軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話「古い字」

これは、誰の字だろう。

封を切った瞬間、そう思った。

朝の工房に、見覚えのない使者が立っていた。宰相府の定期便ではない。馬に乗った男が一人、公爵家の紋章が入った革の書簡袋を差し出して、何も言わずに去った。

リーゼルが窓から使者の背中を見送っている。

「師匠、あれ、宰相府の人じゃないですよね」

「違う」

紋章を見ればわかる。鷲と月桂樹。ルーゼン公爵家の家紋だった。

私はその紋章を、十五年間毎日見て育った。

書簡袋の中に、封書が一通。

封蝋の紋章も同じだった。

開けるべきか。

手が止まった。

レナードさんが言っていた。公爵が動いている。勘当撤回の準備をしている。公爵が直接辺境に来る可能性がある、と。

その前触れだろうか。

封を切らなければ、何も始まらない。切らなければ、ただの紙だ。

私は封を切った。

中の便箋を広げた。

筆跡を見た瞬間、胸が詰まった。

見覚えがあった。

幼い頃、父の書斎で見た字。公爵家の公式書簡ではない、私的な手紙の字。少し右に傾く癖。筆圧が強くて、紙に溝ができる。

三年前の断罪の場で、判決文を読み上げた法務官の声は覚えている。けれど父の字を最後に見たのはいつだったか。もっと前だ。勘当の前。まだ私が公爵家の令嬢だった頃。

文面は短かった。

『会いたい。話がしたい。』

それだけだった。

署名は「エーリヒ・ルーゼン」。公爵の公式な署名ではなく、個人の名前だった。

私は便箋を膝の上に置いた。

手が震えていた。

怒りではない。悲しみでもない。もっと古い場所から来る、名前のつかない感情だった。

三年間、何もなかった。

勘当されて辺境に来て、銀貨四枚とトウキの根三束で始めた。工房を建てて、リーゼルを迎えて、村の産業を作った。その間、父からは一文字も届かなかった。

それが今、たった二行。

「会いたい。話がしたい」。

何を話すというのか。

返書を書こうとした。書けなかった。何を書けばいいのかわからなかった。

私は便箋を畳み、棚の奥にしまった。

捨てはしない。でも、返事も書かない。

午後、トーマスさんが工房に来た。

「ヴィオレッタさん、ちょっといいかね」

村長の顔は穏やかだったが、目の奥に心配の色があった。

「今朝、公爵家の紋章をつけた使者が村を通ったそうじゃな。村の者が何人か見ておる」

やはり、目立っていた。

辺境の村に公爵家の使者が来ること自体が異常だ。馬に乗った男が紋章入りの書簡袋を持って走れば、村人の目に留まらないはずがない。

「トーマスさん」

「うん」

「少し、お話ししたいことがあります」

私は竈の前の椅子を指した。トーマスさんが腰を下ろす。リーゼルは奥の乾燥棚で作業をしている。聞こえる距離だが、この子にはまだ話す準備ができていない。

「トーマスさん。私は三年前に帝都の宮廷で断罪された、元公爵令嬢です」

声に出すと、思ったより平坦だった。

「ルーゼン公爵家の令嬢として育ち、冤罪で断罪され、勘当されてこの村に来ました。断罪は無効になりましたが、身分の復帰は辞退しました。今の私は平民で、帝国公認の辺境薬草顧問です」

トーマスさんは黙って聞いていた。

私が話し終えても、しばらく黙っていた。

それから、膝を一つ叩いた。

「知っとったよ」

「え」

「薄々な。最初にこの村に来た時から、ただの流れ者にしちゃ物腰が違うと思うとった。帳簿のつけ方も、薬草の知識も、平民の娘が独学で身につけるにしちゃ整いすぎとる」

「それに、宰相閣下が直々にこの村に来るようになった時、確信したわ。辺境の薬草茶がいくら美味くても、宰相が何度も足を運ぶ理由にはならん」

トーマスさんは笑った。穏やかな、しわの深い笑い方だった。

「じゃが、わしにとっちゃ関係のないことじゃ」

「関係のない」

「お前さんが公爵の娘だろうが平民だろうが、この村に来て工房を建てて、薬草茶を作って、村の暮らしを良くしてくれたのは変わらん。リーゼルを育てて、グスタフに流通を作って、トウキの煎じ茶で村の年寄りの咳を止めてくれたのも変わらん」

「それがお前さんのやったことじゃ。名前も肩書きも、後からついてくるもんだろう」

私は言葉が出なかった。

涙がこぼれそうになって、唇を噛んだ。

「村の者には、わしから話しておく。公爵家の使者が来た理由は、帝国薬草顧問への公式連絡じゃ、とな。それで十分じゃろう」

「……ありがとうございます」

「礼はいらん。お前さんが明日も竈に火を入れてくれれば、それでいい」

トーマスさんが立ち上がった。帽子をかぶり直して、戸口に向かう。

振り返って、一つだけ付け加えた。

「公爵が来るんなら、わしが村の代表として迎える。お前さんは工房にいなさい。ここはお前さんの場所じゃ」

戸が閉まった。

工房に一人になった。

リーゼルは奥で作業を続けている。カミツレの花を吊るす音が、小さく聞こえる。

この子にも話さなければならない。

でも、今日ではない。

明日の仕込みが終わってから。この子が落ち着いて聞ける時間に、自分の口から伝える。

「この子にだけは、自分の口から」。

それだけは決めていた。

夜。

棚の奥から父の書簡を取り出した。

もう一度、読んだ。

「会いたい。話がしたい」。

字は、記憶の中のものと少し違っていた。

右に傾く癖は同じだ。けれど筆圧が弱くなっている。紙に溝を作るほどの力がない。三年の間に、父も変わったのだろうか。

返書はまだ書かない。

捨てもしない。

竈の残り火がかすかに赤い。トウキの香りが工房の中に漂っている。

この場所を、私は三年かけて作った。

ここに父の字が届いた。

それだけが、今の事実だった。

便箋を畳み、棚に戻した。

明日、リーゼルに話す。

それが、今の私にできる次の一歩だった。