作品タイトル不明
11.
しばらくして、インターホンが鳴り、熱々のカツ丼が二つ届けられた。
蓋を開けた瞬間、甘辛い出汁の香りと、卵でとじられたカツの暴力的な匂いが部屋いっぱいに広がる。
二人はローテーブルに向かい合い、パチンと割り箸を割った。
「あたし、こういう店屋物って初めてかも」
「そうなのか?」
一口目を頬張ろうとしていた奉太郎が、少しだけ意外そうに目を瞬かせる。
「あ、うん。お母さんが料理好きでさ。お家でご飯食べてて。作り方とか、全部教わったからさ」
サクサクのカツを齧りながら、聖華は明るい声で答えた。
しかし、その言葉の端々にある違和感に、奉太郎は気づいていたはずだ。
料理好きだった。家で食べていた。教わった。
すべてが過去形であり、この部屋には母親も、そして父親の気配すら存在しないことに。
普通の人間なら、気になって踏み込んでくる領域だ。
だが、奉太郎はただ静かにカツ丼を咀嚼し、短く「そうか」とだけ返した。
他人の踏み込まれたくない領域に、無遠慮に土足で上がり込まない。
その絶妙な距離感と不器用な優しさに、聖華の胸がジンと温かくなる。
(優しい。好きっ)
心の中でひっそりと呟き、見えない尻尾を嬉しそうにパタパタと振る。
出汁の染みたご飯が、いつもよりずっと甘く感じられた。
「おいしいね、このカツ丼」
「そうだな」
「うまーっ」
二人で並んで食事を平らげると、奉太郎は空になったプラスチックの容器を重ねて立ち上がった。
そのまま、聖華の部屋のキッチンへと向かっていく。
ザァーッ、と水を出して洗い場で容器を濯ぎ始めた彼を見て、聖華は弾かれたように立ち上がった。
「あ、あたしが洗うしっ!」
「いや、いいよ。君は座ってて」
「でもっ」
ご馳走になったうえに洗い物までさせるわけにはいかない。
聖華の五十三万IQの頭脳が、ぴしゃーんと音を立てて最適解を弾き出した。
「じゃあ、一緒にやろっ!」
聖華は小走りでキッチンに向かい、奉太郎の隣にピタリと並んだ。
スポンジに洗剤をつけ、彼が濯いだ容器をキュッキュと洗っていく。
肩と肩が触れ合いそうなほど近い距離。微かに香る彼のミント系シャンプーと、レモン風味の洗剤の匂いが混ざり合う。
「なんだか、新婚さんみたいだねーっ」
浮かれた気分のまま、聖華はぽろりと口を滑らせてしまった。
直後、自分の発言のヤバさに気づき、顔面から火が出る。
(ぎゃーっ! 付き合ってもないのに新婚さんとか、絶対にきしょいかもーっ!)
やらかした。また痛い女だと思われた。
絶望で膝から崩れ落ちそうになる聖華の耳に、奉太郎の淡々とした声が届く。
「傍から見ればね」
彼は気持ち悪がることも、変にからかうこともなく、事実としてただ受け入れた。
スポンジを持つ聖華の手がピタリと止まる。
(うー。優しすぎて、ヤバいよーっ)
どんな球を投げても、凪いだ瞳で真っ直ぐに受け止めてくれる。
その底なしの包容力に、聖華の心臓は完全にドロドロに溶かされてしまった。
洗い物を終え、奉太郎が玄関へと向かう。
「じゃ」
「うん、じゃあねっ」
ドアノブに手をかけた彼の背中を見送ろうとして、聖華はハッと気づいた。
「あっ、お金っ。あたしの分のカツ丼代!」
慌てて財布を取りに行こうとする聖華を、奉太郎は静かに制した。
「いいよ。俺のせいで、カレーをダメにしたし」
「えっ」
「これでトントンってことで」
奉太郎はそれだけ言い残し、バタンとドアを閉めて自分の部屋へと帰っていった。
一人取り残された玄関で、聖華は胸の前で両手をギュッと握りしめる。
もとはと言えば、カレーを作ったのは聖華の自分勝手な都合だ。
足をもつれさせてバランスを崩し、カレーをダメにしたのも聖華自身のミスである。
それでも奉太郎は、一切人のせいにせず、自分の不注意だったと罪を被ってくれた。
聖華の自尊心と恋心を守るために、彼がすべてをトントンにしてくれたのだ。
「好きだなぁ……」
ポツリとこぼれた本音は、甘い熱を帯びて静かな部屋に溶けていく。
誰でもヤらせてくれるという心無い噂に傷ついていた少女は、塩対応で優しすぎるお隣さんに、もう後戻りできないほど沼りきっていた。