軽量なろうリーダー

BSS 俺を嵌めようとするいじめっ子にNTRされた幼馴染ごと断罪する

作者: 作者不明

本文

俺は、滝野川美月と結婚の約束をした日のことを覚えている。

もちろん、それが本気の約束だったのかと聞かれたら、当時の悠真にはわからない。小学一年生の春、北区の小さな公園で、桜の花びらが砂場に落ちて、滝野川美月が拾った白い石を指輪の代わりにして、悠真の手のひらに載せた。

「じゃあ、ずっと一緒ね」

美月はそう言った。

悠真は頷いた。

それだけだった。

それだけのことを、中学三年生になるまで二人とも覚えていた。覚えていたから、学校では誰にも言わなかった。誰にも言わない代わりに、二人だけの合図みたいにして、大事にしていた。

北区立王子北中学校の三年二組で、田端悠真は目立たない生徒だった。成績は中の上。運動は苦手。美術部に入っていたが、展覧会で賞を取るほどではない。休み時間は本を読むか、タブレットで動画編集の練習をしている。クラスの中心に立つことはなく、誰かに嫌われるほど強くもなかった。

滝野川美月は逆だった。

明るく、よく笑い、誰にでも声をかける。合唱コンクールでは毎年指揮者を任され、体育祭では応援団に入った。先生からの信頼も厚い。男子からも女子からも好かれている。けれど美月は、いつも悠真の隣に戻ってきた。

「悠真、帰ろ」

放課後になると、美月は当然のように悠真の机へ来る。

その声を聞くたび、クラスの何人かが冷やかした。

「また夫婦で帰るの?」

「田端、滝野川に守られすぎ」

「幼馴染ってずるいよな」

美月はそういう声を気にしなかった。

「夫婦じゃないし。まだ予約」

そんなふうに返して、悠真を真っ赤にさせる。

悠真はいつも「やめろよ」と言う。けれど本気で嫌だったわけではない。むしろ、その一言で一日を許されたような気がしていた。自分がどれだけ目立たなくても、滝野川美月だけは自分を見つけてくれる。そう信じていた。

その信じていたものが、三年の五月に転校してきた一人の男子によって、少しずつ腐っていった。

西ヶ原レオン。

最初に見た時、悠真は映画の中から出てきたみたいなやつだと思った。背が高い。顔が整っている。制服の着方が妙にこなれている。挨拶の時に軽く笑っただけで、教室の空気が変わった。

「西ヶ原レオンです。前の学校ではちょっと目立ちすぎたので、ここでは静かにやります」

冗談めかした自己紹介に、女子たちが笑った。男子もつられて笑った。担任の赤羽大吾まで、まんざらでもない顔をしていた。

レオンはすぐにクラスの中心になった。

休み時間には彼の机の周りに人が集まり、昼休みには女子が購買で買ったパンを分け、放課後には部活に行く前の生徒たちが彼の話を聞く。レオンは誰にでも優しかった。少なくとも、最初はそう見えた。

美月にも、レオンは近づいた。

「滝野川って、いつも田端と帰ってるよな」

ある日の放課後、レオンがそう言った。

美月は鞄を肩にかけながら笑った。

「幼馴染だからね」

「へえ。幼馴染って、そんなに強いの?」

「強いよ。十年以上一緒だもん」

「じゃあ田端は安心だな。何もしなくても、滝野川が隣にいてくれる」

その言い方に、悠真は少し引っかかった。

美月も一瞬だけ目を細めた。

「何それ」

「いや、羨ましいなって」

レオンは笑った。

「俺なら、そんな子が隣にいたらもっと大事にするけど」

その時は、それだけだった。

けれど翌日から、悠真の周りで小さな嫌がらせが始まった。

机の中の教科書が別の棚に移動している。体育の後、靴紐が固く結ばれている。美術部の作品に薄く水がかけられている。給食当番の時、なぜか悠真だけ余った牛乳を押しつけられる。

