軽量なろうリーダー

妹が「白いマントは私の方が似合います」と言うので、英雄の婚約者席も凱旋式の役目も譲りました。ですが遺族席を忘れていたようです

作者: 本城オブリゲータ

本文

「英雄の隣に立つなら、白いマントはわたくしの方が似合いますわ」

王城西棟の軍務局式典室で、妹のイレーネがそう言った。

ここはフォルスター侯爵家の応接室ではない。

グランヴィル侯爵家の客間でもない。

王国軍が公的な式典確認に使う部屋であり、壁際には軍務局の式典官と、凱旋式の警備を預かる近衛士官が控えていた。

向かいの椅子には、私の婚約者であるアルバート・グランヴィル様が座っている。

王国東境の戦から帰還した、若き英雄。

そして、その隣でイレーネは、まだ着てもいない白いマントをすでに肩へかけているかのような顔で微笑んでいた。

「お姉様は、凱旋式を少し暗く考えすぎですわ」

イレーネは、白い指先を胸元へ添える。

「せっかくアルバート様が勝って帰っていらしたのですもの。もっと華やかに、もっと明るく、民に希望を見せるべきでしょう?」

「希望を見せることと、帰らなかった人を忘れることは違うわ」

「またそういうことをおっしゃる」

妹は小さくため息をついた。

「遺族席だとか、負傷兵の通り道だとか、戦死者の名を読む順番だとか。お姉様はいつも、祝いの場で沈む話ばかりなさるのね」

私は膝の上で指を重ねた。

その言葉を聞いて、ようやく分かった。

この子は本当に、凱旋式をただの勝利の見世物だと思っているのだ。

「イレーネ」

私は静かに名を呼んだ。

「凱旋式は、英雄を飾るためだけの式ではないの」

「でも、民が見るのはそこですわ」

妹は即座に言った。

「広場へ戻ってくる騎士たち。花。楽団。王城の階段。英雄の隣で白いマントをまとって立つ婚約者。そこに堅苦しい顔のお姉様が立つより、わたくしの方がきっと皆さまも喜びます」

