軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話「遠い屋根」

山あいの谷を抜けてきた風が、乾燥棚のカワラヨモギを揺らした。

春の朝だった。雪はもう残っていない。工房の窓を開けると、湿った土の匂いが入ってきた。冬を越えた地面が、ようやく息をしている。

私は竈に火を入れ、鍋に水を注いだ。

翠風堂の朝は変わらない。棚の瓶を順に確認し、トウキの残量を帳簿に記す。ヤナギソウの在庫は十分。カモミールの花芽は昨日リーゼルが摘んできた分を加えれば、今月の注文には足りる。

帝都の商会への納品は順調だった。宰相府管轄の流通経路が安定してから、注文量は月を追うごとに増えている。村の女性たちの選別・乾燥チームも手慣れてきて、品質のばらつきはほとんどなくなった。

穏やかな日常だった。

この穏やかさの中に、一通の書簡がある。

棚の上に置いた封筒を、私は朝の仕込みをしながら三度見た。宰相府の公印が押された公的書簡と、もう一枚、公印のない私的な一筆。昨日の夕方、宰相府の定期便で届いたものだ。

公的書簡の内容は簡潔だった。

帝都で薬事法整備の議論が始まったこと。薬草茶の品質基準・販売規制・効能表示に関する法的枠組みを策定するにあたり、宰相府として帝国公認辺境薬草顧問の知見を求める公的召集を検討していること。

帝都出仕。

その言葉が、公的書簡の行間から浮かび上がっていた。

私的な一筆には、一行だけ書かれていた。

「あなたの意志を確認してからでなければ、召集状は出しません」

レナードの筆跡だった。

公務と私情を分ける人だ。公的書簡で制度上の選択肢を示し、私的な一筆で「強制ではない」と念を押す。あの人らしいやり方だった。

手を重ねたあの日から、一月が経っている。

書簡のやり取りは続いていた。公務の報告に混じって、短い私的な言葉が添えられる。帝都の天気のこと。宰相府の庭に咲いた花のこと。それから、「次に会えるのを楽しみにしています」という一文。

その一文を読むたびに、胸の奥が温かくなる。もう、その温かさに名前をつけることを恐れてはいない。

けれど今朝の書簡は、違う温度を持っていた。

帝都。

三年前に断罪された場所。公爵令嬢としての人生が終わった場所。あの宮廷の広間で、大勢の貴族の前で、私は名前と居場所を奪われた。

その場所に、もう一度行く。

今度は誰かに連れ出されるのでも、追い出されるのでもない。自分の足で、自分の意志で。

鍋の湯が沸き始めた。小さな泡が鍋底に並ぶ。六十度。火を弱める。

手は覚えている。何千回と繰り返した動作だ。この手の動きだけは、どこにいても変わらない。帝都の宮廷であっても。

——本当に、そうだろうか。

あの場所に立った時、私は「翠風堂の工房主」でいられるだろうか。断罪された記憶が蘇って、足が竦むのではないか。あるいは、無意識に公爵令嬢の仮面を被ってしまうのではないか。

どちらも嫌だった。

私は今の自分のまま、あの場所に立ちたい。

「師匠、おはようございます!」

戸口からリーゼルが飛び込んできた。赤毛を一つに結んだ姿は、半年前と変わらない。変わったのは腕の太さだ。毎日薬草の束を担いでいるうちに、腕力がついた。

「おはよう、リーゼル」

「今日の仕込み、ヤナギソウとカモミールですよね。乾燥棚の分、昨日のうちに選別しておきました」

「ありがとう。確認するわね」

乾燥棚に向かいながら、私は書簡のことを考えていた。

リーゼルに話すべきだろう。帝都出仕の可能性があること。もしそうなれば、翠風堂をしばらくこの子に任せることになること。

棚のカモミールを手に取った。乾燥具合は申し分ない。花芽の形が崩れず、香りも十分に残っている。リーゼルの選別基準は、もう私と同等かそれ以上だ。

「リーゼル」

「はい」

「帝都から書簡が来たの」

リーゼルの手が一瞬止まった。

「薬事法という法律の整備で、私の知見を求める召集が検討されているそうよ。まだ正式な召集ではないけれど、もし応じるなら帝都に出向くことになる」

リーゼルは黙って聞いていた。

「その間、翠風堂をあなたに任せることになる」

沈黙が落ちた。

竈の火がぱちりと爆ぜた。

「どのくらい、ですか」

「わからない。数週間かもしれないし、もう少し長くなるかもしれない」

リーゼルは乾燥棚のカモミールを握ったまま、数秒間じっとしていた。

それから、顔を上げた。

「師匠、行ってきてください」

声は震えていなかった。

「あたしが翠風堂を守ります」

「リーゼル」

「帳簿のつけ方も、選別の基準も、煎じの温度管理も、全部教わりました。調合の最終工程だけは師匠じゃなきゃできないけど、それ以外はあたしと村のおばさんたちで回せます」