ひとつひとつは、先生に言うほどのことではない。

けれど毎日続くと、人は削れる。

「田端ってさ、何か暗いよな」

「滝野川がいないと何もできなさそう」

「保護者同伴じゃないと帰れないんじゃね?」

笑い声の中心に、いつもレオンがいた。

レオン自身は直接何もしない。ただ、誰かが悠真をからかうと、少しだけ笑う。その笑いが合図みたいに広がる。志茂亜子、浮間雫、堀船莉子、王子小春。レオンの周りにいた女子たちは、彼が面白がることを探すようになった。

悠真は美月に言わなかった。

言えば美月は怒る。美月が怒れば、レオンとぶつかる。そうなれば、美月の立場まで悪くなる。悠真はそう考えた。

でも美月は気づいた。

「悠真、上履きの踵、踏まれた跡ある」

帰り道、美月が言った。

「別に」

「別にじゃない。誰?」

「転んだだけ」

「嘘」

美月は悠真の前に立った。

「また私に隠すの?」

また、という言葉が痛かった。

悠真は昔からそうだった。嫌なことがあっても黙る。美月に助けられるたび、情けなさと嬉しさが混ざって、うまく言葉にできなくなる。

「大丈夫だから」

「大丈夫じゃない時に、大丈夫って言うのやめて」

美月は怒っていた。

その翌日、美月はレオンに言った。

「悠真に変なことするの、やめて」

教室の後ろ。人が少ない時間だった。悠真は廊下からその声を聞いてしまった。

レオンは笑っていた。

「俺が何かした?」

「してるでしょ。周りにやらせてる」

「証拠ある?」

美月は黙った。

「滝野川って正義感強いんだな。そういうところ、可愛い」

「ふざけないで」

「じゃあ、やめてほしい?」

「当たり前でしょ」

「いいよ」

あまりに簡単な返事だった。

悠真は廊下で息を止めた。

レオンは続けた。

「その代わり、今日から放課後、俺と帰ってよ」

「は?」

「昼休みも、俺のところ来て。別に変な意味じゃない。田端の保護者を卒業して、ちょっと俺に時間をくれってだけ」

「何それ」

「取引」

レオンの声は軽かった。

「滝野川が俺のそばにいるなら、田端には何もしない。どうせ幼馴染なんだろ? 一緒に帰る相手が少し変わるくらいで、壊れたりしないよな」

美月はすぐには答えなかった。

悠真は廊下で拳を握っていた。

やめろ。

そう言いたかった。

俺のためにそんなことするな。

けれど足が動かなかった。

美月はしばらく黙って、それから言った。

「本当に、悠真に何もしないんだね」

「約束する」

「……わかった」

その瞬間、悠真は自分の弱さが音を立てて崩れるのを聞いた。

美月が悪いわけじゃない。

自分が言えなかったからだ。

自分が守られる側でいることに慣れすぎたからだ。

そう思おうとした。

最初の一週間、美月は今までと同じだった。

朝は悠真と登校し、昼休みだけレオンたちの輪に入る。放課後は「ごめん、今日は用事ある」と言って、レオンと帰る。翌朝になると「昨日ごめんね」と笑う。

悠真は何も知らないふりをした。

「別にいいよ」

そう言うたび、美月は少し傷ついた顔をした。

本当は、言ってほしかったのだと思う。

行くな。

俺のためにレオンのところへ行くな。

