軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三十八話 聖女の秘密

翌日から、王都は熱に浮かされたような、異様な空気に支配されていた。

『聖女と王太子の成婚』。

そんな根拠のない噂が、瞬く間に既成事実として広まりつつあった。

中央広場で行われる聖女ルミナの説法には、連日数万もの民衆が押し寄せる。

「殿下は聖女様と結ばれるべきだ!」

「二人の愛こそが国を救うのよ!」

熱狂的なシュプレヒコールが、王城の窓際まで響いてくるほどだ。

彼らの合言葉は「清貧」。

それは、瞬く間に貴族の富を否定し、聖教国への寄付を正当化する危険な思想へと変貌していた。

私は変装用の地味なローブを目深に被り、広場に身を潜めている。

周囲を取り囲むのは、熱に浮かされたような民衆の波。

その視線の先、中央に設けられた仮設ステージの上、聖女ルミナが悲劇のヒロインさながら、涙ながらの演説を繰り広げている。

「欲をお捨てなさい! 宝石も、美味な食事も、魂を濁らせる毒となります! 全てを神に捧げて祈るのです!」

透き通る声が広場に響き渡る。

彼女は足元の籠から黒い塊を取り出し、高々と掲げた。

「我々が口にすべきは、この『忍耐の黒パン』です!」

見るからに固く、味気なさそうな黒いパン。

あれは聖教国の教義を象徴する、生命維持のみを目的とした食べ物だ。

だが、集団催眠に近い状態にある民衆たちは、パンをありがたく手に取っていく。

そこへ、一台の豪奢な馬車が乗り付けた。

イザベラ様だ。

彼女は優雅に馬車から降り立つと、後ろに控える『取り巻き軍団』に命じて、荷馬車の木箱を次々と運ばせた。

「お待ちなさい! 祈りだけではお腹は膨れませんわ! これは我が領地で採れた最高級の小麦で作ったパンと、新鮮なミルクよ! そんな粗末な塊ではなく、これを食べて健康になりなさい!」

それは、イザベラ様なりの『ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)』だった。

美味しいものを食べてこそ、人は幸せになれる。

イザベラ様の信念そのもの。

取り巻きたちも、「さあ、皆様どうぞ!」「焼きたてですわよ!」と甲斐甲斐しく配り始める。

だが、聖女ルミナは悲しげに首を横に振った。

「ああ……なんと罪深いことでしょう! 貴女は民を『美食』という快楽で堕落させるつもりですか? 貴女のその施しは、民から清らかな心を奪う毒です! ただちに持ち帰りなさい!」

ルミナが叫ぶと、扇動された民衆たちが一斉に呼応する。

「贅沢女は帰れ!」

「俺たちを堕落させる気か!」

罵声の雨がイザベラ様に降り注いだ。

普通の令嬢なら泣いて逃げ出すか、恐怖に震える場面だろうが、イザベラ様は違った。

「なんですって!? 美味しいパンの方がいいに決まってるわ! 貴方たちこそ、あの女に騙されているのよ!」

イザベラ様は扇子をミシミシと握りしめ、顔を真っ赤にして憤慨した。

「なんて味覚音痴な人たちなの! 可哀想に、舌が麻痺しているのね! いいわ、無理にとは言わないわ! ただし、後悔しても知りませんからね!」

涙など見せない。ただ、自分の純粋な善意と、絶対的な美味しさが理解されないことに、心底腹を立てているようだ。

私は物陰から手帳を開く。

公爵令嬢の尊厳を傷つけ、あまつさえ民衆に粗悪なパンを強要する。

到底看過できない。

王家のため、そしてイザベラ様の名誉のため、徹底的な『監査』が必要だ。

その夜、執務室にて、私は殿下に調査報告書を提出した。

「敵の狙いは『王家の乗っ取り』と『国富の搾取』です」

「それは俺も分かっている。だが、証拠はあるのか?」

「はい。まず、あの薔薇の花のトリック。王室錬金術師による成分分析が終わりました」

「ほう」

私は一枚の分析シートを指差し、淡々と事実を告げる。

「聖女の涙には東方の闇市で出回っている、違法な『即効性植物活性液』が含まれていました。そして床の隙間から、事前に仕込まれていた種子が発見されました。あれは奇跡などではなく、ただの化学実験です」

