軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

青い月の夜

青い月の夜

マレーシアの海は、夜になってもぬるい風を運んでいた。

レストランのテラス席から見える海面は月光を受けて銀色に揺れ、遠くでは小さな漁船の灯りが瞬いている。

凛子はグラスに入った冷たいライムソーダを口に運んだ。

しゅわりと弾ける炭酸が喉を通り、火照った体を心地よく冷やしていく。

白いリネンのブラウスに、淡い水色のロングスカート。日本にいた頃は仕事帰りに着るような堅い服ばかりだったが、今は肩の力が抜けている。

潮の香りがする。

炭火で焼かれた海老の香ばしい匂いもする。

隣のテーブルからは英語や中国語が聞こえてきた。

どの言葉もよく分からない。

けれど不思議と心地よかった。

誰も自分を知らない。

誰も何も期待しない。

ただ旅人としてここにいる。

それだけだった。

店員が大きな皿を運んでくる。

真っ赤なチリクラブ。

殻ごと焼いた車海老。

レモンを添えた白身魚のグリル。

そしてガーリックバターで炒められた貝。

湯気が立ち上る。

凛子は思わず笑った。

「すごい量……」

店員が笑顔で親指を立てる。

「Enjoy!」

「ありがとう」

日本語が恋しくなるほど遠い国なのに、その笑顔だけはよく分かった。

海老をひと口食べる。

ぷりっとした食感。

濃厚な甘み。

思わず目を閉じる。

「おいしい……」

誰に聞かせるでもない声だった。

以前なら写真を撮っていたかもしれない。

夫に送るために。

家族に見せるために。

誰かと共有するために。

でも今は違う。

これは自分のための時間だった。

凛子はゆっくりと料理を味わった。

急ぐ必要はない。

誰かの予定に合わせる必要もない。

誰かの機嫌をうかがう必要もない。

その事実が信じられないほど贅沢だった。

やがて空が少しずつ深い藍色へ変わっていく。

周囲の客たちが空を見上げ始めた。

ざわめきが広がる。

スマートフォンを構える人。

恋人同士で肩を寄せる人。

子どもを抱き上げる母親。

凛子も顔を上げた。

海の向こう。

雲ひとつない夜空。

そこに大きな月が浮かんでいた。

青みを帯びた光をまとった満月。

ブルームーン。

静かで美しい月だった。

凛子はしばらく言葉を失った。

波の音だけが聞こえる。

ざあ。

ざあ。

規則正しく打ち寄せる音。

胸の奥に溜まっていた何かを洗い流していくようだった。

不意に、涙がこぼれた。

自分でも驚いた。

離婚した日も泣かなかった。

家を出た日も泣かなかった。

証拠を突きつけた日も泣かなかった。

なのに今。

こんな遠い国の海辺で。

月を見ているだけで涙が出る。

凛子は苦笑した。

「遅いよね」

誰もいない空へ向かって呟く。

潮風が頬を撫でた。

そして、自分自身に向かって言った。

「寂しかったね」

涙が一粒落ちる。

「つらかったね」

胸が少し痛む。

「大変だったね」

今度はもう一粒。

長い間。

誰かに言ってほしかった言葉だった。

でも誰も言ってくれなかった。

だから自分で言うしかない。

凛子は胸に手を当てた。

鼓動が聞こえる。

ちゃんと生きている。

ちゃんとここまで来た。

あの日、結婚記念日のレストランで一人取り残された自分。

高熱の夜に放置された自分。

悪妻だと言われた自分。

必死に笑っていた自分。

全部覚えている。

全部知っている。

だからこそ。

一番労わってあげなければならない人も知っている。

それは自分だった。

「よく頑張ったね」

声にすると、少しだけ肩の力が抜けた。

海風が優しく吹く。

波が寄せては返す。

遠くで誰かが笑っている。

店員たちの陽気な声が聞こえる。

生きている音だった。

凛子はナプキンで涙を拭き、残っていた海老を口に運んだ。

すると急に笑えてきた。

「泣きながら海老食べてる人ってどうなの」

自分で言って、自分で吹き出す。

誰も見ていない。

だから好きなだけ笑える。

好きなだけ泣ける。

月は静かに輝いていた。

過去を消してはくれない。

傷をなかったことにもしてくれない。

けれど。

傷があっても人は幸せになれる。

それだけは教えてくれる気がした。

凛子はグラスを持ち上げた。

月へ向けるように。

そして小さく微笑む。

「乾杯」

新しい人生へ。

自由になった自分へ。

何より。

長い間、一人で戦い続けた自分自身へ。

青い月は、まるで祝福するように海の上で静かに輝いていた。