そう言ってほしかったのだと思う。

けれど悠真は言えなかった。

自分が言えば、美月の選択を無駄にする気がした。美月が犠牲にしたものを、全部否定する気がした。

だから黙った。

その沈黙が、美月を少しずつ遠くへ押し出した。

レオンは美月を急に変えようとはしなかった。

「滝野川ってさ、いつも田端のこと先に考えるよな」

昼休み、レオンは穏やかに言った。

美月は弁当箱を開けながら答えた。

「幼馴染だから」

「それ、便利な言葉だよな」

「何が」

「幼馴染だから助ける。幼馴染だから一緒に帰る。幼馴染だから心配する。でも滝野川自身は?」

美月は箸を止めた。

「私?」

「田端の隣にいない滝野川って、何が好きなの?」

そんなことを、美月はあまり考えたことがなかった。

好きなものはあった。歌うこと。甘い卵焼き。荒川線の窓から見える夕方の景色。悠真の描く絵。悠真が笑った時の少し困った顔。

けれどそれを言葉にすると、全部どこかで悠真に繋がってしまう気がした。

レオンはそこを見逃さなかった。

「ほら、すぐ田端になる」

「違うよ」

「違わない。滝野川は優しいから、田端に自分を預けてるんだよ。あいつの隣にいれば、自分で選ばなくていい」

「悠真を悪く言わないで」

「悪く言ってない。滝野川がもったいないって言ってる」

その言葉は、美月の胸に小さな棘を残した。

もったいない。

自分は誰かにそう言われるほどのものなのか。

悠真の隣にいる自分は、何かを失っているのか。

レオンは毎日、少しずつ違う言葉で同じ場所を刺した。

「田端って、お前がいないと本当に何も言わないんだな」

「お前の優しさに甘えてるんじゃない?」

「幼馴染って、過去に縛られてるだけの関係にも見えるよな」

「俺は今の滝野川が好きだけど、田端は昔の滝野川しか見てないんじゃない?」

美月は反論した。

何度もした。

けれど反論するたび、レオンは笑った。

「じゃあ今日、田端に聞いてみなよ。お前は今の私を見てる?って」

聞けなかった。

悠真は優しい。聞けばきっと「見てる」と言う。けれどそれが本当なのか、優しさなのか、美月にはわからなくなっていた。

その頃、悠真への嫌がらせは少しずつ減っていた。

机を荒らされることもなくなった。靴を隠されることもなくなった。悪口も露骨なものではなくなった。

その代わり、別の種類の視線が増えた。

「あれ、田端くん、今日も一人?」

志茂亜子が笑う。

「滝野川さん、最近レオンくんといる方が楽しそうだよね」

浮間雫が続ける。

「幼馴染って、卒業したらただの近所の人だもんね」

堀船莉子がわざと聞こえる声で言う。

悠真は黙っていた。

黙っていると、王子小春がスマホを向けるふりをした。

「何か言えば? 捨てられた感想」

その瞬間、悠真の胸の奥に、怒りではなく冷たいものが落ちた。

ああ、そうか。

これはレオンが直接殴らないだけで、まだ続いている。

悠真はその日から、記録を始めた。

最初は自分を守るためだった。スマホの録音機能を入れたまま、教室へ行く。ロッカーに貼られたメモは剥がす前に写真を撮る。美術部の作品に傷がついたら、日付を入れて撮影する。誰が何を言ったか、ノートに書く。

