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夫が屋敷に連れ込んだ女は、これで二十三人目。離縁されても文句はありませんよね? ついでに一発だけ殴らせてください

作者: 水炎

本文

夫が女を屋敷に連れ込んだ。

むせ返るほど濃い百合の香りをまとったその女は、腕に赤ん坊を抱いていた。

「リリアンだ。仲良くしてやってくれ」

夫のジョセフが、悪びれもせず笑って言った。

私は冷めた目で、彼と女を交互に見やった。

彼が女を屋敷へ連れてきたのは、これで二十三人目だ。

そのたび、言い訳だけは毎回違っていた。

遠縁の娘だの、幼なじみが体を壊したのでしばらく静養させてやりたいだの、親に勘当されて行き場を失った令嬢に、しばらく屋敷に滞在させてほしいと頼まれただの。

どうしてこの世の訳あり女たちは、そろいもそろってジョセフを頼るのだろう。

そしてなぜ、ジョセフを頼ってくる者は決まって若く美しい女ばかりなのだろう。

答えなど、とっくに分かっていた。

それでも見て見ぬふりをして、私は彼の身勝手に耐えてきた。

けれど、今回は言い訳をひねり出す気さえないらしい。

なにしろ、子連れの女を堂々と連れてきたのだから。

「この子を、いずれ我が家の跡継ぎにする」

夫の真剣な宣言に、私はため息さえ忘れて彼を見つめた。

もう何年も前からすり減りきっていた私の心は、いまさら痛みもしなかった。

とうに、目の前の男を人間として見るのを諦めていたから。

私は声を低く抑え、ひどく穏やかに尋ねた。

「レオナード伯爵家の跡継ぎに、という意味でございますか?」

すると、ジョセフがわずかにたじろいだ。

その隣にいるリリアンという女は、落ち着かない様子で目を泳がせていた。

そのとき、背後に人の気配がした。

義母である先代伯爵夫人クララだった。

「それは名案ね」

彼女は扇で口元を隠しながら、ふふっと笑った。

「ちょうどよいではないの。レア、あなたは我が家へ嫁いできて、もう五年も子がないでしょう。この子を跡継ぎにすれば、あなたの負担も減ってよいではありませんか」

私は口角を上げ、ふっと鼻で笑った。

それを承諾と受け取ったのか、ぱっと顔を明るくしたジョセフが私に頼んだ。

「レア、リリアンとノアの世話は君に任せる」

その赤ん坊には、ご丁寧にノアという名前まで付いているらしい。

私は何も言わず、ジョセフを見つめ返した。

女を連れ込むだけなら、まだ耐えられる。

けれど、私の居場所ばかりか、未来まで奪うつもりなら、話は別だ。

我慢してきた。

ずいぶんと長い間、耐えてきた。

けれど、もう限界だった。

私は笑みを浮かべたまま、口を開いた。

「ジョセフ様。どうぞ、お望みのままになさってくださいませ」

「そうか! やはり君のように心の広い女なら、そう言ってくれると思っていたよ」

「ただし」

私は一瞬で笑みを消した。

「私は、あなたと離縁いたします」

「は?」

ジョセフの目が大きく見開かれた。

「どういう意味だ、レア。今までそんなことは一度も言わなかったじゃないか」

「今になって、ようやく決心がついただけです」

そう言ってから、私はひとつため息をついた。

それは自分でも呆れるほど、乾ききったため息だった。

ジョセフのそばで、いったいどれほどのため息をついてきたのだろう。

けれど、それも今日で終わりだ。

これからは、お気に入りの女と暮らすなり、誰を跡継ぎにするなり、好きにすればいい。

私はもう、この泥沼から抜け出すのだから。

「そうか……君の意志がそこまで固いのなら、仕方ないな。レア、君は本当にいい妻だったし……」

「離縁の書類をお待ちしております。手続きはお早めにお願いいたします」

「あ、ああ」

「最後にひとつだけ、お願いがございます」

「……何だ?」

「一発だけ、殴らせてください」

「え? なっ……?」

その言葉に、ジョセフはぽかんとした顔になった。

隣のリリアンは信じられないという顔をし、義母は今にも私へ飛びかかってきそうな勢いで口を挟んだ。

「何を言い出すの!」

ぱぁんっ!