「……なるほど。だが、それだけでは『演出』と言い逃れされるな」

「はい。決定的な証拠が必要です。彼女が『聖女』などではなく、俗物的な欲望まみれの詐欺師であるという、動かぬ証拠が」

私の目は誤魔化せない。

あの聖女の肌のハリ、髪の艶、そして枢機卿の脂ぎった顔色。あれは忍耐の黒パンを食べている者の代謝ではない。裏で相当いいものを食べているはずだ。

「今夜、彼らの船に潜入調査をかけます」

「危険だ。外交特権を持つ船内への立ち入りは、見つかれば国際問題になる」

「ご安心ください。正規のルートでは入りません。我が家が誇る『潜入者』を使います。……エルヴィン」

私が窓の方へ声をかけると、外からエルヴィンが忍び込んできた。

「お邪魔しまーす。……っと、あっ! 初めまして、殿下」

「……待て」

アレクセイ殿下がペンを止め、眉をひそめた。

「ここの警備は国一番の精鋭部隊を配置しているはずだが……」

「ああ、あの黒い服の人たちのこと? 簡単に通り過ぎたよ」

「なんだと……」

殿下が絶句している。

何せ王宮の精鋭部隊が、12歳の子供に気配すら悟らせずに抜かれたのだ。

驚くのは当たり前だろう。

「ところで、姉さん。今回の報酬は何!?」

「聖教国の裏帳簿を見つけたら、『新作魔導遊戯盤』を買ってあげる」

「やった! 交渉成立! 行ってくるね!」

簡潔な交渉を終え、エルヴィンは影のように闇夜へと消えていった。

「……リリアナ」

「はい」

「お前の家の教育方針は、いったいどうなっているのだ?」

「『使えるものは親兄弟でも使え』と、幼い頃から、教えられてきましたが、それか何か?」

「いや……」

数時間後。

エルヴィンが持ち帰ったのは、一冊の分厚い日記帳と、数個の水晶玉(録音魔道具)、そして裏帳簿のコピーだった。

「豪華な部屋の隠し金庫にあったよ。これでしょ、姉さんが欲しがってたやつ」

エルヴィンは事もなげに言うが、外交特権を持つ聖教国の船内、さらに聖女の私室にある隠し金庫から、短時間で盗み出すなど、熟練の密偵でも至難の業。

優秀な弟を持って、私は幸せだ。

エルヴィンは窓枠に足をかけると、「あ、そうだった」と、思い出したように振り返った。

「姉さん、母さんが家の借金が無くなったって、泣いて喜んでたよ。あと、たまには顔ぐらい見せに来なさいって。ララ姉さんたちも会いたがってたよ。じゃ、またね」

エルヴィンは手を振り、再び闇夜へと消えていった。

まさか殿下の前で家庭の台所事情を暴露されるとは思わなかったが……。

殿下が「ほう、借金返済か」とニヤリとしている気配を感じるが、私は無視して眼鏡の位置を直す。

早速、聖女の証拠品を確認する。

まずは裏帳簿。

そこには清貧とは程遠い、欲望にまみれた支出の数々が並んでいた。

『聖女ルミナ・美容維持費:金貨3000枚』。

『最高級エステ・女神の休日コース:金貨300枚』。

『裏カジノ・掛け金:金貨1000枚』。

『会員制美青年サロン「夜の騎士団」への貢ぎ代:金貨2000枚』。

「……美青年サロンだと?」

「はい。どうやら聖女は、夜な夜な変装して王都の裏街で豪遊されているようですね。『忍耐の黒パン』どころか、最高級のヴィンテージワインを湯水のように開けておいでです」

次に、日記帳を開く。

そこには聖女のドス黒い本音が、美しい達筆で綴られていた。

『6月2日。田舎の説教は飽きた。早く大国の王子を捕まえて一生遊んで暮らしたい』

『アレクセイ王太子、顔はいいけど堅物そう。結婚したら即座に薬で廃人にして、私は言いなりになる愛人と国を牛耳るつもり』

『あのイザベラとかいう派手女は目障り。結婚したら真っ先に断罪して、あのドレスを売り払ってやる』

殿下のこめかみに青筋が浮かぶ。

イザベラ様の断罪計画まで立てているとは、命知らずにも程がある。

最後に水晶玉の録音データを確認する。

枢機卿と聖女の密談だ。

『チョロいものね、この国の奴らは』

『ああ、涙を流して「全てを神に捧げて祈る」と言えば、国一つが手に入る。これだから聖女ビジネスはやめられん』

『まあ、所詮は民衆なんてただの馬鹿。「清貧」と言っておけば、勝手に金を貢いでくれるもの。ああ、早く王妃になって、この国の宝物庫を空っぽにしたいわ!』

決定的な証拠確保。

私は日記を閉じ、殿下に視線を送る。

「……殿下、準備は整いました」

「ああ、やはり外交的配慮は無用だったな。リリアナ、徹底的にやるぞ」

「もちろんです」

神を騙り、民を欺き、あまつさえイザベラ様の善意を踏みにじった罪。

その代償は、高くつく。

「明日の婚約発表会見が楽しみです」

私は口元だけで笑った。

お楽しみの『断罪イベント(聖女編)』の時間だ。