作品タイトル不明
幕間 独り
ゴウ、と。
天空を覆う厚い雲が瞬いたかと思うと、鼓膜だけではなく身体の芯まで震えさせるほどの轟音が響いた。
窓ガラスが震え、轟音の余韻で岩を刳り貫いて作られた城の床が小さく悲鳴を上げる。
人の世に在る魔力灯などという便利な道具など無い部屋は薄暗く、轟雷の余韻で埃が舞い上がった。
「ふむ。……どうやらこれから、天気が崩れるようだのう」
『いつも曇りではないか、この大陸は』
「曇りと雨は違うさ、エルメンヒルデ」
クツ、と喉を震わせて笑うと、憮然とした雰囲気が伝わってくる。
頭の中に響く男とも女とも取れる綺麗な声音が懐かしく、しばらく笑いながら窓の外を眺めていると、今度は溜息が頭の中に響いた。
『ソルネアは無事なのだろうな?』
「さあな。あの女の事は、ベルドに任せている……儂は、ヤマダレンジの事で頭が一杯なのだ」
『……ソルネアに何かしたら、レンジが黙っていないぞ』
「くふ――それはそれで楽しみだのう」
もし、もしあの女を傷付けたら、殺したら。ヤマダレンジはどのような顔をするだろうか。
泣くのか、怒るのか。それとも、全く違う顔か。
その事を想像するだけで、胸の奥が温かくなる。口元が緩み、自然と笑い声が漏れてしまう。そんな私を見て、エルメンヒルデが呆れたような声を上げた。
『私とレンジを引き離してどうするつもりだ、シェルファ』
「なあに。貴様抜きでヤマダレンジがどこまでやれるか……知りたいだけだよ」
言って、窓の桟に腰を下ろす。
髪を掻き上げて傍にあった 魔王(ベルド) の部屋から拝借してきたワインを瓶ごと煽り飲む。
甘い――やはり、この程度の酒では酔えそうもない。
「それに、一年も待たされたのだ。少しくらいの意地悪を受け止めるのも、男の甲斐性だ」
『……レンジに、男の甲斐性など無いと思うがな』
「ふは――確かにその通りだ」
その言葉に破顔し、同意する。
確かに、あの男に甲斐性のようなモノは無いだろう。
「お前も苦労しているようだな、エルメンヒルデ」
『そう思うなら、私をレンジの元へ……』
「それは無理だ」
きっぱりと言い切って、ワインを煽る。
「アイツを本気にさせるのは、難しいのだ――分かるであろう?」
『ふん』
一気に半分以上が無くなったワイン瓶を左手に持ち、ぶらぶらと揺らす。
瓶の中の液体が音を鳴らしながら揺れ、それだけが部屋の中に音として響く。雷は、もう轟いていない。エルメンヒルデの声は空気に響かないので、この部屋の中で儂が一人で喋っているようなモノ。
それを何となく寂しく思いながら、視線を外へ。
遠く――ここからでは見えない、人が拠点としている砦がある方へ向ける。
「お前が手元にないなら、アレは本気になる。本気で、お前を奪いに来る」
『今頃、小言を言う私が居なくなったと喜んでいると思うがな』
「くふ……そういう男なら、儂やネイフェル様が気に留めたりなどせぬよ」
『……』
ヤマダレンジ。
神を殺した男。
ネイフェル様や他の神々が気に留める、ただ一人の人間。
なんの魔力も持たない、この世界で最弱に位置する人間。
けど、だけれど――。
「ああ、楽しみだ。お前を奪われたヤマダレンジは、今度はどれほど変わるのであろうな」
ワイン瓶を握る手に、力が籠る。
瓶に罅が入り、ガラス細工のような模様を刻む。
『震えているな』
「くふ――」
最弱であった人間は、戦うごとに変わっていった。
どんどん、どんどん。
戦うごと、時間を経るごと……少しずつ、少しずつ、ゆっくりと、けれど着実に。
変わっていった。
何故。
なんだって。
アヤマダレンジは、あの男は、あの人間は、あいつは――。
戦場で。戦いで。殺し合いで。儂との戦いで。ネイフェル様との戦いで。……仲間を喪って。守れなくて。
変貌していった。
まるで――。
――際限なく進化し続ける、バケモノのように。
初めて会った時、そして一年前……ネイフェル様を殺した時。
剣の振り方、身体の運びなど何も知らなかった素人。けれど、たったの数年で儂ですら舌を巻くほどにまで 神殺しの武器(エルメンヒルデ) を使いこなして神殺しへと至った人間。
全くの別人。
だけれど、やはりそれはヤマダレンジ本人でしかない。
ネイフェル様を殺したかと思えば、死にたいと言い。
戦いが嫌いだと、怖いと言っても戦場でこそ最も生き輝いている。
ああ、ああ……。
「がまん――ガマン、しないとのう」
噛み締めたつもりでいた奥歯が震える。歯の根が噛み合わない。
怖いのか?