アルバート様が、そこで軽く咳払いをした。

私へ向ける目には、少しだけ気まずさがある。

けれど、止める気はない目だった。

「リディア」

彼は私の名を呼ぶ。

「君がこれまで、凱旋式の準備をよく支えてくれたことは分かっている」

「ありがとうございます」

「だが、今回の式は民の士気にも関わる。勝利の象徴として、もう少し華やかな見せ方が必要だと考えている」

勝利の象徴。

その言葉で、私は胸の奥が少し冷えるのを感じた。

凱旋式を勝利だけで作ると、そこからこぼれる人たちがいる。

その人たちのために、私は半年かけて順番を整えてきたのに。

「つまり」

私は静かに訊いた。

「私との婚約を解消し、イレーネを新たな婚約者候補として立てる、ということでしょうか」

「婚約解消の書面は、両家で手続きを進められる」

アルバート様は、少しだけ視線を逸らした。

「正式な婚姻前なのだから、制度上は可能だ」

「ええ。制度上は」

「そして凱旋式の婚約者席も、イレーネに任せたい」

婚約者席。

凱旋式で英雄の隣に立つ席。

白いマントをまとい、帰還した者を迎え、王国軍旗へ一礼する役。

見た目は、たしかに美しい。

青い石畳の広場。

王城へ続く白い階段。

軍旗。

楽団。

花を掲げる子どもたち。

民衆が見上げるその中心に立つ姿だけを見れば、妹が欲しがるのも分からなくはなかった。

「承知いたしました」

私がそう答えると、イレーネの顔が明るくなった。

アルバート様も、わずかに肩の力を抜く。

泣かれるか、責められるか、少なくとももっと面倒な反応を予想していたのだろう。

けれど、ここで取り乱しても、遺族席の位置は一つも整わない。

「では、婚約も、凱旋式の婚約者席も、イレーネへお譲りいたします」

軍務局の式典官が、手元の記録用紙へペンを走らせた。

近衛士官は表情を変えない。

その二人の反応で、私は少し安心した。

少なくとも、この場が正式な確認の場であることを分かっている人がいる。

「ただし、確認させてください」

私は続けた。

「凱旋式の婚約者席を変更する場合、遺族席の案内、献花順、負傷兵の入場導線、戦死者名の読み上げ、軍旗への礼、白いマントの意味について、すべて再確認が必要です」

「大げさだな」

アルバート様が言った。

ああ、と思う。

やはり最初に出るのは、その言葉なのだ。

「凱旋式まで、あと四日です」

私は穏やかに返した。

「大げさで済むうちに、確認しておいた方がよいかと」

「お姉様は、そういうところですわ」

イレーネが可愛らしく笑う。

「勝って帰ってきた英雄を迎える式ですのよ。遺族の方々にも、明るい顔で見ていただいた方がよろしいのではなくて?」

「遺族の方々が求めているのは、明るさだけではないわ」

「では何ですの?」

「名を呼ばれることよ」

私は言った。

「帰らなかった人の名が、王都の広場で一度でも呼ばれること。家族が前列でそれを聞けること。それがあるから、凱旋式はただの勝利の宴ではなく、帰還の式になるの」

「まあ」

妹は小さく首を傾げた。

「わたくし、そういう重い話はあまり得意ではありませんわ」

式典官のペン先が、一瞬だけ止まった。

私は見なかったことにした。

妹は、自分の言葉がどこへ落ちたのか、まだ分かっていない。

「引き継ぎはいたします」

私は椅子の横に置いていた革箱を、テーブルの上へ載せた。

中には、式次第の写し、遺族招待名簿、負傷兵の導線図、献花順の覚え書き、白いマントの扱いについての軍務局通達が入っている。

黒い紐は戦死者名の読み上げ。

白い紐は遺族席。

赤い紐は負傷兵の入場。

青い紐は王族と軍旗への礼。

金の紐は英雄本人の動き。

半年かけて、何度も確認してきたものだった。

「最前列に置く遺族代表は十二家。二列目以降は部隊別。負傷兵は東門から入れます。正面階段を使わせると松葉杖の兵が転びやすいので、南側の緩い通路を使います。戦死者名は、爵位順ではなく部隊番号順です。貴族家の者だけ先に呼ぶと、平民兵の家族が二度と軍の式に来ません」

