作品タイトル不明
【番外編】名もなき父の十年戦争
国境の砦に広がるのは、剥げ落ちた鉛のような空と、凍てついた静寂だけだった。
足元に転がるのは、折れた剣と槍、そして物言わぬ戦友たち。
吐き出す息は白く濁り、血の味が混じる。
眼下を埋め尽くすのは、バルドール連邦軍の陣列。
その数、およそ五百。
対して、こちらの立っている者は、俺、ローヴィン・フォレストしかいない。
背後の村には逃げ遅れた民がいる。その遥か後方には、愛する妻と幼い子供たちが待つ家がある。
退くわけにはいかない。
例え、これが 蟷螂(とうろう) の斧だとしても。
俺は刃こぼれした剣を握り直し、最後の力を振り絞って踏み込んだ。
死への恐怖はない。ただ、帰りを待つ妻に、子供たちに、血塗れの死に顔を見せることが申し訳なかった。
轟音。衝撃。世界が暗転するその瞬間まで、俺は一人の父親であり続けた――はずだった。
◇
覚醒は氷水を浴びせられたような冷徹な痛みと共に訪れた。
薄暗い天幕。鼻をつくのは鉄錆とオイルの臭気。
手足は重い鎖で拘束され、首には冷ややかな金属の輪が嵌められている。
「目が覚めたか、英雄殿」
闇の奥から響いたのは、感情を削ぎ落とした事務的な声だった。
エドガー・センチネル大佐。その瞳は、まるで人を見ている目ではない。
有用な部品を査定する管理者の目だ。
「単刀直入に言おう。貴様は公式記録上、この砦で『戦死』したことになっている」
大佐は一枚の羊皮紙を無造作に放り投げる。
そこには俺の死亡通知書と、故郷への報復攻撃計画書が並べられていた。
「選択肢は二つだ。このまま死んだ者として処理され、報復として君の家族が、そして故郷が地図から消えるのをあの世で嘆くか。あるいは我々と契約するかだ」
大佐は革靴のつま先で俺の顎をしゃくり上げ、囁く。
「その卓越した戦闘技術を連邦に提供しろ。君が『兵器』として有用である限り、故郷の家族には手出ししないと保証しよう」
それは契約などではなく、魂の強奪だ。
俺が生きている限り、家族は人質であり続ける。
だが拒否すれば、愛する者たちまで失ってしまうことになる。
迷う余地などなかった。
血に塗れた指でペンを握り、羊皮紙にサインを刻む。
その瞬間、俺の人生から、『ローヴィン・フォレスト』という名が剥奪された。
「賢明だ。名無しの『アンノウン』よ」
「……俺に何をさせる気だ?」
俺が問うと、大佐は侮蔑の色を隠そうともせずに鼻を鳴らす。
「ふん、勘違いするな。今の貴様は、ただの『敗軍の将』だ。無駄なプライドを持った剣士など使い物にならん。まずは、その自我を粉砕し、命令にのみ従う『道具』に作り変えるだけだ」
◇
移送された先は、西の果てにある岩塩鉱山だった。
そこは人を家畜へと作り変えるための更生施設。
空は常に粉塵で煙り、大地は乾ききってひび割れている。
ただ暴力と労働だけが支配する地獄だ。
「404番! 休むな、動け!」
看守の罵声と共に、革鞭が空を切り裂く。
だが、悲鳴を上げることすら許されない。
ぬかるみに倒れ込み、それでも俺はつるはしを握り直す。
軍事利用されるはずの俺に与えられたのは、剣ではなく、つるはしだった。
朝から晩まで岩を砕き、運び出すだけの単純作業。
食事はカビの生えたパンと、泥水のようなスープ。
周囲の囚人たちは、次々と過労と疫病で倒れ、ゴミのように廃棄されていく。
ここでは命よりもつるはし一本の方が価値がある。
――自我を殺せ。思考を止めろ。ただ命令に従うだけの肉塊になれ。
それが大佐の狙いだった。
反抗する気力すら奪い、完全に飼い慣らされてから戦場に送り出すつもりなのだ。
自分が誰なのか、なぜ生きているのか。思考が霧の中に溶けそうになる夜が幾度もあった。
そんな時、俺は瞼の裏に『聖域』を築いた。
想像の中で、俺は軋む扉を開ける。
そこには温かいスープの香りと、暖炉の爆ぜる音が満ちている。