私は大きく手を振り上げ、ジョセフの頬を力いっぱい張った。

周囲は水を打ったように静まり返り、義母は白目をむいた。

「レア、あなた、よくも……!」

そう言いかけた義母は、そのまま気を失った。

慌てて駆け寄り、彼女を支える侍女たち。

石像のようにその場で固まったリリアン。

そして、叩かれた頬を赤く腫らし、顔を横に向けたまま呆然としているジョセフ。

その光景を悠然と眺めてから、私はその場を後にした。

少し遅れて、自分の身に起きたことを理解したらしいジョセフが母を呼び、それから私に怒鳴る声が聞こえた。

「母上! しっかりしてください! ……レア! おまえ、何をしてくれたんだ! 待て、どこへ行く!」

あの一発など、これまで私が受けてきた仕打ちを思えば安すぎるくらいだ。

私はいつでも出ていけるよう自室に用意しておいたわずかな荷物を手に取り、何の未練もなくレオナード伯爵家を出た。

ジョセフ。

ドブの底に沈んだ汚物みたいな、最低の男。

あなたはもう、私を傷つけられない。

◇◇◇

レオナード伯爵家を出たあと、私は王都に香水工房を開いて自立した。

その資金は、私名義で得た正当な収益でまかなった。

怠惰なジョセフと伯爵家の者たちが、家業である香水事業の運営をすべて私に任せていたからこそ、できたことだった。

ジョセフが十人目の女を連れてきたあの日から、私が新しく調香した香水については、伯爵家ではなく私個人の名義で契約を結ぶようにしていた。

ジョセフとの結婚生活は、いつか終わるのだろうと思っていた。

だからこそ、ひとりで生きていく道を用意しておく必要があったのだ。

何しろ、私が育てた事業なのだ。

それくらい、許されてもいいはずだった。

「レア様、うちの工房もずいぶん大きくなりましたね」

工房の職人のひとりが、私を見て嬉しそうに笑った。

以前から息の合っていた職人のうち何人かは、私について伯爵家を出てきてくれていた。

「皆さんが力を貸してくれたおかげです」

「いや。何より、レア、あなたの腕前が抜きん出ているからです」

少し離れたテーブルで紅茶を飲んでいた男が、深い青の瞳を私に向けた。

カール・ロレンツ。

伯爵家で香水事業を運営していた頃からの知り合いで、今では私たちの工房にとって一番の後援者だった。

同時に、王都最大の商会を陰で動かす実力者でもあった。

「カール様にも、本当にたくさん助けていただきました」

「伯爵家の名に隠れていたレアの真価に気づいただけです。レアが生み出す香りは、実に興味深いですから」

心からの感謝を込めてカールに頭を下げると、彼は笑って応じてくれた。

ジョセフとの離縁が貴族院で正式に受理されてから、私は周囲の人々にレアと呼ばれるようになった。

これからの人生は伯爵夫人ではなく、ただのレアとして生きる。

そう決めたのだ。

私はカールに微笑みかけ、そこで彼がここへ来た用件を思い出した。

「そうでした、カール様。今月の収支報告書をご確認いただくのでしたね。すぐに持ってまいります」

「私が見に行きましょう。レアは作業を続けてください」

カールは私の肩を軽く叩き、書類を保管している私の執務室のほうへ向かった。

私は彼の広い背中と、さらりと揺れる銀髪を目で追ってから、作業台へ戻った。

そして、抽出していた薔薇の原液を、目の細かい布で丁寧にこした。

夜明け前から摘み集めた花で作った、瑞々しく清らかな原液。

その出来に満足して眺めていた、そのときだった。

工房の扉が乱暴に開いた。

「レア」

目の前には、三か月ぶりに見る元夫、ジョセフが険しい顔で立っていた。

その隣には、彼の二十三人目の女、リリアンもいる。

彼女は首にも耳にも、ドレスにまで、宝石をじゃらじゃらと身につけていた。

「こちらまで、何の御用でしょうか」

私は作業台へ視線を戻したまま、淡々と言った。

ジョセフは私の工房を見回し、皮肉げに鼻を鳴らした。

「ずいぶん楽に暮らしているようだな。こちらはおまえのせいで、破滅寸前だというのに」

以前よりも、ずいぶん荒い口調だった。

「……そちらの伯爵家が傾きかけていることと、私に何の関係が?」

そこでようやく、私は面倒そうに彼へ目を向けた。

今のレオナード伯爵家は、私とは何の関係もない他家だった。

「おまえが無責任に屋敷を飛び出したせいで、うちの取引先は全部離れていったんだ。おまえはうちの取引先を根こそぎ奪っていった」

「そうですか? 香水事業をまともに回せるだけの才覚があれば、取引先が根こそぎ離れることなどなかったはずですけれど」

私は二人を一瞥し、ぽつりと返した。

ジョセフの言うとおり、私が出ていったあと、伯爵家の事業はあっという間に傾いた。

取引先はすべて離れ、伯爵家の香水を好んでいた人々も背を向けた。

彼らが愛していた香水の質が、あまりにも落ちたからだ。

香水のことを何ひとつ知らないうえに、材料費を惜しんで安物ばかり使っているのだから、当然といえば当然だった。

浮いた金で、新しい女の装飾品でも買ったのだろうか。

私は着飾ったリリアンを見て、そう思った。

「才覚だと? たかが香水に、そんなものがどうして要る? レシピどおりに作っているのに、リリアンに任せた途端この有様だぞ。香水なんて、混ぜればできるものだろう!」

名前を出されたリリアンは、不満そうに唇を尖らせた。

「……どうして私が香水事業なんて任されなければならないんですの? 私は女主人らしく振る舞うと言っただけで、うんざりする工房の匂いを嗅いで暮らすつもりなんてありませんでしたわ」

「女主人らしく? おまえが屋敷のことをまともに仕切れたことがあるのか? 帳簿は穴だらけ、宝石を買い漁って金を湯水のように使い、使用人たちの給金まで滞らせた。挙げ句の果てに、執事と侍女頭まで耐えかねて辞めただろう!」