そのノートの表紙には、何も書かなかった。

黒い表紙の、何の変哲もないノート。

けれどそこには、王子北中学校三年二組で起きた腐敗が、一つずつ積もっていった。

十条凪が悠真に話しかけてきたのは、六月の終わりだった。

凪は以前、レオンの周りにいた女子の一人だった。けれど最近は輪から外れている。髪を短く切り、休み時間も一人でいることが増えた。

「田端くん、ちょっといい?」

放課後の廊下で呼ばれ、悠真は警戒した。

「何」

「これ、渡したい」

凪は小さなメモリカードを差し出した。

「西ヶ原くんたちのグループチャット。スクショも入ってる。私、抜ける時に保存した」

悠真は受け取らなかった。

「何で俺に」

凪は笑わなかった。

「私も、使われたから」

その声に、悠真は何も言えなかった。

「西ヶ原くんはね、人の欲しい言葉を言うのが上手い。私も最初は、自分だけ特別なんだと思った。でも違った。飽きたら次に行く。その時、こっちが傷つくように置いていく」

「美月も?」

凪は少し迷ってから頷いた。

「滝野川さんは、まだ自分が助けてる側だと思ってる。でも、たぶんもう違う」

その言葉は、悠真が一番聞きたくない答えだった。

凪はメモリカードを机に置いた。

「ごめん。私も見て見ぬふりしてた。謝って済むとは思ってない。でも、西ヶ原くんの言葉が残ってる。使うなら使って」

悠真はメモリカードを握った。

その夜、家のパソコンで中身を開いた。

そこには、悠真の想像よりもずっと汚い言葉が並んでいた。

田端を直接やると面倒だから、空気で潰す。

滝野川は田端を守ってるつもりだから、そこを使えば勝手に来る。

幼馴染とかいう古い鎖を切ってやってるだけ。

田端が何か言ったら、重いって流せ。

女子が泣けば先生はそっち見るから。

さらに音声ファイルがあった。

再生すると、レオンの声がした。

「滝野川って、いい子だよな。田端を守るためなら俺のところ来るんだぜ。そういう子ほど、自分が選んだって思わせれば簡単にこっち側になる」

周りの女子が笑っていた。

「でも滝野川さん、本気で田端くんのこと好きなんじゃないの?」

「だから面白いんだろ」

レオンは笑った。

「好きだったものを自分で否定させるのが、一番効くんだよ」

悠真はそこで再生を止めた。

吐き気がした。

でも消さなかった。

消せなかった。

それは、自分が傷ついた証拠であると同時に、美月が壊されていく記録でもあった。

七月になる頃、美月は変わり始めた。

髪型が少し変わった。レオンが褒めたからだと、女子たちが噂していた。休み時間に悠真の席へ来なくなった。朝の登校も「今日は早く行くね」と言って先に家を出る。放課後には、当然のようにレオンの鞄を持っていた。