「そんなにあるのですか」

イレーネが革箱を開き、最初の束を少し見て、すぐに閉じた。

たぶん、読む気をなくしたのだろう。

「あります」

「でも、それは軍務局の方が覚えていることでしょう?」

「軍務局が全体を動かします。けれど、英雄の婚約者席に立つ者は、遺族と負傷兵へ最初に礼をする立場です」

「わたくしが?」

イレーネが目を丸くする。

「英雄の隣に立つのに、そんなに何度も頭を下げるのですか?」

「英雄の隣だからこそよ」

「白いマントは、勝利を迎える花嫁の印ではありませんの?」

「違うわ」

私は首を振った。

「白いマントは、戦場の埃を払って迎える布です。帰ってきた者にも、帰らなかった者の家にも、同じ白花を届けるという誓いを示します」

「……お姉様は、何でも意味をつけすぎですわ」

妹は不満げに唇を尖らせた。

アルバート様が、そこで低く言う。

「リディア。イレーネを責めるような言い方はやめてくれ」

「責めているわけではありません」

「だが、君の話し方では、まるでイレーネが何も分かっていないように聞こえる」

「分かっていないので、説明しています」

部屋が静まった。

アルバート様の顔が、少しだけ強張る。

でも私は、言葉を引っ込めなかった。

「凱旋式は、勝利を誇るためだけのものではありません。どなたが何を知らず、何を省いたかは、広場に立った瞬間に表へ出ます」

「表へ?」

イレーネが首を傾げる。

「民はそこまで見ておりますの?」

「民より先に、遺族が見ます」

「遺族の方々は、英雄に感謝してくださる立場でしょう?」

「いいえ」

私は静かに答えた。

「感謝すべきは、こちらです」

「……お姉様は、本当に暗いですわ」

妹はため息をついた。

「大丈夫です。わたくしなら、もっと明るい凱旋式にできます。アルバート様の勝利を、王都中に見せて差し上げますわ」

アルバート様は、その言葉に少しだけ微笑んだ。

彼は疲れているのだと思う。

戦から帰り、死んだ部下の名前を聞き続け、負傷した兵の顔を見続け、明るく祝ってくれる誰かに救われたくなったのだろう。

それは分かる。

けれど、分かることと許せることは違う。

「分かりました」

私は革箱を妹の前へ押し出した。

「それでは、明日から凱旋式に関する確認はすべてイレーネへお願いいたします」

「待て」

アルバート様が、思わずというように声を上げた。

「すべて、とは」

「婚約者席に立つのはイレーネなのでしょう?」

「だが、君はこれまでの流れを知っている。式が終わるまでは、補佐として」

「私は婚約者ではなくなるのですよね」

私は静かに問い返した。

「婚約者ではない女が、婚約者席の役目だけを担うのは、軍務局にも、遺族の方々にも失礼です」

「それは……」

「もし私の協力が必要でしたら、軍務局より正式な補佐依頼をいただければお受けいたします」

式典官が、そこで初めて小さく頷いた。

そう。

必要なのは、そういう線引きだ。

婚約者だから当然やる。

姉だから手伝う。

これまでそうしてきたから続ける。

そんな曖昧な形で、帰還と追悼の式を動かしてよいはずがない。

「リディア」

アルバート様の声が低くなる。

「君は私に恥をかかせたいのか」

「いいえ」

私は微笑んだ。

「今までずっと、あなたに恥をかかせないために動いてまいりました」

そこで一拍置く。

「その役目を、本日で終えるだけです」

アルバート様の顔から、ほんの少しだけ余裕が消えた。

イレーネはそれに気づかず、革箱の留め金を楽しそうに撫でている。

「大丈夫ですわ、アルバート様」

彼女は明るく言った。

「お姉様がなさっていたことくらい、わたくしにだってできます。民は難しい順番ではなく、英雄の姿を見るのですもの」

私は立ち上がった。

これ以上、この場で言うべきことはなかった。

「では、失礼いたします」

最後に一礼して、私は式典室を出た。

扉が閉まる直前、イレーネの弾んだ声が聞こえた。

「白いマントの縁に、金の刺繍を足せないかしら。勝利らしくて素敵だと思いますの」

私は廊下で足を止めなかった。

白いマントの縁が白いままなのは、勝利を誇るためではない。

