軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話「宰相の弁明」

あの人は今、議場に立っているのだろうか。

客館の部屋は静かだった。朝から何も音がしない。窓の外に帝都の日常の音が聞こえるはずなのに、今日はどの音も遠かった。

レナードが貴族院で弁明を行う日だった。

朝、ハインツが来た時、短く伝えてくれた。

「本日午前、宰相閣下が貴族院にて弁明を行います。私も議場に付き添いますので、終了までご連絡ができません。結果は夕刻までにお伝えします」

「わかりました。お気をつけて」

ハインツが一礼して去った後、部屋に一人になった。

議場には入れない。貴族院の傍聴は議員の許可制であり、異議申立ての当事者の同席は認められていない。

待つしかない。

椅子に座った。机の上には薬事法の法案草稿が広げてある。昨夜、条文の確認作業を途中まで進めていた。

続きをやろうとして、頁を開いた。

文字が頭に入らなかった。

目は文字を追っている。けれど、意味が組み立たない。条文の一行一行が、ただの線の連なりに見える。

日誌を開いた。こちらも同じだった。三年分の記録。いつもなら頁をめくるだけで手が動き出す。今日は動かない。

翠風堂なら、こういう時でも竈に火を入れることができた。鍋に水を張り、温度を見て、薬草を量る。手を動かしていれば、頭は後からついてくる。

ここには竈がない。

客館の部屋には、机と椅子と寝台と、窓があるだけだ。

茶を淹れる相手もいない。

立ち上がって、窓際に行った。

帝都の屋根が並んでいる。どこかに議場がある。この屋根の下のどこかで、レナードが立っている。

私のために。

いや、私たちのために。

あの人は言った。顧問職の管轄を独立させると。前例がないなら作ればいいと。利益相反は制度的に解消すると。全て、制度の中で、手続きの中で。

あの人のやり方だ。合理的で、正確で、感情を制度の言葉に変換する。

その言葉が今、議場で響いている。

私に聞こえないところで。

窓から離れた。

机に戻った。

法案草稿をもう一度開いた。今度は、条文を読むのではなく、調合日誌と照らし合わせる作業に切り替えた。

第四条。薬草の流通経路の規定。この条文に対応する日誌の記録は、二年目の冬のものだ。グスタフが初めて帝都への流通経路を提案してくれた時期。あの時の出荷記録を附則に加えれば、条文の実効性を補強できる。

手が動き始めた。

考えるより先に、手が動いた。

日誌の頁をめくり、該当する記録を探す。数字を確認し、メモを取る。条文の余白に修正案を書き込む。

仕事をしている時だけ、頭が静かになった。

ここにいて、できることをする。それしかない。

昼を過ぎた。

午後の日差しが窓から斜めに差し込んでいる。

机の上には、朝から書き進めた修正メモが積み上がっていた。法案草稿の半分以上に目を通した。調合日誌との照合で、三箇所の修正提案を見つけた。

けれど、時間の感覚が曖昧だった。何時間経ったのかわからない。窓の外の日差しの角度だけが、時間を教えてくれている。

椅子の背にもたれた。

目を閉じた。

レナードの弁明はどうなっているだろう。ゲオルク侯爵はどんな反論をしているだろう。皇帝はどんな顔で聴いているだろう。

わからない。何もわからない。

手の中にあるのは、調合日誌だけだ。

目を開けた。

日誌の表紙を撫でた。少し擦り切れた表紙。三年間、毎日開いて閉じてきた帳面。

この帳面があるから、私はここにいる。

この帳面の記録が、法案の根拠になった。この帳面の数字が、審議官の疑義を退けた。

レナードが議場で弁明している間、私はこの帳面で仕事をしていた。

それが、私にできる信頼の形だった。

待つことは受動ではない。あの人の力を信じて、自分の場所でやるべきことをやる。それが、能動的な信頼だ。

夕刻。

廊下に足音が聞こえた。

扉が叩かれた。

「どうぞ」

レナードだった。

宰相の正装のまま、客館の部屋に入ってきた。外套の肩に、夕方の薄い光が当たっていた。

顔を見た。

疲れていた。けれど、目の光は消えていなかった。静かな光。何かをやり遂げた後の、穏やかな光。

「終わりました」

レナードが椅子に座った。いつもの椅子。

「異議の三点について、全て弁明を行いました」

私は机の前に立ったまま、聞いた。

「第一の前例がないという点については、帝国法に宰相の婚姻相手の身分要件は定められておらず、前例の不在は禁止の根拠にならないことを示しました。外交儀礼の混乱については、宰相府が外交席次の運用細則を整備することで対応可能であると提案しました」

「第二の公務判断への影響については、具体的な事例の提示を求めました。ゲオルク侯爵からは具体的な事例は示されず、懸念の域を出ないことが議事録に記録されました」

「第三の利益相反については、顧問職の管轄を宰相府から独立させる制度改正を提案し、法務官の裏付けを得ました。制度改正の手続きは既に進行中であることも報告しました」

制度の言葉が、一つずつ並んでいく。

「ゲオルク侯爵は」

「反論を行いました。帝国の伝統と秩序を守る立場から、慎重な判断を求めると。ただし、侯爵の反論は法的根拠に基づくものではなく、信念に基づくものでした」

「皇帝陛下は」

「全ての弁明と反論を聴取された上で、裁定を後日下すと宣言されました」

後日。

「いつですか」

「七日後です」

七日。

また、待つ時間が始まる。

けれど、今度の待ち方は、今日とは違うものになる。結果がどうなるかはわからない。けれど、レナードが全力で弁明を行ったことは、この人の顔を見ればわかった。

「レナード」

「はい」

「茶を淹れます」

客館の厨房から道具を借りてきてあった。小さな鍋と、杯が二つ。薬草は部屋に持ち込んでいた。

鍋に水を張り、客館の火口にかけた。温度を見る。鍋肌に小さな泡。六十度。

棚から薬草を取り出した。菩提樹の花と鳴子百合の根。皇帝に淹れたのと同じ系統の配合。思考の速度を緩やかにし、体を内側から温める。

杯に注いだ。二つの杯に。

レナードに差し出した。

「今日の茶は、待っている間に配合を考えていました」

レナードが杯を受け取った。両手で。

一口含み、目を閉じた。

「……うまい」

いつもの一語。けれど、今日のその声は、少しだけ掠れていた。

議場で長く話し続けた声だった。

私も杯を手に取り、一口飲んだ。

同じ味。同じ温度。同じ香り。

窓の外で、帝都の鐘が鳴った。夕刻の鐘だった。

七日後、裁定が下る。

それまでの時間を、この人と、この茶と、自分の仕事で過ごす。

それだけで、今は十分だった。