ある日、悠真は美月を呼び止めた。

「美月」

廊下の端だった。

美月は振り返ったが、すぐに視線を逸らした。

「何?」

その声が少し硬かった。

「最近、話せてないから」

「うん。忙しくて」

「レオンと?」

美月の眉が動いた。

「そういう言い方やめて」

「どういう言い方だよ」

「責めてるみたいな言い方」

悠真は息を呑んだ。

責めているつもりはなかった。

でも、そう聞こえたのなら、そうなのかもしれない。

「俺、何かした?」

美月は黙った。

その沈黙だけで十分だった。

美月は何かを決めたように顔を上げた。

「悠真って、いつもそうだよね」

「え?」

「何もしてない顔する。黙って、私が気づくの待って、私が助けるの待ってる」

「そんなつもりは」

「ないんだよね。わかってる。悠真は優しいから、悪気なんてない。でも、私、ずっと悠真の隣で、悠真のことを先に考えてた」

悠真は言葉を失った。

「それが嫌だったのか」

「嫌じゃなかった」

美月の声が震えた。

「嫌じゃなかったから、わからなくなったの」

そこへレオンが来た。

まるで最初から近くにいたみたいな自然さだった。

「美月、行こう」

美月は一瞬だけ悠真を見た。

昔の美月なら、そこで迷わず悠真の隣に残った。

今の美月は、レオンの方へ歩いた。

レオンは悠真を見て微笑んだ。

「田端、幼馴染ってだけで人を縛るの、やめた方がいいよ」

悠真は何も言わなかった。

言えば、レオンが喜ぶとわかっていた。

夏休み前の最後の週、事件は起きた。

放課後の教室。クラスの半分ほどが残っていた。合唱コンクールのパート決めで、美月は黒板の前に立っていた。レオンは窓際の机に座り、足を組んでいる。

悠真は美術部へ行く準備をしていた。

その時、王子小春がわざとらしく言った。

「ねえ滝野川さん、田端くんと付き合ってるって本当?」

教室がざわついた。

美月は固まった。

レオンは何も言わない。

けれど悠真にはわかった。

これはレオンが作った場だ。

志茂亜子が続けた。

「幼馴染の約束とかあるんでしょ?」

浮間雫が笑う。

「結婚の約束だっけ? 小学生みたい」

悠真は立ち上がろうとした。

その前に、美月が口を開いた。

「違うよ」

教室が静かになった。

美月は黒板の前で、手を握りしめていた。

「悠真とは、そういう関係じゃない。幼馴染ってだけ」

それだけなら、まだよかった。

けれど美月は止まらなかった。

止まれなかったのだと思う。

「昔の約束を、今も本気みたいにされるのは、正直困る」

悠真の息が止まった。

レオンの口元がわずかに上がった。

美月は続けた。

「私は、レオンくんが好き」

誰かが小さく歓声を上げた。

女子たちが笑った。男子も気まずそうに笑った。教室の空気が、一斉に悠真を押し潰す方へ傾いた。

悠真は美月を見ていた。

美月は泣きそうな顔をしていた。

それなら言うなよ。

泣きそうになるくらいなら、言うなよ。

そう思った。

でも言葉は出なかった。

レオンが立ち上がり、美月の隣へ行った。

「よく言えたな」

その声は優しかった。

美月はその優しさに縋るように、レオンを見た。

その瞬間、悠真の中で何かが完全に死んだ。

放課後、レオンは廊下で悠真に言った。

「残念だったな」

悠真は黙っていた。

「美月はもう、お前の保護者じゃないってさ」

悠真はスマホをポケットの中で握った。

録音は続いている。

レオンは気づいていない。

「お前さ、ずっと勘違いしてたんだよ。幼馴染だから特別? 昔の約束があるから大丈夫? そういうの、何もしないやつの言い訳だろ」

レオンは近づき、悠真の耳元で囁いた。

「好きだったものを自分で否定する顔、最高だったよ」

悠真はその場で殴らなかった。

殴れば負ける。

この男は殴られることすら、自分を被害者にする材料にする。

だから悠真は、ただ一言だけ言った。

「ありがとう」

レオンは眉をひそめた。

「何が?」

「録れた」

その時初めて、レオンの顔から笑みが消えた。

けれど、遅かった。

夏休み、悠真はほとんど外に出なかった。

美月からは何度かメッセージが来た。

ごめん。

あの時は、言わなきゃいけないと思って。

悠真、怒ってる?

話したい。

悠真は読まなかった。

既読をつけることすら、彼女に与える反応だと思った。

代わりに、悠真は証拠を整理した。

黒いノートの内容を時系列に打ち込む。録音を日付ごとに分ける。スクリーンショットと照合する。美術部の作品被害、ロッカーのメモ、教室での発言、グループチャット、レオンの音声。十条凪から受け取ったデータは、凪本人の証言メモと一緒に保存した。

