軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話「三度目の道」

三年前、この道を初めて通った時は、何も持っていなかった。

馬車が石畳の街道を走っている。窓の外に、山あいの谷が遠ざかっていく。ラーゼン村の屋根が小さくなり、薬草畑の緑が丘陵の向こうに消えた。

三度目の帝都行きだった。

一度目は、宰相府からの正式な召集を受けて。薬事法の法案作成における参考人として。あの時は馬車の中で調合日誌を膝に置き、三年分の記録を武器にして帝都に向かった。

二度目は、法案の最終調整と異議申立てへの対応のために。あの時は鞄の中に法案草稿と調合日誌があり、議会での答弁と皇帝の裁定を経て、婚姻の承認を得た。

三度目の今日。

鞄の中身が違う。

調合日誌はある。三年分の記録。翠風堂の全てが詰まった帳面。これはいつも持っている。

その隣に、リーゼルの新配合の記録がある。トウキの根七、カミツレの花三。煎じ温度六十度。五回の試行と修正の記録。リーゼルの字で書かれた、翠風堂のもう一つの帳面。

管理所への提言書の草稿。各地の薬草管理所が採用すべき品質基準を整理したもの。翠風堂の実務を帝国全体の制度に落とし込む文書。

そしてもう一つ。

リーゼルが出発の朝に持たせてくれた包み。新配合の茶葉。「帝都の人にも飲んでもらってください」と言った時のリーゼルの顔は、誇らしげだった。

鞄の口を閉じた。

一度目は、呼ばれたから行った。

二度目は、自分の仕事をしに行った。

三度目は、名前を刻みに行く。

署名。

婚約書に、自分の名前を書く。皇帝の面前で。法務官が立ち会い、帝国の記録として保管される。レナード・ヴァイスフェルトという名前の隣に、ヴィオレッタ・ルーゼンという名前が並ぶ。

帝国の最も公的な記録に。

三年前、断罪の場で消されかけた名前だった。

公爵令嬢ヴィオレッタ・ルーゼン。その名前は断罪によって社交界から消え、勘当によって公爵家の名簿から消えた。残ったのは、平民としてのヴィオレッタ・ルーゼンだけだった。

その名前で翠風堂を開いた。帳簿に署名した。調合日誌に毎日の記録を書いた。薬草顧問として帝国の法案に名前を残した。

そして今日、その名前を婚約書に刻みに行く。

断罪で奪われた場所で、名前を刻み直す。

それがこの三度目の意味だった。

馬車が丘陵を越えた。平野が広がり始めた。街道沿いに宿場町が見えてくる。帝都まであと二日の道程。

窓の外を見た。

同じ街道だった。同じ石畳。同じ丘陵。同じ空。

けれど、見える景色が違う。一度目は景色を見る余裕がなかった。二度目は覚悟を固めるために窓の外を見ていた。三度目の今日は、ただ見ていた。丘の上に風が吹き、草が波のように揺れている。

署名への緊張はあった。

皇帝が臨席する。法務官が立ち会う。帝国の記録に名前が残る。宰相の伴侶として、帝国中に知られることになる。

けれど、恐れの質は変わっていた。

三年前の恐れは、全てを失うことへの恐怖だった。居場所も、名前も、未来も。

今の緊張は、守るものを持ったまま前に進む緊張だった。翠風堂がある。リーゼルがいる。村長の「そうかい」がある。レナードの「約束します」がある。

失うことへの恐怖ではなく、持っているものの重さを感じながら歩く緊張。

それは悪いものではなかった。

提言書の草稿を鞄から出して、膝の上に広げた。

管理所の品質基準。薬草ごとの採取適期、判定方法、訓練基準。翠風堂で三年間かけて蓄積した記録を、帝国全体で運用するための指針。

署名の前日までに、指針策定会議がある。参考人としての答弁。法案審議の時と同じ——記録を根拠に、一つずつ。

草稿の余白に、修正の覚え書きを加えた。訓練期間の項目。リーゼルに教えた半年間の経験から、現場での判断力を育てるには学院の座学だけでは不十分だという確信があった。

馬車が揺れた。石畳の継ぎ目を越えたのだろう。

草稿を閉じ、鞄に戻した。

リーゼルの茶葉の包みに指が触れた。紙の包みの中から、かすかにトウキの温かい香りがした。

帝都に着いたのは、三日目の夕方だった。

街道が石造りの城壁に突き当たり、城門をくぐると、帝都の屋根が広がった。石の建物。尖塔。広場。馬車と人の往来。

前の二度と同じ景色だった。

けれど、馬車が止まった場所が違った。

宰相府の客館ではなかった。

ハインツが馬車の扉を開けた。

「ヴィオレッタ殿、こちらです」

案内されたのは、宰相府本館だった。正面の石段を上がり、二階の廊下を進み、奥の一室に通された。

客館の小部屋より広かった。机が大きく、窓が二つあり、書架が壁に沿って並んでいる。調合に使えそうな棚もあった。

「婚約署名を控えた方の滞在場所として、こちらをご用意しました」

ハインツが一礼した。

「宰相閣下からの指示です。公務の書類も、こちらの机でお使いいただけます」

「ありがとうございます」

ハインツが退出した。

一人になった。

鞄を机の上に置いた。調合日誌、リーゼルの配合記録、管理所への提言書、リーゼルの茶葉の包み。

窓に近づいた。

帝都の屋根が広がっていた。夕方の光が石の壁を淡く染めている。客館の窓からも帝都は見えたが、本館の二階からの景色は少しだけ広かった。

同じ帝都。違う部屋。

立場が変わったことが、制度に反映されている。客館の参考人ではなく、本館に滞在する婚約署名の当事者。

窓の外で、帝都の鐘が鳴った。夕方の鐘。

署名は三日後。

管理所の参考意見提出は明日。

鞄から提言書の草稿を取り出し、机の上に広げた。

まず、明日の仕事をする。

断罪で名前を消された帝都で、名前を刻み直す。

それが三度目の意味だった。けれど、名前を刻む前に、やるべき仕事がある。それもまた、翠風堂で学んだやり方だった。

窓の外に、帝都の屋根が茜色に染まっていた。