軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話「翠風の約束」

竈に火を入れた。

いつもと同じ朝だった。薬草棚の瓶を順に確認し、トウキの残量を帳簿に記す。リーゼルはまだ来ていない。今日は北の斜面に採取へ行くと昨晩言っていたから、昼前には戻るだろう。

窓を開けると、山あいの冷たい空気が入ってきた。

春の手前。雪は溶けかけているが、朝はまだ白い息が出る。

工房の中に風が通り、乾燥棚に吊るしたカワラヨモギが揺れた。

今日、レナード・ヴァイスフェルトが来る。

書簡には「公務ではなく、個人として」と書かれていた。護衛なし、公的書類なし。宰相としてではなく、一人の人間として辺境を訪れると。

三度目の来訪だった。

一度目は視察官として。二度目は書簡という形で。そして今日は、肩書きを外して。

私は棚の前で手を止めた。

どの茶を出すか、昨晩から決められずにいた。

仕事として出すなら、ヤナギソウの煎じ茶でいい。来客用に出すなら、甘草を加えた定番の配合がある。

けれど、今日はどちらでもない。

私はエプロンの内側に手を入れた。

折り畳んだ紙が指に触れる。あの日、三枚の書類と一緒に届いた私信。「あなたの答えを、急かすつもりはありません」。もう何度読み返したかわからない一行。

紙を元に戻して、棚に手を伸ばした。

トウキの根。甘草。杏仁。カワラヨモギ。

彼の母の話を聞いた日に、初めて組んだ配合。呼吸を楽にする煎じ茶。あれから何度も改良を重ねた。温度の管理を変え、蒸らす時間を調整し、苦みの角を取った。

今朝の分は、その最新の形だった。

これは仕事ではない。帝都への納品でもなければ、顧問としての職務でもない。

私が、あの人に淹れたい茶だった。

鍋に水を張り、火にかけた。沸騰する前に火を弱める。六十度を超えないように。蒸気の立ち方と、鍋肌の細かい泡で温度を見る。

昼過ぎ、工房の戸が叩かれた。

「入ってください」

戸が開いた。

レナード・ヴァイスフェルトが立っていた。

外套は帝都で見かけるような仕立てのいいものだったが、宰相の紋章はどこにもない。剣も帯びていない。護衛の騎士の姿もなかった。

ただの男が一人、工房の入口に立っている。

「……お久しぶりです」

私は作業台の前から一歩出て、頭を下げた。

「お待ちしていました」

「待っていてくれたのですか」

レナードは少し驚いた顔をした。それからすぐに、口元が緩んだ。

「ありがとうございます」

声が柔らかかった。公務の時とは違う。帳簿や報告書を読み上げる時のあの硬い声ではない。

私は壁際の椅子を指した。

「どうぞ。茶の用意があります」

レナードは椅子に腰を下ろした。姿勢は良いが、膝の力は抜けている。緊張はしている。けれど、構えてはいない。

私は鍋の前に戻った。

温度を確かめる。湯気の量。泡の大きさ。手は覚えている。何度も繰り返した工程だった。

杯に注ぐ。淡い琥珀色の液体が湯気を立てる。

私は杯を持って、レナードの前に置いた。

「ご母堂様が好んでいたものに近い配合です。以前お出ししたものを、少し変えました」

レナードは杯を見つめた。

両手で持ち上げ、湯気の匂いを吸い込んだ。

目を閉じた。

長い沈黙があった。

「……ええ」

かすれた声だった。

「この味です」

杯を置く手が、わずかに震えていた。あの日と同じだった。けれど今日は、震えの質が違う。悲しみだけではない。何か別のものが混ざっている。

「ヴィオレッタ殿」

「はい」

「今日、私がここに来たのは」

レナードは杯から手を離した。膝の上で指を組む。宰相が報告をする時の仕草だった。けれどすぐに、その指をほどいた。

「……顧問でも、元令嬢でもなく」

言葉を探している。この人がこんなに言葉に詰まるところを、私は初めて見た。帳簿の異常値を読み解く時も、法務院への命令を出す時も、この人の言葉は常に正確で、迷いがなかった。