帰らなかった者の家へも、同じ布を持っていくという意味を残すためだ。

それを説明する役目も、もう私のものではなかった。

翌朝、軍務局から使いが来た。

フォルスター侯爵家の応接室で、私は封書を受け取った。

そこには、凱旋式の婚約者席変更について、私に最終確認を求める文面が記されていた。

私は短く返書を書いた。

アルバート・グランヴィル様との婚約解消、および凱旋式婚約者席の変更は、軍務局立会いのもとで確認済み。

今後の式典確認は、新たに婚約者候補として立たれるイレーネ・フォルスターへお願いいたします。

私リディア・フォルスターは、正式な依頼なき限り、凱旋式の準備に関与いたしません。

書き終えたあと、胸の奥が少しだけ痛んだ。

軍務局を困らせたかったわけではない。

兵たちを困らせたかったわけでもない。

遺族の方々を傷つけたかったわけでもない。

けれど、ここで私が一つでも答えてしまえば、また同じことになる。

白いマントは妹がまとう。

英雄の隣にも妹が立つ。

けれど、遺族席も、負傷兵の導線も、戦死者名の読み上げも、見えない部分だけは私が整える。

そんな形は、もう終わりにしなければならない。

二日目には、式典官から父へ確認が届いた。

私は偶然、玄関広間でその報告を聞いた。

「イレーネ様が、遺族代表との事前挨拶を欠席されました」

「体調が優れなかったのだろう」

父は困ったように言った。

「いえ」

式典官は表情を変えずに返した。

「凱旋式用の髪飾り合わせを優先されるとのご返答でした」

「……そうか」

父の視線が、こちらへちらりと向く。

私は何も言わなかった。

父も何も言えなかった。

今さら私へ頼めば、婚約者席変更の意味がなくなることくらいは分かっているのだろう。

三日目には、遺族席が後ろへ下げられたと聞いた。

イレーネは、広場の前列には花を持つ子どもたちを置いた方が明るく見えると言ったらしい。

本来、最前列は遺族席だ。

帰ってきた者を最初に見るのは民衆ではなく、帰らなかった者の家族でなければならない。

その後ろに負傷兵。

そのさらに後ろに、花を持つ子どもたち。

順番には意味がある。

けれど、妹にはそれが飾りの配置に見えたのだろう。

そして凱旋式当日の朝が来た。

王都の中央広場は、人で埋まっていた。

商人も職人も、貴族の子どもも、兵士の家族も、皆が王城へ続く白い階段を見上げている。

東境の戦は、王国にとって長い戦だった。

勝利した。

砦は守られた。

けれど、全員が帰ってきたわけではない。

凱旋式は、勝ったことを知らせるためだけの式ではない。

帰ってきた者を迎え、帰らなかった者の名を王都の空へ上げるための式だった。

私は貴族招待客の列の端に立っていた。

婚約者席ではない。

白いマントもない。

ただのフォルスター侯爵令嬢として、決められた場所に控えている。

選んだのは、灰青色の控えめなドレスだった。

白は、もう私の色ではない。

「リディア嬢」

低い声が、斜め後ろから届いた。

振り向くと、黒に近い軍礼装の男性が立っている。

ヴァルク辺境公爵カシアン閣下。

王国軍総司令官であり、今回の凱旋式では軍務全体の監督権限を持つ方だ。

王都の社交場ではあまり見かけないが、軍旗の下では誰よりも空気を支配する人だった。

「総司令官閣下」

私は一礼した。

「今日は、ずいぶん端にいるのだな」

「婚約者席ではございませんので」

「そうか」

カシアン閣下は広場へ視線を戻した。

「君の返書は読んだ」

「軍務局宛てのものですか」

「総司令部にも写しが回った」

私は少しだけ息を止めた。

当然といえば当然だった。

凱旋式の婚約者席変更は、軍務局だけの話ではない。

「明確でよかった」

カシアン閣下は言った。

「曖昧にしていれば、今日の責任も君に寄っただろう」

「責任が寄るのは、困ります」

「だろうな」

短い返事だった。

慰めでも、同情でもない。

けれど、奇妙に楽だった。

この方は、私を婚約を失った令嬢として見ているのではない。

どこまで線を引いた人間なのかを見ている。

「閣下は」