『あら、お帰りなさい』と、レーレシアが呆れたように、けれど慈愛に満ちた瞳で出迎える。
『父さん!』と、ルルティアが飛び込んでくる。
『お父さん、見て』ララーナが得体の知れない植物を自慢げに掲げる。
『今月の稼ぎは?』と、リリアナが眼鏡を光らせて手を差し出す。
『おかえりなさい……』エルヴィンは小さくあくびをしている。
その記憶だけが、俺を人間たらしめる唯一の 楔(くさび) だった。
鞭で打たれる痛みも、骨まで凍る寒さも、この思い出を守るための代償だと思えば耐えられた。
傍から見れば、薄汚れた囚人が、虚空を見つめて笑う狂気の光景だっただろう。だが俺にとっては、そこだけが色彩を持った現実だった。
そしてある日、落盤事故が起きた。
崩落した坑道の奥で、若い囚人が足を挟まれ、悲鳴を上げる。
「放っておけ、新しい備品を補充した方が安いからな」
看守は煙草を吹かしながら吐き捨てる。
だが、俺の体は思考より先に動いていた。
逃亡防止用の首輪が作動し、鋭い針が首に食い込む。激痛が視界を白く染める。それでも俺は、崩れ落ちる岩盤を背中で受け止めた。
「……逃げろ!」
「なんで……あんた、死んじまうぞ!?」
「いいから早く逃げろ! 帰る場所があるんだろうが!」
男を放り投げ、代わりに岩が俺の背骨を軋ませる。
体は無事では済まないが、俺は笑っていた。
この痛みは生きている証だと。
俺はまだ『物』じゃない。
誰かを守れる『父親』なのだと。
◇
落盤事故の後、俺は鉱山から引きずり出されるように外へ出される。
入口の前に立っていたのは、下卑た笑みを浮かべた大佐だった。
「まさか生きていたとはな。まあ、いいだろう。貴様の自我は砕けなかったが、その異常なまでの頑丈さは証明されたわけだ」
大佐はつまらなそうに言い捨て、新しい命令書を突きつけてきた。
「合格だ。もはや更生は不要。今日からアンノウン、貴様を連邦軍の『特別訓練施設』へ送る。そこで我が軍の精鋭たちを鍛え上げるための『壁』となれ」
そこからが本当の地獄の始まりだった。
俺は鉄仮面を被らされ、名前のない教官『アンノウン』として、軍事施設の演習場に立たされることになる。
相手は連邦の兵士、あるいは死刑囚で構成された突撃部隊。
俺の役割は、彼らの攻撃を受け止め、叩きのめし、実戦データを抽出するための生きた標的となること。
殺さなければ殺される、血と泥に塗れた実戦演習。
だが、俺は決して彼らを殺さなかった。
相手の武器を弾き、無力化して勝負を決める。
「なぜ殺さない」「手加減するな」と上官たちは罵ってきたが、これは俺の最後の抵抗であり、人としての 矜持(きょうじ) だ。
汚れた手で、あの子たちを抱きしめたくない。
いつか帰れた時、胸を張って「ただいま」と言いたい。
その祈りにも似た誓いが、皮肉にも俺を、決して殺せない最強の兵士へと昇華させていった。
やがて『アンノウン』の名は、連邦軍内部で伝説となる。
いかなる武器も通じず、いかなる猛者も傷つけられない、不沈の防壁。
俺は連邦の武力を底上げするための、最も効率的な道具として消費され続けた。
そして、十年、いやそれ以上の時が過ぎた。
「王都へ行け」
大佐からの命令は絶対。
カイゼル王国で開催される国際闘技大会。
そこで優勝し、連邦の武威を誇示する。
つまり、我が軍の道具がいかに優れているかを、世界に見せつけろという政治的パフォーマンスだ。
俺は心底震えた。
――王都。そこは故郷の目と鼻の先。
もしかすれば家族が来ているかもしれない。
成長したあの子たちに会えるかもしれない。
だが同時に、絶望が胸を締め付ける。
仮に会えたとしても、俺は名乗ることはできない。
俺は連邦の所有物。
声をかければ、契約違反で首輪が作動するだけでなく、故郷は火の海と化す。
それでも、一目だけでいい。
家族が生きている姿を見たい。
心から願った。
そして王都の闘技場。