「宝石を買って何が悪いんですの? 私はじき伯爵夫人になるんです。どうして働かなければなりませんの?」

ジョセフは頭痛をこらえるように額を押さえ、何度も深いため息をついた。

ジョセフはレシピどおりに作ったと言った。

けれど、伯爵家に残してきたレシピは基本の配合表にすぎない。

実際には、季節や天候に合わせて配合を微調整する必要があった。

自家の事業に興味もなかったジョセフや、宝石にしか興味がなさそうなリリアンが、それを知るはずもない。

ジョセフが険しい目で私を睨みつけた。

「すべて、レア、おまえのせいだ。この工房は我が伯爵家を食い物にして大きくなったんだろう」

彼はぎり、と奥歯を噛みしめ、吐き捨てた。

「そして、おまえ自慢のこの工房も、今日で終わりだ」

それは、どういう――

そのとき、ジョセフの口元に卑しい笑みが浮かんだ。

直後、いくつもの足音とともに、治安隊員たちが工房へ踏み込んできた。

治安隊長が前へ出る。

「この工房で製造された香水に毒物が含まれているとの通報を受けた。これより工房を封鎖し、通報のあった香水と関連する原液を調査する」

工房の中は、水を打ったように静まり返った。

私はしばし唇を引き結び、それから静かに答えた。

「……どうぞ」

治安隊員たちは香水と原液を次々に運び出し、同行していた薬剤官が毒物検査を始めた。

通報されたのは、私が今回発売した新商品だった。

貴婦人たちからもっとも評判のよい香水だ。

それどころか、王妃陛下や王女殿下にまで納品され、絶賛された品でもあった。

騒然とする中、私は表情を曇らせ、治安隊員たちが行き来する様子を見守っていた。

「どうだ、薬剤官。その香水を使って失神した者がいるそうだ。人の命を脅かす危険な香水だぞ」

ジョセフが得意げに、薬剤官を急かした。

薬剤官は何本もの試験管に香水を垂らしながら、しきりに首を傾げていた。

「おかしいですね。この香水と原液には……」

「毒が入っているんだろう?」

「危険な成分は一切検出されません」

「強力な猛毒が……え? 何だと?」

ジョセフの顔が、ゆっくりと強ばった。

私はひとつため息をつき、彼へ向かって言った。

「当然でしょう。レオナード伯爵様。あなたがうちの香水にこっそり混ぜようとしたトリカブトの粉末は、製品には入らなかったのですから」

「……何?」

ジョセフの顔が不自然に歪んだ。

「これまで私を妨害するために、あれこれ手を回しておいて、まさか私が何の備えもしていないと本気でお思いだったのですか?」

私は工房の職人のひとりに、軽くうなずいてみせた。

すると彼が、奥の部屋で拘束していたひとりの男を連れてきた。

私は治安隊長に告げた。

「この男は、当工房に杉の樹脂を納めていた者です。レオナード伯爵はこの男を買収し、原料の中に毒草であるトリカブトの粉末を混ぜるよう命じました」

そして、あいにく私たちは、外部から入る原料すべてについて独自に毒物検査を行っていた。

カールが王室へ納める品の検査という名目で、王室薬剤官を工房へ派遣してくれていたからだ。

そのおかげで、今回の原料に毒が混じっていることもすぐに見つけられた。

すっかりうなだれ、縛られて連れてこられた男は、膝をついたまますべてを白状した。

「伯爵様が、首尾よく片づければ金貨一万枚をくださるとおっしゃいました。ですから……」

「待て!」

ジョセフが取り乱した顔で割り込んだ。

彼の顔はすでに土気色になり、額には冷や汗が浮かんでいた。

