軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話「帰る場所」

帰ってきた、と思った。

馬車が村の入口を過ぎた時、最初に匂いが変わった。帝都の石と埃の匂いが消え、土と草と、どこか遠くから流れてくる薬草の匂いに変わった。山あいの風。十日間の馬車旅で強張った体に、その風がゆっくりと沁みた。

ラーゼン村は変わっていなかった。石垣の上に洗濯物が干してあり、畑の脇で子どもたちが走り回り、鍛冶屋の煙突から灰色の煙が上がっている。帝都では一月あまりの間に宮廷の茶会に出て、皇帝に茶を淹れ、婚姻の意志を伝えた。けれど、この村は一月前と同じ顔をしている。

馬車を降りた。

翠風堂の戸が見えた。木の看板。乾燥棚。壁に掛けられた採取籠。

戸を開けた。

竈に火が入っていた。鍋の湯気が天井に向かって立ちのぼっている。乾燥棚には薬草が整然と並び、瓶のラベルは一枚も剥がれていない。調合台の上には帳簿が開かれていて、今朝の日付が記されていた。

リーゼルが竈の前に立っていた。

鍋の蓋を持ち上げ、湯面を確認している。蒸気の量を見て、火を少し弱くした。その手つきは、私が教えた通りの動作だった。

「師匠」

リーゼルが振り返った。

目が赤くなりかけていた。けれど、泣いてはいなかった。唇をきゅっと引き結んで、それから、笑った。

「おかえりなさい、師匠」

「ただいま」

声に出して言ったのは、自分でも意外なほど自然だった。帝都で一月あまり過ごし、宮廷の広間に立ち、皇帝の前で茶を淹れた。けれど、この工房の竈の前で「ただいま」と言うことの方が、ずっと確かだった。

リーゼルが鍋から離れ、私の前に来た。

「工房は、全部回ってます。帳簿も毎日つけました。薬草の在庫も確認済みです。村の女性たちの採取チームも、予定通りに動いてます」

早口だった。報告を全部、最初の一息で言い切ろうとしている。

「ありがとう、リーゼル。見ればわかる。工房は完璧に回っている」

リーゼルの目が、また赤くなった。今度は少しだけ、涙がにじんだ。けれどすぐに袖で拭って、「当然です」と胸を張った。

帳簿を確認した。一月分の記録がリーゼルの字で丁寧に記されている。入荷、出荷、在庫、売上、採取日、乾燥日数。一項目も漏れがなかった。三年前、私が初めて帳簿をつけた時は手が震えていた。リーゼルの字は震えていない。真っ直ぐで、力強い。

午後、トーマス村長が翠風堂を訪ねてきた。

「おう、帰ったか」

村長は戸口に立って、私の顔を見た。それから工房の中を見回し、リーゼルの顔を見て、また私の顔に戻った。

「元気そうだな」

「おかげさまで」

「帝都はどうだった」

私は村長を中に招き、茶を淹れた。リーゼルも隣に座った。

帝都での一切を話した。宰相府の客館のこと。諮問会議で提言を行ったこと。侍従長に面会を保留されたこと。侍医を通じて皇帝に茶を淹れたこと。宮廷茶会で皇帝に認められたこと。薬事法の法案骨子に提言が採用されたこと。

そして、婚姻のこと。

「宰相閣下と、婚姻の意志を確認しました」

村長は茶を飲みながら、黙って聞いていた。

私の話が全て終わった後、村長は杯を置いて、一言だけ言った。

「そうかい」

それだけだった。

驚きも、感動も、忠告もなかった。ただ「そうかい」と頷いただけ。

けれど、その一言の中に、村長が言いたいことは全部入っていた。よくやった、とも。心配していた、とも。これからも見ている、とも。この人はいつもそうだ。短い言葉の中に、全部を入れる。

リーゼルの方を見た。

リーゼルは膝の上で拳を握っていた。目が潤んでいた。唇が震えていた。

「師匠、おめでとうございます」

泣きそうな顔で、笑っていた。

「ありがとう」

私は静かに答えた。

「リーゼル。一つ、伝えておきたいことがある」

リーゼルが背筋を伸ばした。

「私は帝都と辺境を行き来する生活になる。宰相府の薬草顧問としての公務がある時は帝都に出仕し、それ以外の時間はここに戻る。翠風堂の工房主は続ける」

リーゼルの目が大きくなった。

「翠風堂を、閉じないんですか」

「閉じない。ここは私の仕事場だから」

リーゼルが唇を噛んだ。涙が一筋、頬を伝った。

「けれど、私が帝都にいる間、工房の実質的な責任者はあなたになる。帳簿の署名も、薬草の品質判断も、仕入れと出荷の管理も、全てあなたが判断する」

「……はい」

「あなたがここを守ってくれるなら、私は安心して帝都に立てる」

リーゼルが涙を拭った。袖でごしごしと拭って、目を上げた。

「任せてください」

その声は震えていなかった。

夕方、翠風堂の帳簿にリーゼルの署名を加えた。

「翠風堂実務責任者 リーゼル」

リーゼルは筆を持つ手をじっと見つめてから、一画ずつ丁寧に名前を書いた。帳簿の上に、私の名前とリーゼルの名前が並んだ。

三年前、この帳簿には私の名前しかなかった。一人で始めた工房。一人で帳簿をつけ、一人で薬草を採り、一人で茶を煎じた。

今は二人の名前がある。

村の女性たちの採取チームがある。トーマス村長が目を配ってくれている。帝都には法務官が提言を法案にしてくれている。侍医官が茶の効能を認めてくれている。皇帝が茶を飲んでくださった。

そして、レナードがいる。

私は窓の外を見た。山あいの空が夕焼けに染まっている。帝都の空より低く、帝都の空より色が濃い。

帰る場所と、行く場所。

どちらも、ここにある。どちらも、自分で選んだ。

翠風堂の竈の火が、ぱちりと音を立てた。リーゼルが薪を足している。

「師匠、今夜の茶はあたしが淹れます」

「お願い」

リーゼルが竈の前に立つ姿を、椅子に座って見ていた。鍋肌の泡を見る目。火を調整する手つき。蓋を開ける間合い。全部、私が教えた動きだった。けれど、もう私の動きの写しではない。リーゼルの動きになっている。

杯に茶が注がれた。

一口飲んだ。

菩提樹の花。少しだけ甘く、少しだけ温かい。翠風堂の味だった。

「美味しい」

リーゼルが笑った。今度は泣いていなかった。

夕焼けが山の向こうに沈んでいく。翠風堂の小さな窓から、最後の光が帳簿の上に落ちた。二つの名前を照らして、消えた。

明日の朝、また竈に火を入れる。いつもと同じ朝。けれど、同じ朝の中に、少しだけ違う温度がある。

レナードから書簡が届くだろう。正式な婚約の前に、もう一度、とあの夜言っていた。

この翠風堂で、もう一度、茶を淹れる。

あの人のために。