軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話「翠風の続き」

私は竈に火を入れた。

いつもと同じ朝だった。薬草棚の瓶を順に確認し、トウキの残量を帳簿に記す。リーゼルはまだ来ていない。昨日、「明日の午前は帳簿の棚卸しやります」と言っていたから、昼前には来るだろう。

窓を開けた。

山あいの空気が入ってきた。春の匂い。雪は溶けきって、工房の裏手には若草が伸び始めている。

今日、レナードさんが来る。

書簡に日付が指定されていた。三度目の私人訪問。護衛なし、公的書類なし。弾劾が片づいた後の、初めての訪問。

棚の奥から、小さな紙包みを取り出した。

改良を重ねた配合。甘草を減らし、蒸らしの時間を調整し、余韻が長く残るように仕上げたもの。

何度も試作した。リーゼルに「練習ですか」と聞かれて、答えなかった。

練習ではない。

この人のために作った茶だ。

昼過ぎ。

工房の戸が叩かれた。

「入ってください」

戸が開いた。

レナードさんが立っていた。

紋章はない。剣も帯びていない。護衛もいない。仕立てのいい外套だけが、辺境の風景の中で静かに浮いている。

変わらない。この人は変わらない。

けれど、目元が少しだけ柔らかくなっていた。弾劾の対処で張り詰めていた時とは違う。肩の力が抜けている。

「お久しぶりです」

私は作業台の前から一歩出て、頭を下げた。

「お待ちしていました」

「ありがとうございます」

レナードさんが椅子に腰を下ろした。いつもの椅子。いつもの場所。

私は竈の前に戻った。

鍋に湯を張る。温度を見る。蒸気の立ち方と、鍋肌の泡の大きさ。前より少し低い温度。この人の飲み方に合わせた温度。

紙包みを開いて、刻んだトウキと甘草を土瓶に入れた。湯を注ぐ。蓋をして、三分。

蓋を開けた。

香りが立った。丸くて、柔らかくて、奥に甘さが残る。今までで一番いい配合だった。

杯に注いだ。淡い琥珀色。

レナードさんの前に置いた。

「前にお出ししたものを、また少し変えました」

レナードさんが杯を持ち上げた。両手で。湯気の匂いを吸い込んで、口をつけた。

今日は冷まさなかった。温度を下げたことに、気づいている。

長い沈黙があった。

「……余韻が、長くなりましたね」

「はい。少し調整しました」

「美味い」

短い言葉。けれど、杯を置く手がゆっくりだった。名残惜しそうに。

「これは仕事ではありません」

私は言った。

同じ言葉。前にも言った言葉だった。けれど、今の声は前より確かだった。震えていない。迷っていない。

「私が、あなたに淹れた茶です」

レナードさんが顔を上げた。

目が合った。

「ヴィオレッタ」

レナードさんが杯を置いた。

「お伝えしたいことがあると書きました」

「はい」

「あなたの隣に立ちたい」

静かな声だった。

「宰相としてではなく。私個人として」

前にも似た言葉を聞いた。あの時は「隣にいてよいですか」だった。今日の言葉は、もう一歩踏み込んでいる。

「私もそう思っています」

自分の声が、思ったより落ち着いていた。

逃げなかった。壁を作らなかった。三年前の私なら、この言葉を聞いた瞬間に距離を取っていた。今はそうしない。そうしたくない。

「でも」

私は続けた。正直に。

「私はまだ答えを持っていません。あなたの隣に立つことが、あなたにとって重荷にならないか。平民のままこの工房にいる私が、あなたの傍にいることで、また同じことが起きるのではないか」

弾劾のこと。父のこと。身分の壁。全部が、まだ頭の中にある。

レナードさんは黙って聞いていた。

それから、静かに答えた。

「重荷かどうかは、私が決めます。あなたが決めることではない」

強い言葉だった。けれど声は穏やかだった。

「弾劾の時も、公爵が来た時も、私は自分で選んでここに来ています。あなたに強いられたことは一度もない。私が選んだことです」

「あなたが平民であることも、この工房にいることも、私にとっては重荷ではありません。むしろ」

レナードさんが、一度言葉を切った。

「あなたがここにいるから、私は来たいと思う」

この人は不器用だ。言葉を選ぶのに時間がかかる。感情を正確に言語化しようとして、いつも少しだけ遅れる。

でも、遅れた分だけ、言葉が正確だった。

嘘がない。飾りがない。ただ、事実だけが並んでいる。

「……ありがとうございます」

声が少しだけ震えた。少しだけ。

私は作業台の向こう側から回り込んで、レナードさんの向かいに座った。

杯を手に取った。同じ配合の茶を、自分の分も注いでいた。

一口、飲んだ。

同じ味。同じ香り。同じ温度。

二人で同じ茶を飲んでいる。

仕事ではなく。

「レナードさん」

「はい」

「私は、まだ全部の答えを持っていません。身分のことも、これからのことも。でも」

杯を置いた。

「逃げてはいません。考えています。あなたの隣に立つ方法を、まだ探しています」

レナードさんが頷いた。

「急ぎません」

「ありがとうございます」

「ただ、一つだけ」

レナードさんが少し前に身を乗り出した。

「帝都に、あなたを迎える場所を作りたい」

「迎える場所」

「宰相の伴侶として辺境の平民を迎えることは、帝国に前例がありません。制度上の障壁がある。けれど、制度は変えられる。前例がないなら、作ればいい」

この人らしい考え方だった。合理的で、正確で、制度の枠組みの中で解を探す。

「すぐにではありません。時間がかかる。けれど、準備を始めたい」

「……伴侶」

その言葉を、私は口の中で繰り返した。

まだ交際宣言もしていない。婚約も、何も。それなのに、この人はもう制度の話をしている。

可笑しかった。

少しだけ、笑ってしまった。

「何か可笑しかったですか」

「いえ。あなたらしいなと思って」

レナードさんが少し困った顔をした。それから、自分でも気づいたのか、口元が緩んだ。

「順番が違いましたか」

「だいぶ違います」

「そうですか」

「でも」

私は杯に手を添えた。

「嬉しかったです」

レナードさんが息を吸った。吐いた。

それから、静かに手を伸ばした。

作業台の上。杯の隣。

私の手に、レナードさんの手が重なった。

温かかった。

大きな手だった。書類を捌き、法令を書き、帝国を動かす手。その手が、私の手の上に、そっと置かれている。

振り払わなかった。

握り返した。

ほんの少しだけ。指先に力を込めた。

「ヴィオレッタ」

レナードさんが名前を呼んだ。肩書きなしの、名前だけの呼び方。

「レナード」

私も呼び返した。

「さん」が取れた。

初めてだった。

声が震えるかと思った。震えなかった。

ただ、胸の奥が温かかった。

窓から風が入ってきた。翠風堂の窓。三年間、毎朝開けてきた窓。同じ風が、同じ薬草の匂いを運んでくる。

三年前、この工房に一人で立っていた。銀貨四枚とトウキの根三束で始めた。

今、同じ工房で、この人と向き合っている。

手が重なっている。

茶の湯気が、二人の間でゆっくりと立ち上っている。

始まっている。

もう始まっている。

予感ではなく、実感として。

答えはまだ全部は出ていない。身分のこと、制度のこと、帝都と辺境のこと。解かなければならない問題は残っている。

でも、この手の温度を知っている。

この人の声を知っている。

この人が淹れた茶ではなく、私が淹れた茶を飲んでくれることを知っている。

それで今は、十分だった。

窓の外で、風が翠風堂の看板を揺らした。

竈の火が静かに燃えている。

翠風堂の日は、明日も続く。

(完)