軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 空いた隣席

席次表の自分の名前を、私はもう三度目に書き直していた。

インクが少し滲んでいる。書庫の窓から差し込む朝の光が、紙の白に薄い影を落としていた。ヴァレリウス公爵令嬢、クラウディア。三年書き慣れた文字のはずなのに、今朝に限って一画ずつが指先に重い。

エスタリア国の使節を迎える夜会まで、あと半日。婚約者であるダミアン様の隣の席に、私の名が記される夜である。

「お嬢様、お時間でございます」

侍女の声で、私はペンを置いた。席次表の最後の一枚を、紙挟みの底に揃える。立ち上がる前に、もう一度だけ自分の名前を確かめた。滲みは、結局そのまま残った。

朝食の席で、お父様は新聞を畳む手をいつもより一拍早く止めた。

「クラウディア」

「はい、お父様」

「今夜はエスタリアの使節をお迎えする。グランツ家との関係は慎重にな」

「承知しております」

お父様は珍しく、私から目を逸らさなかった。畳んだ新聞の背を指でなぞり、低い声で続ける。

「ただし――お前自身の名誉を守れない場合は、別だ」

母が小さく息を吸ったのが、向かいの席で分かった。私は紅茶のカップに目を落として、すぐには答えなかった。砂糖の粒が、底でゆっくり溶けていく。

「自分の名誉は、守ります」

それだけ申し上げて、私はカップを置いた。

王宮の控え室は、磨きすぎた銀器の匂いがした。

支度を整え終えた頃、扉の外でダミアン様の声がした。婚約者として三年、その声の調子は耳に馴染んでいる。今日は、いつもより少しだけ早口だった。

「クラウディア」

入ってきたダミアン様は、私に近づきながら手袋の片方を引き直した。

「すまない。ミレイユにも来てもらった」

「ミレイユ様を、ですか」

「宰相補佐の同伴枠を一つ譲ったんだ。彼女は外国の方をお見かけするのが好きでね」

私の侍女が、衣装箱の角を直す手を一拍だけ止めた。本来、その同伴枠は私付きの侍女のために確保されていたものである。今夜は古典語の文書を扱う場面が多いため、書類を抱える侍女を一人連れていく予定だった。

「書類は、私が直接お預かりします」

「すまない。助かる」

ダミアン様は、礼を言うときだけは早かった。それが少し前まで、私には誠実さに見えていたのだ。

大広間の入口で、ミレイユ様は私を見て微笑んだ。男爵家のお嬢様の薄紅のドレスは、夜会の燭台の光の下でやけに柔らかく映えた。乳姉妹としてグランツ家で育ったと、私は婚約の日にダミアン様から伺っている。

「クラウディア様、今日はお招きありがとうございます」

「招いたのは、王家でございます」

私は微笑んで、それだけ申し上げた。ミレイユ様は私の言葉を、聞き返さなかった。

席につく直前、彼女がそっとダミアン様の袖に手を添えた。

「ごめんなさい、ダミアン様。靴擦れがひどくて、足が痛いの」

「大丈夫か」

「立っているのが少しつらくて……椅子をお借りしても、よろしいかしら」

ダミアン様は、私を見た。

その目に浮かんでいたのは、申し訳なさではなかった。「君なら分かってくれる」と告げる前の、いつもの目である。

「クラウディア」

「席は譲りましょう」

私は扇を閉じて、隣の椅子を空けた。ミレイユ様が「ありがとう」と腰を下ろす。案内係の若い男が、ほんの一瞬だけ笑みを固まらせた。背後で、扇の動く音が立て続けに三つ聞こえた。誰が動かしたかは、確かめなかった。

エスタリアの使節団が広間に入ると、私の隣はもう私の席ではなくなった。

通訳は、座らずに立ったまま行うことになる。私は使節の右手側に位置を取り、両国語と、外交文書で用いられる古典語とを交互に回した。古典語は語尾の選び方が一語ずれただけで意味が反転する。気を抜けば、合意の文言が脅迫に聞こえる。三年、私はこの呼吸を磨いてきた。

進行表をめくる指先が、いつの間にか冷たくなっていた。

給仕の少年が、私の卓に紅茶を運んでくる。礼を言う暇もなく次の通訳に入り、戻ってきた頃には湯気が消えていた。少年がもう一度お代わりを尋ねた。私は首を横に振った。それから少しして、また同じやりとりがあった。三度目は、少年が黙ってカップを下げていった。

ダミアン様は、ミレイユ様の椅子の背に手を置いたまま、使節と笑い合っていらした。

夜会の中盤、進行に区切りがついたところで、私は退席の挨拶を整えた。婚約者の隣ではない場所から退くことに、形式上の不備はない。書類は使節団の補佐官に渡し、進行表は王宮の儀礼部に預けた。

廊下に出ると、燭台の光が一段落ちた。

回廊の柱の影に、見慣れない殿方が立っていらした。長身で、夜会用の正装に金の徽章。エスタリア風の細身の上衣。袖口の刺繍だけが、わずかにこちらへ向いていた。

目が合ったのは、本当に一瞬だった。

その方は、何もおっしゃらなかった。会釈もなさらなかった。ただ、私が来た方向――大広間の、空いた婚約者の隣席のあたりへ――もう一度だけ視線を戻された。それから、伏せた。

私はそのまま通り過ぎた。

控えの間で侍女に外套を頼んだとき、ようやく息が落ち着いた。

「あの方は、どなただったかしら」

廊下の方向を顎で示すと、侍女は少し首を傾げ、控えていた王宮の侍従に小声で尋ねた。返ってきた名前を、侍女が私の耳の高さで繰り返した。

その名前を、私は知らなかった。

馬車に乗ったあとも、その響きだけが指の間に残った。席次表に三度書き直した自分の名前と、見知らぬ殿方の名前。冷めた紅茶のカップを下げていった給仕の少年の足音。誰のものとも分からない、扇の三つの音。

それらが、滲んだインクのように、まだ乾いていなかった。