私は小さく訊いた。

「今日の凱旋式が、無事に終わると思われますか」

「無事の意味による」

即答だった。

「死者の名を省けば、早く終わる。だが、それは凱旋式ではない」

「そうですね」

「そして軍は、早く終わる式のために兵を死なせたわけではない」

静かな声だった。

怒鳴るより、ずっと重い。

私はそれ以上言えず、広場へ視線を戻した。

ちょうど、アルバート様の一行が入場するところだった。

彼は白銀の外套をまとい、胸には東境戦功章をつけている。

民衆の間から拍手が起きた。

その隣に、イレーネが立っている。

白いマント。

けれど縁には、規定より多い金刺繍。

肩には白花ではなく、勝利を示す赤いリボンが結ばれていた。

美しい。

たしかに美しい。

けれど、凱旋式の婚約者席としては、少しだけ違う。

「赤を足したか」

カシアン閣下が、ほとんど独り言のように言った。

「はい」

「どの程度まずい」

「意味を知らないと分かる程度には」

「なるほど」

閣下は短く言った。

「分かりやすくまずいな」

「はい」

分かりやすく、まずかった。

広場の前列には、花籠を持った子どもたちが並んでいた。

可愛らしい。

民衆の一部から、小さなどよめきも起きる。

けれど、その後ろにいる遺族たちの顔は硬かった。

本来、最前列にいるはずだった人たちだ。

老いた母。

黒いヴェールの妻。

父の古い軍帽を抱えた少年。

彼らは花の後ろへ置かれていた。

見えにくい位置に。

邪魔にならない場所に。

私の指先が、思わず強く握られる。

でも、何も言わない。

今の私は、正式な役目のない招待客だ。

楽団が鳴った。

本来より明るい曲だった。

勝利を称える曲としては間違いではない。

けれど、凱旋式の冒頭には使わない。

最初に鳴るべきは、帰還の低い行進曲だ。

帰ってきた者が、自分だけが帰ってきたことを理解しながら歩ける、遅い曲。

それがない。

「曲も変えたな」

カシアン閣下が言う。

「はい」

「誰が許可した」

「グランヴィル家側の歓迎演出として申請されたのだと思います」

「式典官は止めなかったのか」

「止めたはずです」

私は答えた。

「ですが、婚約者席の演出部分だと押し切られたのではないかと」

「後で聞く」

短い言葉だった。

その言葉があるだけで、少しだけ救われる気がした。

見逃されるわけではない。

なかったことにはならない。

少なくとも、この方はそうするつもりがない。

式は進んだ。

アルバート様が階段の中央へ進む。

イレーネが隣で微笑む。

子どもたちが花を掲げる。

民衆は拍手をする。

表から見れば、華やかだった。

だからこそ、歪みがよく見えた。

負傷兵の列が、東門からではなく正面階段へ向けられている。

松葉杖の兵が一人、段差の前で足を止めた。

隣の兵が肩を貸す。

彼らはどうにか上がったが、その間に行進の列が詰まった。

楽団が音を伸ばしてごまかす。

民衆は気づかない。

でも兵は気づく。

負傷して帰った自分たちの通り道が、誰にも考えられていなかったことに。

「正面階段を使わせたのか」

カシアン閣下の声が低くなる。

「南側の緩い通路を使う予定でした」

「なぜ変えた」

「英雄の後ろを負傷兵が通ると絵が暗くなる、とイレーネが言っていたと聞きました」

「暗い」

閣下は、その言葉だけを繰り返した。

それ以上は何も言わなかった。

でも、その沈黙の方が怖かった。

やがて、戦死者名の読み上げの時が来た。

本来なら、部隊ごとに名を呼ぶ。

爵位の高い家の者からではない。

騎士も、従士も、槍兵も、荷馬係も、同じ部隊の順に呼ぶ。

戦場では同じ列に立ったからだ。

そこだけは絶対に崩してはならない。

軍務局の式典官が、読み上げ用の紙を持って進み出た。

だが、イレーネがその前に一歩出た。

白いマントの裾が、赤いリボンと一緒に揺れる。

「本日は、勇敢に戦われたすべての方々へ、心より感謝を捧げます」

明るい声だった。

広場によく通る、可愛らしい声。

けれど私は、その瞬間に血の気が引いた。

名を呼ばないつもりだ。

「まさか」

