴れ、構図は迷子、遠近感は行方不明。何より、描かれている人物が、どこかで見たカエルの人形に似ている気がした。

……どうして彼は、こんな腕で絵を描こうと思ったのかしら?

「ああ、そうだよ。すごいだろう?」

得意げなその顔に、私は思わずまぶたを強く閉じたくなった。

「……すご、い? ええ、本当に……アルにしか描けない絵だわ」

嘘じゃない。だって、こんな絵、アルにしか描けない。

色使いは……斬新。構図は……自由すぎる。

そして筆致は――まるで、自信と不安と情熱と迷いを一つに溶かして床にぶちまけたような。

落ち着かない。というか、むしろ不安になる。

「……自分の才能が、少し……恐ろしくなるよ」

冗談のつもりなんだろうか。いえ、本気ね……

その瞳は、確かに何かを信じていた。

……自分の中に眠る“芸術”の片鱗みたいなものを。

……嘘でしょ。

でも――

「そうね。アルは、絵に集中すべきだわ。今すぐにでも」

「……え?」

アルの戸惑う声が返ってくる。

「アルになら、マティアスにも負けない絵が描けるわ。きっと」

「そうだろうか、いや……そうだ! 私になら、描ける!」

目を見開いたアルの声に、一瞬だけ本物の輝きが宿った。誰かの言葉に背中を押されるのを待っていたかのように。

「ふふ、アル? そうと決まったら、商会のことは、父に任せてみてはどうかしら」

「君の……お父上に?」

「ええ。父には、これまでに築いた人脈と経験があるわ。一時的とはいえ、権利を父に渡すのは不安だと思うけど……ここから立て直すことも――きっとできる」

「本当にいいのだろうか……それは、とても有難いが」

アルの声が微かに震えた。救われたような、解き放たれたような――そんな響きだった。

私は彼のその顔を、静かに見つめる。

「私は、アルに絵を描いてほしいの。魂を削ってでも描いた傑作を、この世界に残してほしいのよ」

手を握り訴える。彼は何かを言いかけて、けれど言葉を呑み込んだ。そして、ただ、深くうなずいた。

「ああ……君の期待に、きっと応えてみせるよ」

ええ、期待しているわ。

そのまま、しばらくこもっていくれることを。

扉が音もなく開かれ、私は一度だけ振り返る。室内に差し込む光は傾き、彼の背に影を落としていた。けれど彼はそれに気づかない――もう、視線はキャンバスの向こうを見ている。

そう、それでいいのよ。

私は廊下へと一歩を踏み出し、静かに扉を閉じた。

「……よろしかったので?」

背後で、使用人が控えめに問う。

ここに来た理由を思えば、当然の疑問ね。

「絵を描くのをやめさせようと思っていたけど、予定を変更するわ。アルには、しばらく絵に専念してもらう。その方が――結果的に、私の利益になるもの」

窓をゆっくり閉じながら、私は微笑む。窓に映る私に顔には冷たくも穏やかな、計算された笑みが浮かぶ。

「下手に動かれて、余計な損害を出されては困るわ。傷が浅いうちに、止血しておかないとね」

「確かにそうでございますね」

思いがけず商会の権利を手に入れた。アルが気付かないように、譲渡の契約書にもサインさせないと。

さあ、忙しくなるわ――商会の情報を根こそぎ集める。

管理体制、保有特許、取引条件、貴族や他商会との繋がり……

全部洗い出して、掌握する。

アルにかけた時間。その価値を、私はきっちり取り戻すわ。――まだ商会の形が残っているうちに。

アルには、絵が売れたことにして、小金でも渡せばいい。

少ないと言われたら「マティアスも最初はそうだった」と言えば、納得するでしょう。欲に火がつき、しばらくこもってくれるのなら、それでいい。

「お嬢様、例の二人が客室で待っております」

「わかったわ」

アルの母親と、クロエの声に酷似した女たち。

その二人を使って、証言を――偽造しなければならない。

話し方の癖、抑揚の乗せ方、息の抜き方。打ち合わせは、入念に。妥協は一切できない。

クロエたちを知らない者には、いくら声が似ているとはいえ、絶対に話し方を真似できない。ならば、二人を知る私が指導しなくてはいけないわ。……アルには無理ね。

ええ、アルにも――騙すつもりで、やらないと。

ここからが、本番。

静かな嵐が、じわじわと輪郭を持ちはじめる。

「さあ、行きましょう」

誰にも悟られてはならない。完全な、精巧な、嘘。

けれど、その嘘が真実を揺るがす。

部屋に入ると、背筋の伸びた姿勢と、どこか人を寄せつけない空気。あれが“声が似ている”女たち。

「……話は聞いております。時間がないので、早速」

クロエの声にそっくりだわ!

いいわ。余計な前置きは必要ない。

私は台本を差し出し、彼女たちの喉に、クロエとアルの母を宿らせる。

一言一言、抑揚、間合い、口元の動かし方まで――染みこませるように。

「……ここは、もう少し上ずらせて。もっと不安げに、でも内側に怒りがある声で」

「こう、かしら?」

返ってきた声に、私は思わず息を呑む。

この人もアルの母親の声に――似ている。

「いいわ。それで続けて」

演技は、最初の一声で決まる。観客が嘘だと気づかないように。

真実よりも真実らしく。

この作戦は、成功させなければならない。

後戻りはできない。私の未来のために。