そこで俺を待っていたのは、運命という名の奇跡だった。
――ルルティア。
赤髪をなびかせ、あのお転婆だった次女が、俺と同じ構えで目の前に立っていた。
その瞳に宿るのは、俺譲りの野生と妻譲りの不屈の意志。
(本当に強くなったな、ルル……)
仮面の下で熱いものが頬を伝う。
剣を交えるたび、ルルの十年以上の時が、手に取るように伝わってくる。
重い一撃。鋭い踏み込み。迷いのない太刀筋。
その全てが、俺が教え、残していったものだ。
俺がいなくなった後も、ルルは俺の背中を追い、一人で、あるいは皆と支え合いながら剣を磨き続けてきたのだ。
俺は嬉しくて、楽しくて、わざと攻撃を受ける。
その痛みすらも、娘からの便りのように愛おしかった。
そして、仮面が砕かれた時、俺の目の前には愛する家族の姿があった。
変わらず凛として美しい、レーレシア。
成長した、ララーナとエルヴィン。
王国を背負うほど立派になった、リリアナ。
センチネル大佐が現れ、契約書と起爆装置を盾に絶望を突きつけた時、俺は覚悟を決めた。
ここで死のう。俺の命と引き換えに、この悪魔を道連れにして。
だが、俺の家族は違った。
リリアナが法を武器に大佐を論破し、ルルティアが剣で道を切り開き、エルヴィンが起爆装置をすり替え、ララーナが薬で首輪を溶かしてくれた。
そして妻は、誰よりも強く家族を統率していた。
「なんだ、これは……」
俺は呆然と立ち尽くした。
俺が守っていると思っていた家族は、いつの間にか俺よりもずっと強く、たくましくなっていた。
俺の今までの年月は、決して無駄じゃなかった。
家族の中に、俺の愛は生きていた。
そして皆は愛を武器に変えて、地獄の底から俺を救い出してくれたのだ。
◇
救出された俺は、とあるホテルの一室にいた。
バルコニーで夜風に当たりながら、俺は隣に立つリリアナを見る。
眼鏡の奥の瞳は、知的で、少し生意気で、けれど昔と変わらない優しさを秘めている。
「辛かったと言ってくれればよかったのに」
リリアナは泣きそうな顔で小さく呟いた。
俺は苦笑し、リリアナの頭を撫でる。
「辛くなかったさ。お前たちがいてくれたからな」
これは強がりではない。
地獄のような年月で、俺の心は家族と共に笑い、共に泣き、共に生きていた。
「おやすみなさい、お父さん」
リリアナが部屋に戻ると、再び静寂が訪れた。
俺は夜空を見上げる。
雲が晴れ、満月が輝いている。
首輪のなくなった首筋を撫でる風は心地よいが、同時に微かな血の匂いを運んでくるような気がする。
脳裏に蘇るのは、去り際の大佐の言葉だ。
『勘違いするなよ、これは一時的な撤退だ。そやつの所有権は未だ連邦にある。必ず回収に来る』
あの悪魔は諦めないだろう。
連邦という巨大な軍事国家にとって、俺は逃げ出した資産であり、国家の威信に関わる汚点だ。
いずれまた法と暴力という牙を剥いて、俺たちを噛み砕きに来るはずだ。
夜気に包まれたバルコニーで、俺は部屋の中へと視線を戻す。
窓ガラスの向こうでは、愛する家族が安らかな寝息を立てている。
あの子たちは強くなった。
俺がいなかった間に、生きるために牙を研ぎ、戦う術を身に着けていた。
俺は、それが誇らしく、そして同時に胸が張り裂けるほど悲しくもあった。
ただ笑って、恋をして、平和に生きてほしかった。
俺は強く拳を握りしめる。
――もう、二度とあの子たちには戦わせない。
大佐が来るというなら、来ればいい。
だが、その手が家族に伸びた時は、俺が全てを賭けて叩き折る。
それが、家族をほったらかしにした、父親としてのせめてもの償い。
俺は連邦の方角に背を向け、温かい光が漏れる部屋へと足を向けた。
明日からは、ただの父親に戻ろう。
家族と何気ない話を笑顔で話す。
そんな当たり前の日常を、命がけで守り抜くのだ。
俺は窓の鍵をしっかりと掛け、カーテンを閉じる。
もう二度と冷たい風は入れさせない。
「おやすみ、俺の宝物たち」