途中で何度も手が止まった。

美月の声を聞くたび、胸の奥が潰れた。

昔の約束を、今も本気みたいにされるのは、正直困る。

私は、レオンくんが好き。

何度聞いても慣れなかった。

慣れたくもなかった。

けれど悠真は、その声を消さなかった。

二学期が始まる前日、悠真は母親に全部話した。

母は最初、信じられないという顔をした。けれど証拠を見せると、途中で手で口を覆った。

「悠真、どうしてもっと早く」

「早く言ったら、たぶん止められて終わりだった」

「終わりって」

「俺が悪くないって言われて、先生に注意してもらって、それで終わり。レオンは残る。美月も戻らない。クラスは何も変わらない」

悠真は静かに言った。

「だから、全部残した」

母は泣いた。

悠真は泣かなかった。

翌日、悠真と母は学校へ行った。担任の赤羽大吾、学年主任の神谷正臣、校長の岩淵孝が会議室にいた。

最初、赤羽は困ったように笑った。

「田端くん、クラスの人間関係で少し行き違いがあったのかな」

悠真は黙って録音を再生した。

田端を直接やると面倒だから、空気で潰す。

女子が泣けば先生はそっち見るから。

滝野川は田端を守ってるつもりだから、そこを使えば勝手に来る。

赤羽の顔色が変わった。

神谷が資料をめくる手を止めた。

岩淵校長は何度も咳払いをした。

「これは、どこまで」

「教育委員会にも送ります」

悠真の母が言った。

「警察相談も考えています。すでに相談窓口には連絡しました。学校内だけで終わらせるつもりはありません」

赤羽は黙った。

悠真は赤羽を見た。

「先生、俺が相談した時、言いましたよね。仲良くしろって」

赤羽は視線を逸らした。

「いや、それは」

「仲良くするために、俺は録音される側になりました」

その言葉で、会議室は静まり返った。

調査は始まった。

最初は、クラスの誰も本気にしていなかった。

「田端がチクったらしいよ」

「被害者ぶるの上手すぎ」

「どうせ証拠なんてないでしょ」

志茂亜子たちはそう笑っていた。

けれど一人ずつ呼び出され、グループチャットのスクリーンショットを見せられた時、笑いは消えた。

志茂亜子は泣いた。

「私は西ヶ原くんに言われただけです」

浮間雫は震えた。

「みんなやってました」

堀船莉子は怒った。

「田端くんだって暗いから悪いんじゃないですか」

王子小春は黙り込んだ。

十条凪は、自分のしたことも含めて証言した。

「私も加害者側にいました。だから処分されてもいいです。でも、西ヶ原くんが指示していたのは本当です」

レオンは最後まで認めなかった。

「冗談だった」

「そんなつもりじゃない」

「田端が勝手に傷ついただけ」

「美月は自分で俺のところに来た」

その最後の言葉が、美月を壊した。

美月は調査室で、レオンの発言を聞かされたらしい。

滝野川は田端を守ってるつもりだから、そこを使えば勝手に来る。

好きだったものを自分で否定させるのが、一番効くんだよ。

美月はその場で吐きそうになったと、後で十条凪から聞いた。

美月は、自分が選ばれたのだと思いたかった。

レオンは自分を見てくれたのだと思いたかった。

悠真の隣ではない自分を、初めて認めてくれたのだと思いたかった。

けれど録音の中のレオンは、美月を人間として見ていなかった。

田端を傷つけるための道具。

幼馴染を壊すための鍵。

それだけだった。

秋の合唱コンクールは中止になった。

表向きは感染症対策と校内事情による延期だった。けれど誰も本当の理由を知らないわけではなかった。三年二組は崩壊していた。レオン派だった女子たちは互いに責任を押しつけ合い、男子たちは急に黙り始めた。担任の赤羽は学級運営から外され、神谷学年主任が臨時で教室に立つようになった。

そして十月、臨時保護者説明会が開かれた。

体育館に三年生と保護者が集められた。壇上には岩淵校長と教育委員会の担当者が並んだ。生徒たちには詳細な個人名は伏せられると言われていたが、三年二組の誰もが自分たちのことだとわかっていた。

悠真は一番後ろの席に座っていた。

美月は前の方にいた。背中が小さく見えた。

レオンは来ていなかった。すでに別室指導になっていたからだ。

説明会の途中で、音声が流された。

名前は伏せられていた。

けれど声は隠せなかった。

「田端を直接やると面倒だから、空気で潰す」

体育館がざわついた。

「女子が泣けば先生はそっち見るから」

保護者席から怒号に近い声が上がった。

「滝野川は田端を守ってるつもりだから、そこを使えば勝手に来る」

美月の肩が震えた。

「好きだったものを自分で否定させるのが、一番効くんだよ」

その瞬間、体育館の空気が凍った。

レオンの王子様の仮面が、全員の前で剥がれ落ちた音がした。

西ヶ原レオンは、かっこいい転校生ではなくなった。

誰かの弱さを探し、優しさを利用し、笑いながら人間関係を壊す中学生。

ただそれだけになった。

説明会の後、志茂亜子の母親が娘を平手打ちしそうになり、先生に止められていた。浮間雫は泣きながら「レオンくんが」と繰り返したが、父親に「お前の口で言ったんだろ」と言われ、何も返せなくなった。堀船莉子は推薦予定だった私立高校の面談で今回の件を問われることになり、廊下で崩れるように座り込んだ。王子小春は裏アカウントでの中傷が見つかり、部活の副部長を外された。

誰も、悠真に謝りに来なかった。

謝るには、証拠が多すぎた。

謝れば許される段階を、もう過ぎていた。

レオンへの処分は重かった。

表向きには長期の別室指導と転校手続き。内申への影響。進学先の再検討。保護者同伴での継続面談。父親がPTAで持っていた影響力も、今回の件で一気に崩れた。学校への寄付で物事を曖昧にできると考えていたらしいが、保護者説明会で音声が流れた後では、誰も西ヶ原家を庇えなかった。