私が呟くと、カシアン閣下がこちらを見る。

「何だ」

「戦死者名を、省いています」

「全部か」

「おそらく」

手の中にあった扇を、私は強く握った。

「一人ずつ呼ぶと場が沈むから、と言っていたのを聞きました」

「……そうか」

カシアン閣下の声は、ほとんど冷え切っていた。

イレーネは続けた。

「帰られなかった方々の分まで、今日この場で、アルバート様の勝利を祝いましょう」

広場が、少しだけ静まった。

民衆のすべてが違和感を覚えたわけではない。

けれど、遺族席は違った。

最前列ではなく、花籠の子どもたちの後ろへ下げられた遺族たちが、同時に息を止めるのが見えた。

老いた母が、膝の上の手袋を握りしめる。

黒いヴェールの妻が、顔を上げる。

軍帽を抱えた少年が、口を開きかけて閉じる。

名前を待っていたのだ。

自分の息子の名を。

夫の名を。

父の名を。

王都の広場で、一度だけ呼ばれるはずだった名を。

それが来なかった。

最初に立ち上がったのは、黒いヴェールの妻だった。

彼女は誰にも文句を言わなかった。

ただ静かに椅子から立ち、手にしていた白花を椅子の上へ置いた。

次に老いた母が立つ。

その後ろで、少年が軍帽を胸に抱いたまま立つ。

遺族席が、音もなく崩れていく。

民衆の拍手が止まった。

負傷兵の一人が、敬礼していた手を下ろした。

もう一人も下ろす。

さらに後ろの兵も。

拍手も、楽団も、すべてが少しずつ遅れて歪んでいく。

「え……?」

イレーネの声が、白い階段の上で小さく響いた。

その声は、静まり返った広場では思いのほか遠くまで届いた。

「どうして」

妹は周囲を見回した。

民衆。

兵士。

負傷兵。

遺族。

全員が、同じものを見ている。

白いマントをまとい、英雄の隣で微笑む美しい令嬢。

けれど、帰らなかった者の名を呼ばなかった婚約者席。

「わ、わたくしは、明るくしようと」

イレーネが言う。

「せっかくの凱旋式ですもの。暗い名の読み上げを長く続けるより、皆さまで勝利を祝った方が」

「それが、凱旋式を変えるということです」

カシアン閣下が前へ出た。

その一歩だけで、広場の空気が変わった。

総司令官が動いたのだ。

楽団が止まる。

近衛士官が背筋を伸ばす。

アルバート様の顔から、ようやく血の気が引いていく。

「総司令官閣下」

アルバート様が声を絞る。

「これは、イレーネが民を思って」

「アルバート・グランヴィル」

カシアン閣下は、彼の言い訳を最後まで聞かなかった。

「君は、自分の部下の名を省かれて、それでも英雄として立つつもりか」

広場が凍った。

アルバート様の唇が動く。

でも、声は出なかった。

「私は」

彼はようやく言う。

「そのようなつもりでは」

「つもりは聞いていない」

カシアン閣下は静かに告げた。

「結果を見ろ」

その一言で、アルバート様は遺族席を見た。

空き始めた椅子。

置かれた白花。

敬礼を下ろした負傷兵たち。

止まった拍手。

そこまで見て、ようやく彼の顔に、本当の意味での恐れが浮かんだ。

「リディア嬢」

カシアン閣下が、私の名を呼んだ。

私はすぐに背筋を伸ばす。

「はい」

「この場を、完全な凱旋式として成立させる方法はあるか」

「ございません」

私は即答した。

閣下の目が少しだけ細まる。

「理由は」

「遺族席を下げ、戦死者名を省き、負傷兵の導線を誤りました。とくに名を呼ばなかった以上、今から何事もなかったように祝勝へ戻せば、王国軍がその省略を認めたことになります」

「では、終わらせる方法は」

「あります」

私は広場を見る。

遺族たちは完全には退席していない。

まだ迷っている人がいる。

負傷兵たちも、怒りと困惑の中で立ち尽くしている。

今なら、失敗は失敗として残したうえで、最低限の敬意へ戻せる。

「祝勝の凱旋式ではなく、帰還追悼礼へ切り替えます」

「具体的には」

「楽団を止め、英雄席を一段下げます。婚約者席の白いマントは外すべきです。遺族を前列へ戻し、負傷兵は南側の通路へ誘導します。戦死者名は、軍務局の正式名簿を使って部隊順に読み直します」