一気に言い切ったリーゼルの目は、真っ直ぐだった。

「師匠が帝都で声を上げてくれたら、翠風堂の茶がちゃんとした法律で守られるんですよね。それって、あたしたちの仕事が守られるってことですよね」

「……ええ。そうよ」

「じゃあ、行かなきゃだめです」

リーゼルが胸を張った。

この子の背中が、いつの間にか広くなっていた。

半年前、「あたしも帝国公認の一部ですね」と笑っていた少女が、今は工房の実務を語る目をしている。

手放す寂しさがあった。

けれどそれは、育てたものが自立する時に感じる、誇りと表裏一体の寂しさだった。

「ありがとう、リーゼル」

「お礼なんていいです。師匠が帰ってきた時に、帳簿がぐちゃぐちゃだったら怒ってくださいね。そしたらあたし、もっと頑張れるので」

リーゼルが笑った。

私も笑った。

夕暮れ、工房の片付けを終えた後、窓の外を見た。

辺境の空は今日も広い。春の夕空は淡い紫色で、山の稜線が黒く浮かんでいる。

帝都の空は狭い。尖塔と屋根に切り取られた、四角い空だ。

あの狭い空の下に、もう一度行く。

怖くないと言えば嘘になる。

けれど、帰る場所がある。

この工房がある。竈がある。乾燥棚がある。リーゼルがいて、村の人たちがいる。

三年前、帝都を追われた時には何もなかった。行く場所もなく、帰る場所もなく、ただ歩き続けるしかなかった。

今は違う。

行く場所と帰る場所の、両方がある。

レナードへの返書を書こう。召集に応じる意志があることを伝える。

そう決めて、棚から便箋を下ろした時、工房の戸が叩かれた。

「ヴィオレッタさん」

トーマス村長の声だった。

戸を開けると、村長が杖を突いて立っていた。夕暮れの中、白髪交じりの髪が風に揺れている。

「こんばんは、村長。どうされましたか」

「ちょっと、話があるんじゃが」

村長は工房の敷居をまたぎ、竈の前の椅子に腰を下ろした。右膝をかばう動きは以前より軽い。ヤナギソウの茶を毎日飲んでいる成果だろう。

「帝都に行くかもしれんそうじゃな。リーゼルから聞いた」

「はい。まだ正式な召集ではありませんが」

「うむ」

村長は杖の先を床に突き、少し考え込むような間を置いた。

「帝都に行くなら、一つ頼みがあるんじゃが」

「頼み、ですか」

村長の目が、真っ直ぐ私を見た。

「この村の茶を、ちゃんとしたものとして認めてもらえんか」

その言葉の重みを、私は受け止めた。

村長は続けた。

「法律がないまま売り続けとると、いつかどこかで規制をかけられるかもしれん。そうなった時、この村の収入が一気に消える。わしは兵隊上がりじゃから、制度がないところに人が集まるとどうなるか知っとる。今のうちに、枠を作っておくべきじゃ」

元帝国兵の現実主義。この人は、制度の中で生きることの意味を知っている。

「……わかりました」

私は頷いた。

「私にできることがあるなら、やります。この村の茶が、法律で守られるように」

村長が目を細めた。

「頼んだよ、ヴィオレッタさん」

杖を突いて立ち上がり、村長は戸口に向かった。

「村長」

呼び止めると、村長が振り返った。

「行ってきます」

村長は一瞬、目を丸くした。それから、皺だらけの顔をくしゃりと崩して笑った。

「行ってこい」

戸が閉まった。

私は便箋の前に座り、筆を取った。

レナードへの返書。公務としての召集に応じる意志を伝える文面。村長の頼みも書き添えたかったが、今夜は召集への意志だけを書こう。村長の件は明日、改めて整理してから加えたい。

書き終えた便箋を机の上に置いて、窓の外を見た。

夕空の色が、紫から藍に変わりつつある。

帝都の屋根は、この空の向こうにある。

十日後、あの石畳の上に立つ。

翠風堂の竈の火を落とし、戸締まりを確認した。乾燥棚の薬草が、夜風にかすかに揺れた。

明日の朝、村長の頼みを書き加えて封をしたら、宰相府の定期便に託す。

それが、最初の一歩になる。