レオンは一度だけ、悠真を呼び出した。

場所は校舎裏だった。

悠真は一人で行かなかった。スマホの録音を入れ、少し離れた場所に十条凪と神谷学年主任がいることを確認してから行った。

レオンは痩せていた。

以前のような余裕はない。目だけがぎらぎらしている。

「満足かよ」

レオンは言った。

悠真は答えなかった。

「お前のせいで全部終わった。学校にもいられない。親にも殴られた。推薦も消えた」

「俺のせい?」

「お前が騒いだからだろ」

悠真は少し笑った。

その笑いは、自分でも驚くほど冷たかった。

「俺は記録しただけだ」

「ふざけんな」

「お前の声だよ。お前の言葉だよ。お前が美月を道具にして、俺を壊そうとした記録だ」

レオンの顔が歪んだ。

「滝野川だって自分で来た。俺だけ悪いみたいに言うな」

「そうだな」

悠真は頷いた。

「美月も自分で選んだ。だから俺は、美月も許さない」

レオンは一瞬だけ黙った。

悠真は続けた。

「でも、お前は勘違いしてる。俺が美月を取り返したくてやったと思ってるんだろ」

「違うのかよ」

「違う」

悠真はレオンをまっすぐ見た。

「もう取り返すものなんてない。お前が壊したんじゃない。最後に美月が自分で壊した。だから俺がやったのは、お前が王子様の顔で逃げる道を塞いだだけだ」

レオンは何かを言おうとした。

言えなかった。

「これからお前が誰かに優しくしても、相手は考える。録音されてないか。利用されてないか。裏で笑われてないか。お前の言葉は、もう武器じゃない。全部証拠品だ」

レオンの拳が震えた。

「黙れ」

「黙らせたいなら、また誰かにやらせるのか?」

レオンは殴れなかった。

近くに先生がいることに気づいたのだろう。

悠真は背を向けた。

「王子様ごっこ、終わってよかったな」

レオンが背後で叫んだ。

悠真は振り返らなかった。

美月が悠真の家の前に来たのは、十一月の冷たい雨の日だった。

傘を差していなかった。

髪が濡れ、制服の肩が重そうに落ちている。悠真が玄関を開けると、美月は顔を上げた。

「悠真」

その呼び方を聞いて、胸の奥が痛んだ。

痛むことが、腹立たしかった。

「何」

「話したい」

「学校で話せばいい」

「学校じゃ、言えない」

「俺は言われたけどな」

美月の顔が歪んだ。

教室で言ったあの言葉を、彼女も忘れていない。

昔の約束を、今も本気みたいにされるのは、正直困る。

私は、レオンくんが好き。

美月は両手を握りしめた。

「あれは、違うの」

「何が」

「あの時は、レオンくんに言われて、みんなも見てて、私、戻れなくなって」

「言ったのは美月だ」

美月は泣いた。

「うん」

「俺が聞いたのは、レオンの声じゃない。美月の声だった」

「うん」

「俺を一番知ってる美月が、一番痛い言葉を選んだ」

美月はその場で膝をつきそうになった。

「ごめんなさい」

雨の音が強くなった。

悠真は玄関の内側に立ったまま、美月を見下ろしていた。

昔なら、傘を差し出していた。

家に入れて、タオルを渡して、温かい飲み物を作っていた。

今はできなかった。

「最初は、悠真を守りたかったの」

「知ってる」

「本当だよ。レオンくんに言われて、私がそばにいれば悠真に何もしないって」

「知ってる」

「でも、途中から、レオンくんに必要とされてる気がして。悠真の隣にいる私じゃなくて、私だけを見てくれてる気がして」

「知ってる」

「違った」

美月は泣きながら笑った。

「全部、違った。私、道具だった。悠真を傷つけるための道具だった」

「そうだな」

その言葉で、美月は完全に崩れた。

「お願い、もう一回だけ、幼馴染に戻りたい」

悠真は黙った。

美月は鞄から小さな袋を取り出した。中には、白い石が入っていた。小学一年生の時、指輪の代わりにした石だった。美月は本当に、ずっと持っていたのだ。

「私、捨てられなかった」

悠真はその石を見た。

あまりに小さかった。

こんな小さなものを、二人は十年も宝物みたいに抱えていたのかと思った。