私は一度だけ息を吸う。

「その上で、アルバート様が自ら遺族席へ頭を下げる。勝利を祝うのではなく、帰還を報告する形へ変えるべきです」

「君は、それを組み直せるか」

「正式なご命令があれば」

私は答えた。

「今の私は招待客です。命令なく動けば、また責任が曖昧になります」

「いい返事だ」

カシアン閣下の口元が、ほんのわずかに動いた。

笑ったのかもしれない。

けれどすぐに、総司令官の顔へ戻る。

「王国軍総司令官カシアン・ヴァルクの名で命じる。リディア・フォルスターを、この場限りの式典補佐として任じる。軍務局式典官は彼女の指示を補助せよ」

「承知いたしました」

私は深く一礼した。

その瞬間、胸の奥にあった迷いが消えた。

正式な命令。

正式な役目。

ならば、動ける。

「楽団を止めたままにしてください」

私は式典官へ言った。

「花籠の子どもたちは、南側へ。怖がらせないよう、女官を二名つけてください。遺族席の椅子を前列へ戻します。空いた椅子の白花は、そのままに。戻れない方の席として残します」

「はい」

式典官がすぐに動く。

反応は早い。

やはり軍務局が無能だったわけではない。

権限のない相手に押し切られ、最後の判断を誰が取るかが曖昧になっていただけなのだ。

「負傷兵の列は、南側の緩い通路へ。階段を使わせないでください。松葉杖の兵を先に通し、歩ける兵は後ろへ」

「承知しました」

近衛士官が即座に合図を出した。

兵たちが動く。

先ほどまで詰まっていた列が、少しずつほどけていく。

「アルバート様」

私は彼へ向き直った。

彼は、今まで見たことがないほど青ざめた顔をしていた。

「白い階段を一段下りてください」

「私が?」

「はい」

私は続けた。

「英雄として上に立つのではなく、帰還した者として遺族に報告する形へ変えます」

「……分かった」

彼は、初めて素直に頷いた。

イレーネが隣で震えている。

「わたくしは」

彼女は白いマントを握りしめた。

「わたくしは、どうすれば」

「マントを外してください」

「え?」

「今のあなたがそのマントをまとい続けると、白いマントの意味まで損なわれます」

イレーネの顔が歪む。

「でも、これは婚約者席の」

「今日の婚約者席は、もう機能していません」

私は静かに言った。

「外してください」

妹は泣きそうな顔でアルバート様を見た。

アルバート様は何か言おうとして、結局言えなかった。

近くの女官が進み出て、イレーネの肩から白いマントを外す。

金刺繍の縁が、広場の光を受けてきらめいた。

美しかった。

けれど、ただ美しいだけだった。

遺族席が前へ戻される。

全員が戻ったわけではない。

黒いヴェールの妻は、しばらく迷ってから席へ戻った。

老いた母も戻った。

軍帽を抱えた少年は、椅子の前で立ったままだった。

それでよかった。

座るかどうかを、こちらが決めてはいけない。

式典官が正式名簿を持ってきた。

私はそれを受け取り、最初の頁を開く。

読み上げるのは私ではない。

軍の名は、軍の者が呼ぶべきだ。

私は式典官へ名簿を返す。

「部隊順で。爵位の注記は不要です」

「承知しました」

式典官が広場へ向き直る。

カシアン閣下が、軍旗の前で一礼した。

「本日の凱旋式は、帰還追悼礼へ改める」

低い声が、広場へ広がる。

「王国軍は、帰った者だけを誇らない。帰らなかった者の名を、ここに呼ぶ」

その言葉で、広場の空気が変わった。

勝利の熱ではない。

けれど、さっきまでの冷たい失望とも違う。

人が名を待つ静けさだった。

式典官が、一人目の名を呼んだ。

次に二人目。

三人目。

爵位は関係ない。

家の大きさも関係ない。

同じ部隊で、同じ日に帰らなかった者たちの名が、順に広場へ上がっていく。

老いた母が泣いた。

黒いヴェールの妻が、両手で白花を握りしめた。

軍帽を抱えた少年は、父の名が呼ばれた瞬間、ようやく一度だけ頭を下げた。

負傷兵たちは、もう一度敬礼した。

今度は、誰かに命じられたからではなく、自分たちのために。

アルバート様も頭を下げた。

白い階段の上ではなく、一段下りた場所で。

それが、今日彼に許された最も正しい立ち位置だった。

式は、華やかには終わらなかった。

楽団の勝利曲もなかった。

子どもたちの花も、予定よりずっと控えめに置かれた。

民衆の拍手は、最後に小さく起きただけだった。

けれど、完全に壊れたわけではなかった。

失敗は失敗として残った。

その上で、帰らなかった者の名だけは、王都の空へ届いた。

それで十分だとは言わない。

けれど、何もしないよりは、ずっとよかった。

式の後、私は軍務局の側廊へ呼ばれた。

灰色の石壁に囲まれた通路は、広場のざわめきから少し離れている。

奥の扉の向こうでは、アルバート様とイレーネが、カシアン閣下、軍務局長、式典官から事情を聴かれているらしい。

扉越しでも、妹の泣き声が少しだけ聞こえた。

「お姉様が教えてくださればよかったのに」

そんな声が漏れた。

私は目を閉じた。

最後まで、それなのかと思う。

教えなかったのではない。

式次第も、遺族名簿も、導線図も、事前挨拶の機会も、全部あった。

それを軽く見たのは、妹自身だ。

「君は入らないのか」

カシアン閣下が、いつの間にか隣に立っていた。

「入る理由がございません」

「妹君は、君に責任を寄せたいようだ」

「でしょうね」

「怒らないのか」

「怒るには、少し疲れました」

私がそう答えると、閣下は短く息を吐いた。

笑ったようにも聞こえた。

「いい返事だ」

「褒められたのでしょうか」

「たぶん」

たぶん。

総司令官からそのような曖昧な返事を聞くとは思わず、私は少しだけ笑ってしまった。

奥の扉が開いた。

軍務局長が出てくる。

彼は私へ向けて、きちんと一礼した。

「リディア・フォルスター侯爵令嬢。今回の件について、軍務局より確認をいたします」

「はい」

「あなたが婚約者席変更後の凱旋式準備に関与していないことは、軍務局および総司令部へ提出された返書で確認済みです。よって、本日の式典不備について、あなたに責はありません」

「ありがとうございます」

責任がない。

その言葉を聞いて、胸の奥にあった硬いものが少しだけほどけた。

私はずっと、見えない仕事の成果だけを誰かに渡してきた。

けれど、失敗だけは自分に戻ってくるのではないかと、どこかで思っていたのだ。

「なお」

軍務局長は続ける。

「イレーネ・フォルスター嬢の婚約者席適格については、不適格として記録します。今後、軍務局管轄の式典における代表席、補佐席への参加は認めません」

「はい」

「アルバート・グランヴィル殿については、戦功章の授与そのものは取り消しません。ただし、本日の凱旋式における監督不備について、正式な始末書を求めます。また、遺族各家への謝罪は、グランヴィル侯爵家と本人の名で行われます」