ああ、怖い。
あの男との戦いは楽しみだ。
この世に、儂が本気で戦える相手がどれほど居る。
『勇者』も『魔剣使い』も、まだ若い。戦いを殺し合いと捉えても、しかし甘い所がある。
そうではない。
最初から最後まで。徹頭徹尾。頭のてっぺんから足の指先まで。髪の一本一本まで。
――殺したいと思っても殺せず、殺したと思っても生きている。
そんな人間は、もうヤマダレンジだけなのだ。
儂が本気で殺したいと思っても死なないのは、あの男だけなのだ。
そして逆に、アイツの本気を向けられた時……生き残れるのは、儂だけでいいと思ってしまう。
ネイフェル様を、神を殺した人間。
その本気と相対する。
それはとても楽しみで、同時にとても恐ろしい。
死ぬのが怖いのではない。
ヤマダレンジの本気を受け止める事が出来ない……それが、怖い。
『何故、そこまでレンジに執心する。レンジは、弱い』
「だからこそ、だ」
そんな事、知っている。
……だからこそ、執心する。
弱いから。強くないから。それが、人間だから。
分かるまい。記憶を失くした、別人に。
エルメンヒルデが執心した、儂が戦いたい、バケモノ。人の身で、神の、魔の領域に踏み込んだバケモノ。
「弱いからこそ、成長する。弱いからこそ、強くなれる」
それが、人間。
それが、ヤマダレンジ。
あの男が何処まで成長するのか。強くなるのか。進化するのか。
儂は、それが一番楽しみなのだ。
その成長が。
ただの一戦で別人のように成長する人間が。
「エルメンヒルデ。お前に分かるか――自分の想像を遥かに超えて成長する者を見付けた 悦(よろこ) びが」
自分より遥かに弱い人間が、自分を越えていく喜びが。
ああ。
ネイフェル様。
今なら、分かります。貴方様も、きっとこんな気持ちだったのだと。
自分が全力で戦える相手。
そして、自分の全力が届かない相手。
挑むという事。
それが、願いだったのだと。
「くふ……ふふ……」
こい、ヤマダレンジ。
待っているぞ。ずっと、ずっと待っていた。
ネイフェル様は、この大地が創造された時から。
儂は――きっと、物心がついた時から。心のどこかで、ずっと待っていた。
戦うべき敵ではない。挑むべき相手を。
ずっと、ずっと。前魔王を殺し、魔王の座に就き、ようやっと出会えた男。
ネイフェル様を表す色が黒なら、それと同じ色の髪を持つ男。
今思えば……初めて会った時から、儂はお前に心を奪われていたのかもしれないなあ。
山のように巨大な『ネイフェル様の眷属』の背で刃を交わし、儂は右腕と右翼を斬り落とされた。
あの時から、きっと、儂はヤマダレンジに心を奪われた。
ネイフェル様が気に掛けた相手。全力では無かったとはいえ、ネイフェル様を退けた人間。
興味があった。
女神アストラエラの加護を受けたとはいえ、本気でなかったとはいえ、ネイフェル様を退けるほどの人間に。
最初は、興味だった。
今も、興味だけなのかもしれない。それとも、これは別の感情なのかもしれない。
儂には――分からない。
この感情が何なのか。
ただ、戦いたいと思う。会いたいと思う。会って、刃を交わしたい。
ヤマダレンジと斬り合う時間が、儂は――。
「ふふ……」
『笑っている所、悪いが……私を手放したレンジは戦えない。この城に来るとは……』
「来るさ。来るとも――あの男は必ず来る」
確信がある。
絶対と、命を天秤に乗せる事が出来る程の確信が。
何故なら――。
「 あの男(ヤマダレンジ) は儂を許さないからだ」
そして……奪われたのが、お前だから。
それは口にする事無く、口元を緩める。
『……そうかも、しれないな』
「儂は。アレを本気にさせる為なら何百、何千という人を殺そう。命を奪い、蹂躙し、大地を血に染める事を 厭(いと) わぬ」
『そうだったな』
「だから、アレは儂を許さない。儂が生きていれば、自分の為に沢山の人が死ぬ」
それが、我慢できない。
その為なら、儂を殺すだろう。
ネイフェル様と同じように。
神を殺した刃で、儂を……。
『私を取り返す前に、死ぬかもしれないぞ?』
「かもしれぬな。人は脆い」
少し力を込めただけで骨が折れ、肉は千切れる。
出血が多すぎればそれだけで死んでしまう。
人は、脆い。
「……だったら、それまでの男だったという事だ」
ヤマダレンジ。
その貌を思い出す。
何度も死線を交わした相手。その顔は、すぐに頭の中へ浮かんでは、消えていく。
早く来い。
……死ぬな。
儂が殺してやる。だから、死ぬな。