「その女の言葉を信じるな。すべてでっち上げだ!」

「証人までいるというのに、まだ言い逃れるつもりか」

冷たい声が背後から響いた。

カールだった。

周囲の空気がすっと冷える中、カールはジョセフを威圧するように、前へ進み出た。

「……ロレンツ公爵閣下」

長身で鍛え上げられた体躯のカールを前に、ジョセフはまるで子どものように見えた。

カールは現国王の弟、つまり王弟であり、王国の公爵の中でも筆頭格の地位にある。

ジョセフが縮み上がるのも無理はなかった。

「この男を直接尋問したのは私だ」

カールが一歩前へ踏み出した。

反射的に、ジョセフは一歩後ずさる。

「レオナード伯爵。まさか、私を疑うのか?」

「それは……」

ジョセフは言葉に詰まり、口を閉ざした。

治安隊長が慌ててカールへ礼を取った。

「公爵閣下、失礼いたしました」

「ご苦労」

「恐れ入ります。閣下があの男を直接尋問なさったのでしたら、我々も信用し、証人として認められます」

「それは助かる。ところで、治安隊長」

カールの声は重く、眼差しは鋭かった。

「この件を、ただレアひとりに濡れ衣を着せようとしただけの事件として、軽く済ませてよいと思うか?」

「……では、どのように扱うべきでしょうか」

「この工房の香水は、貴族家だけでなく王室にも納められている。つまりジョセフ・レオナードは、王家に害をなしかねない毒物混入を企てたということだ」

厳かなカールの言葉に、治安隊長がうなずいた。

「おっしゃるとおりです。今回の件は、単に個人に濡れ衣を着せようとしただけでは済みません」

治安隊長は部下たちに命じた。

「捕らえろ」

ジョセフは信じられないといった顔で、治安隊員たちに両腕をつかまれるなり暴れ出した。

「離せ! 私を誰だと思っている!」

「レオナード伯爵様。王家に害をなそうとした疑いで、ご同行願います」

暴れるジョセフが治安隊員に引きずられていくと、ひとり残されたリリアンは顔を真っ青にし、ドレスの裾を踏んで大きくよろめいた。

「わ、私は何も知りませんわ!」

金切り声を上げるなり、彼女は脱兎のごとく工房を飛び出した。

よほど慌てていたのだろう。

彼女の靴が片方だけ、ぽつんとその場に残されていた。

あれほど必死に逃げた彼女が、ジョセフのもとへ戻るのか。あの赤ん坊はどうするつもりなのか。

私は少しだけ気になった。

ジョセフの処分は、おそらく軽くは済まないだろう。

遠からず彼は、王宮の地下にある冷たい尋問室の石壁と向き合うことになるはずだ。

無様に引きずられていくジョセフの姿を眺めていると、私のそばに大きな影が落ちた。

見上げると、カールが穏やかな眼差しで私を見つめていた。

「また、カール様に助けられてしまいましたね」

「工房に入ってくる原料の毒物検査をしたいと言ったのは、あなたです、レア」

カールが低い声で言った。

「あなたは、自分の力で自分を守ったのです。私はただ、その声を聞き流さなかっただけです」

「いつも、私の言葉に耳を傾けてくださってありがとうございます」

「望むなら、この先も……」

彼はふと顔をそらし、咳払いをした。

彼らしくもなく、その頬はほんのり赤らんでいた。

「これからもずっと、そばであなたの声を聞いていたい」

その言葉を聞いた途端、なぜだか胸の奥がふっとほどけた。

思わず、ふふっと笑みがこぼれた。

もしかしたら。

香水工房の主、レアとして生きるこれからの人生で。

私の隣に、誰かがいてもいいのかもしれない。