「承知いたしました」

話し合いで済むわけではない。

当然だった。

凱旋式は王国軍の公的行事だ。

遺族席を下げ、戦死者の名を省き、負傷兵を不適切な導線へ回した。

未熟だった、知らなかった、明るくしたかった。

それだけで済む話ではない。

「婚約については」

軍務局長が少しだけ言いにくそうに続ける。

「軍務局の管轄外ではありますが、グランヴィル侯爵家より、イレーネ嬢との婚約協議は凍結するとの申し出がありました」

「そうですか」

「あなたとアルバート殿の婚約解消については、両家で正式手続き中と聞いております」

「はい」

それはもう、私の心を揺らさなかった。

戻りたいとは思わない。

戻ればまた、同じことになる。

軍務局長が去ると、側廊には私とカシアン閣下だけが残った。

広場の方から、片づけの音がかすかに聞こえる。

勝利の楽団ではない。

椅子を戻し、花を集め、名簿をしまう音だった。

「リディア・フォルスター」

カシアン閣下が、改めて私の名を呼んだ。

「はい」

「王国軍式典監理室で働く気はあるか」

「……式典監理室、ですか」

「軍の式典、遺族接遇、負傷兵の導線、勲章授与、慰霊式。名前は堅いが、人手が足りない」

私はすぐに返事ができなかった。

あまりにも唐突で。

けれど、あまりにも欲しかった言葉だったからだ。

「なぜ、私なのでしょう」

「今日の帰還追悼礼への切り替えは、君が出した」

「閣下が採用なさっただけです」

「採用できる形で出したのが重要だ」

カシアン閣下は言う。

「君は、凱旋式を無理に成功したことにはしなかった。失敗は失敗として残し、その上で、遺族と兵を広場から見捨てなかった」

「それは」

「それができる人間は多くない」

静かな声だった。

同情ではない。

慰めでもない。

能力を見たうえでの評価だった。

「君は英雄の隣に立たされていた」

カシアン閣下は続ける。

「だが、本来は英雄を飾る側ではない」

その言葉に、胸の奥が熱くなった。

白いマントをまとうこと。

英雄の隣に立つこと。

民衆の前で微笑むこと。

私はそれらを嫌っていたわけではない。

ただ、それだけで見られるのが苦しかった。

その下にある遺族の席も、負傷兵の道も、名前を呼ぶ順番も、全部含めて見てほしかった。

「君は英雄を飾っていたのではない」

カシアン閣下は言った。

「英雄が英雄でいられる場所を守っていた」

私は、すぐには返事ができなかった。

そんなふうに言われたのは、初めてだった。

「正式な役目でしょうか」

ようやく、私は訊いた。

「侯爵家の娘だから手伝う、ではなく」

「正式な役目だ」

閣下は即答した。

「任期、権限、報酬を文書にする。君の家にも、軍務局にも、総司令部にも写しを出す」

「私を、婚約を解消された令嬢として保護するためではなく」

「違う」

また即答だった。

「使えるから呼ぶ」

「……ずいぶん率直でいらっしゃいますね」

「嫌か」

「いいえ」

私は少しだけ笑った。

「かなり、ありがたいです」

カシアン閣下は、そこで初めてほんのわずかに笑った。

「では、明日の午前に返事を」

「今日ではなく?」

「君は今日、崩れた凱旋式を見た。返事は一晩置いた方がいい」

「お気遣いですか」

「手順だ」

その返しがあまりにも真面目で、今度こそ私は笑ってしまった。

手順。

そう言われる方が、私にはずっと分かりやすい。

側廊の向こうで、扉が開く音がした。

イレーネが出てくる。

目元を赤くし、外された白いマントを腕に抱えている。

その隣には、青ざめたアルバート様がいた。

「お姉様」

イレーネが私を見つける。

「どうして」

また、その言葉だった。

「どうして、お姉様ばかり」

私は妹を見た。

昔なら、胸が痛んだのだと思う。

今も、痛まないわけではない。

けれど、それはもう私が戻る理由にはならない。

「イレーネ」

私は静かに言った。

「あなたが欲しかったのは、英雄の隣に立つ姿だったのでしょう」

「だって」

「でも私は、その英雄が誰の名の上に立っているのかを見ていた」

妹の唇が震える。

アルバート様は、何も言わない。

言えないのだろう。

「それだけの違いよ」

私は続けた。

「そして、その違いで、拍手は止まるの」

イレーネは顔を伏せた。

白いマントの金刺繍が、側廊の灯りを受けて光っている。

美しかった。

けれど、ただ美しいだけだった。

「リディア」

アルバート様が、ようやく口を開いた。

「私は、君がそこまで見ていたとは知らなかった」

「そうでしょうね」

私は答えた。

「ご存じでしたら、婚約者席の変更をあのようには進めなかったでしょうから」

「……戻ってくれないか」

その声は、弱かった。

英雄らしくないほどに。

けれど、私の心は不思議なくらい動かなかった。

「戻る、とは」

「婚約者として。いや、せめて遺族への謝罪と次の慰霊式だけでも」

「アルバート様」

私はまっすぐに彼を見る。

「あなたが今お望みなのは、私ではありません」

「何?」

「私が整えていた順番です」

アルバート様の顔色が変わった。

でも私は止めなかった。

「私自身を必要となさったわけではない。拍手が止まったから、拍手を戻すための手が必要になっただけです」

「そんなことは」

「ございます」

私ははっきりと言った。

「ですから、戻りません」

沈黙。

広場の片づけの音も、少し遠くなった。

側廊には、ただ石の冷たさだけが残っている。

「私は、正式な役目のある場所へ参ります」

私はカシアン閣下へ一礼した。

「お返事は、明日の午前に」

「待っている」

閣下は短く答えた。

その短さが、ひどくありがたかった。

軍務局を出ると、空は夕暮れに染まり始めていた。

王都の屋根の上に、凱旋式の花びらが少しだけ風で舞っている。

今日の式は、成功しなかった。

けれど、その失敗は無駄ではなかったと思う。

誰が何を知らなかったのか。

誰が何を軽く見ていたのか。

そして、誰が何を支えていたのか。

拍手が止まったことで、初めてすべてが見えた。

翌朝、私は王国軍式典監理室へ返書を出した。

お受けいたします、と。

ただし、条件を三つ添えた。

役目と権限を文書にすること。

報酬を明記すること。

そして、私を誰かの代わりとして扱わないこと。

昼前、返書が届いた。

カシアン・ヴァルク辺境公爵の署名入りだった。

条件を認める。

君は代わりではない。

名を呼ばれるべき者のために必要な人間として迎える。

私はその文を、しばらく見つめていた。

白いマントは、もう私のものではない。

英雄の隣も、もう私の場所ではない。

でも、胸の奥は不思議なくらい軽かった。

私は英雄を飾るためだけの人間ではなかった。

遺族の席を前へ置き、負傷兵の道を空け、帰らなかった者の名を正しい順で呼ぶ。

そうして初めて、勝利がただの勝利ではなくなることを、私は知っている。

王都の広場は、今日も静かに王城へ続いている。

次に軍旗が上がるとき。

私は白いマントではなく、王国軍式典監理室の徽章を胸に、その場へ立つのだろう。

誰かの隣を飾るためではなく。

名を呼ばれるべき人の場所を、きちんと守るために。