「あなた自身と、向き合いたいと思って来ました」

静かな声だった。

私は立ったまま、その言葉を聞いた。

心臓が痛いほど動いている。逃げたい、と思った。三年間ずっとそうしてきたように、壁を作って、距離を置いて、「私には関係ない」と言ってしまえば楽だった。

けれど。

この人は護衛もなく、紋章もなく、ここに来た。

宰相の権限でもなく、贖罪でもなく。

ただの人として、私の前に座っている。

「……贖罪ではないのですか」

口を衝いて出た言葉は、自分でも意地悪だと思った。

レナードは目を逸らさなかった。

「最初はそうだったかもしれません」

正直な答えだった。

「三年前、私には何もできなかった。あの断罪を止める権限がなかった。その悔恨はあります。今もあります」

「けれど」と、レナードは続けた。

「あなたが淹れた茶を飲んだ時。母の話をした時に、あなたが黙って調合を変えてくれた時。あの瞬間から、贖罪とは別のものが動き始めていた」

「それが何か、私は長い間わからなかった。公務と私情の区別がつかなくなっていたのかもしれません」

レナードは自分の手を見た。

「今日ここに来て、わかりました。私はあなたに会いたかっただけです」

工房の中が静かだった。

竈の火がぱちりと音を立てた。乾燥棚のカワラヨモギが風に揺れた。

私は椅子を引いて、レナードの向かいに座った。

立ったまま聞く話ではないと思ったからだった。

「私は」

自分の声が震えていることに気づいた。

「三年間、誰にも期待しないと決めていました」

「期待すると、裏切られる。信じると、壊される。だから一人で立っていようと」

「……でも」

杯を見た。自分が淹れた茶。この人のために改良を重ねた配合。仕事ではないと、自分で認めた茶。

「これは仕事ではありません」

私は杯に手を添えた。

「私が、あなたに淹れた茶です」

言葉にした途端、胸の奥の壁が一枚、音もなく崩れた。

怖かった。

でも、逃げなかった。

「少しずつでいいなら」

自分の声が、思ったより落ち着いていた。

「少しずつ、信じてみたいと思います」

レナードが息を吸った。吐いた。

それから、静かに私の名前を呼んだ。

「ヴィオレッタ」

肩書きも、敬称もなかった。

ただ、名前だけ。

この人が私の名前をそう呼んだのは、初めてだった。

「……レナード、さん」

私も呼び返した。「宰相閣下」ではなく。

声が少しだけ、震えた。

夕方になっていた。

茶は二杯目になっていた。

話の内容は変わっていた。帝都の流通の話でも、断罪の話でもない。レナードの幼少期の話。母が好きだった庭の花。私が前の人生で飲んだことのある、この世界には存在しない飲み物の話。

笑った。

声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。

窓の外から風が入ってきた。翠風堂の窓。三年間、毎朝開けてきた窓。同じ風が、同じ薬草の匂いを運んでくる。

けれど、今日は少しだけ違って感じた。

工房の中に、自分以外の温度がある。

向かいに座る人の手が、杯の上で湯気に透けている。

「リーゼルが戻る前に、一つだけ」

レナードが立ち上がった。

「次に来る時は、もう少し早く来ます」

「次があるのですか」

「あなたが許してくれるなら」

私は少し考えた。

考えるふりをした、と言った方が正しいかもしれない。答えはもう出ていた。

「翠風堂は朝が早いので、遅れると茶が冷めます」

レナードは一瞬きょとんとした顔をして、それから笑った。

静かな笑い方だった。

声を抑えて、けれど目元が緩んで、肩の力が抜けている。宰相の顔ではなかった。

戸口で、レナードが振り返った。

「良い茶でした」

最初に来た日と同じ言葉だった。

けれど、声の色がまるで違っていた。

「お気をつけて」

私は工房の入口に立って見送った。三年前は誰の背中も見送らなかった。レナードが初めて発った朝、門の外に出た。今日は、門の外で足を止めなかった。

レナードの背中が村道の向こうに小さくなっていく。

風が吹いた。

翠風堂の看板が軋んだ。

私は工房に戻り、二つの杯を洗った。

棚を確認し、明日の採取の計画を帳簿に書き込んだ。トウキの根。北の斜面の樫の木の下。リーゼルと二人で行く。

いつもと同じ手順だった。

けれど、帳簿を閉じた後、私は少しだけ窓の外を見た。

春が来る。

雪が溶けたら、工房の裏手に新しい薬草畑を作ろう。リーゼルに任せられる品目を増やそう。帝都からの注文にも、村の暮らしにも応えられるように。

それから。

次にあの人が来た時のために、もう一つ、新しい配合を試してみよう。

仕事ではなく。

私が、淹れたいから。

竈の火が静かに燃えていた。

翠風堂の朝は、明日も続く。

(完)