作品タイトル不明
第10話「翠風堂の朝」
私は馬車を降りた。
山あいの谷に、朝の風が吹いていた。街道の石畳が途切れ、踏み固められた土の道に変わる。ラーゼン村の入口。見慣れた木の柵と、その向こうに広がる畑。
帝都を発って三日。馬車の窓から、石造りの屋根が遠ざかり、平野が広がり、丘陵が連なり、やがて山あいの谷が見えた時、鞄の中の調合日誌の重さが少しだけ軽くなった気がした。
村の道を歩いた。
朝露が草を濡らしていた。畑の脇にカミツレの白い花が咲いている。リーゼルの書簡に書いてあった通り、今年は早い。
翠風堂の前に着いた。
木の看板。三年前に自分で彫った字。薬草と調合茶の工房。
戸に手をかけた。
引いた。
薬草の匂いが溢れた。
乾燥棚のトウキ。吊るされたヤナギソウ。竈の上の鍋。石の調合台。帳簿が置かれた机。全部、出発前と同じ場所にある。
けれど、一つだけ違うものがあった。
竈の前に、リーゼルが立っていた。
その隣に、小さな瓶が五つ並んでいた。
「師匠」
リーゼルが振り向いた。顔が一瞬こわばって、それからぱっと緩んだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
リーゼルは竈の火を見た。湯が沸いていた。鍋の中で、かすかに泡が立っている。六十度の手前。鍋肌に泡が付き始め、湯面からうっすらと蒸気が上がる温度。
「ちょうどよかった。淹れたてです」
リーゼルが小さな瓶の一つを取り、蓋を開けた。
匂いが広がった。
トウキの根の、深くて温かい香り。その奥に、カミツレの花の、軽くて甘い香り。二つの匂いが混ざって、嗅いだことのない一つの香りになっていた。
「これが、新しい配合です」
リーゼルが鍋の湯を急須に注いだ。乾燥させた薬草が湯に沈み、琥珀色がゆっくりと広がった。
「トウキの根は体を温めます。カミツレの花は気持ちを落ち着けます。両方を合わせたら、冬の朝に飲む茶になるんじゃないかと思って」
リーゼルが杯に注いだ。一杯。私の前に置いた。
「飲んでください」
杯を手に取った。温かかった。
口に含んだ。
トウキの温かさが最初に来て、カミツレの穏やかさが後から追いかけてくる。二つの薬草が互いを打ち消さず、互いを支えている。煎じ温度が正確でなければ、この均衡は成り立たない。
「美味しい」
リーゼルの目が大きくなった。
「本当ですか」
「本当です。温度は」
「六十度です。師匠が教えてくれた通り。鍋肌の泡と湯面の蒸気で判断しました」
「配合の割合は」
「トウキの根が七、カミツレの花が三です。最初は半々にしたんですけど、トウキが弱くなって温まる感じが薄れたので、根を多めにしました」
「記録は」
「帳簿に書いてあります。配合の試行錯誤も全部。五回試しました。三回目で割合を決めて、四回目と五回目で煎じ時間を調整しました」
五回。一人で五回、試行と記録を繰り返した。
「リーゼル」
「はい」
「この配合を、翠風堂の商品にしましょう」
リーゼルの顔が固まった。
「え」
「あなたが考えた配合です。あなたの名前で、帳簿に記録してください」
「あたしの名前で」
「翠風堂は、あなたと私の工房です」
リーゼルの目が赤くなった。唇がきゅっと結ばれて、それから開いた。泣きそうな顔で、けれど笑っていた。
「はい」
声が少し震えていた。
リーゼルが帳簿を開いた。新しい頁。日付を書き、配合名を書き、材料と割合を書き、煎じ温度と時間を書いた。
その下に、署名した。
リーゼルの字。少し右に傾く、元気な字。
帳簿を閉じた。
リーゼルが竈に向き直り、もう一杯を注いだ。今度は二杯。
「師匠の分と、あたしの分です」
二つの杯が、調合台の上に並んだ。
私はリーゼルの隣に立って、茶を飲んだ。
翠風堂の朝だった。竈の火が静かに燃え、乾燥棚の薬草がかすかに揺れている。窓から差し込む朝の光が、調合台の上の二つの杯を照らしていた。
帳簿の整理を終えた午後、机の上にもう一通の書簡が届いた。
グスタフが持ってきた定期便。差出人は宰相府。
封を切った。
レナードの筆跡。公務の書式ではない。私信。
『薬事法が裁可されました。近日中に辺境を訪れます。あなたの茶を。』
それだけだった。
便箋を置いた。
竈に火を入れた。
湯を沸かし始めた。トウキの根を取り出し、乾燥棚からカミツレの花を選んだ。リーゼルの新しい配合ではなく、私の配合。三年間かけて改良した、呼吸の茶。
薄荷と菩提樹の花。水は六十度。
レナードが来る。
茶を淹れる。
翠風堂の朝は、明日も続く。
窓の外で、山あいの風が薬草畑を渡っていた。カミツレの白い花が揺れ、トウキの葉が陽を受けて光っている。
リーゼルが乾燥棚の前で、新しい薬草の束を吊るしていた。
「師匠、次はどの薬草を試しましょうか」
「まず、あなたが見つけた茎の赤い薬草を見せてください」
「押し花にしてあります。待っててください」
リーゼルが奥の棚に走っていった。
私は竈の前に立ったまま、湯の温度を見ていた。鍋肌に小さな泡がつき始めている。もう少し。
翠風堂の朝は続いている。
昨日も、今日も、明日も。
(完)