悠真は受け取らなかった。

「持ってれば」

美月の目が揺れた。

「いいの?」

「俺はいらない」

美月の顔から血の気が引いた。

「捨てるなら、美月が捨てろ。持って苦しむなら、美月が持ってろ。俺に返して楽になろうとするな」

「楽になんて」

「なりたいから来たんだろ」

美月は何も言えなかった。

悠真は静かに言った。

「俺に謝って、俺に少し怒られて、俺に少し許されて、そうしたら自分を許せると思ったんだろ」

「違う」

「違わない」

悠真は初めて声を強くした。

「俺を守るためって言ってレオンのところへ行って、私だけを見てくれるって言って俺を捨てて、今度は後悔してるって言って俺に許されようとしてる。美月はずっと、俺を理由にしてる」

美月は雷に打たれたような顔をした。

その顔を見て、悠真は少しだけ後悔した。

言い過ぎたかもしれない。

でも、言わなければ美月はまた縋る。

縋られたら、悠真はまだ揺れてしまう。

揺れる自分が嫌だった。

「もう、俺を理由にしないでくれ」

美月は白い石を胸に抱いた。

「悠真は、私のこと嫌い?」

悠真は答えるのに時間がかかった。

嫌いなら楽だった。

嫌いになれたなら、こんなに苦しくなかった。

「好きだった」

過去形にした。

わざと。

美月の顔が壊れた。

「だった、なんだ」

「うん」

「そっか」

美月は雨の中で笑った。

泣きながら、笑った。

「私が殺したんだね」

悠真は何も言わなかった。

美月は深く頭を下げた。

「ごめんなさい」

それだけ言って、背を向けた。

悠真は扉を閉めた。

閉めたあと、しばらく動けなかった。

廊下の向こうで母が泣いている気配がした。きっと全部聞こえていたのだろう。悠真は壁にもたれ、ゆっくり息を吐いた。

勝ったはずだった。

レオンは終わった。クラスも崩れた。美月は自分のしたことを理解した。

なのに、胸の中には何も残っていなかった。

冬になると、三年二組は静かになった。

誰も悠真に悪口を言わなくなった。

それどころか、道を開けるようになった。机に近づかない。視線を合わせない。まるで悠真が爆弾を抱えているみたいに。

志茂亜子は別室登校になった。浮間雫は第一志望の推薦を諦めた。堀船莉子は部活の後輩から距離を置かれるようになり、王子小春はSNSを消した。十条凪だけが、時々悠真に挨拶した。

「田端くん」

「何」

「私も、謝らない方がいい?」

悠真は少し考えた。

「謝りたいなら、謝ればいい。でも許すかは別」

凪は頷いた。

「ごめんなさい」

「うん」

それで終わった。

許したわけではない。

でも、凪は自分のしたことを言い訳しなかった。それだけで、他の連中よりはましだった。

レオンは一月に転校した。

最後の日、誰も見送りに行かなかった。かつて彼の机の周りにいた女子たちでさえ、廊下から覗くだけだった。レオンは誰とも目を合わせず、担任でもなくなった赤羽に付き添われて職員室へ向かった。

去り際、レオンは一度だけ悠真を見た。

憎しみの目だった。

悠真は見返した。

勝者の目ではなかったと思う。

ただ、もう怯えていない目だった。

それがレオンには一番耐えられないのだろうと、悠真は思った。

美月は学校へ来たり来なかったりするようになった。

来ても一人だった。

以前のようにクラスの中心に立つことはない。誰かに話しかけられても、短く答えるだけ。合唱のない教室で、声を失った指揮者みたいに座っていた。

女子たちは美月を責めなかった。

責める資格がないからだ。

けれど誰も近づかなかった。

美月は被害者でもあり、加害者でもあった。レオンに利用されたかわいそうな子であり、悠真を教室で刺した子でもあった。その両方を抱えた人間の隣に座るには、三年二組はもう弱すぎた。

卒業式の日、空はよく晴れていた。

体育館には整列した椅子、白い花、少し古い紅白幕。誰もが泣く準備をしていたが、三年二組だけは妙に乾いていた。

レオンの席はなかった。

志茂亜子は来ていなかった。

浮間雫は母親の隣で顔を伏せていた。

堀船莉子は誰とも写真を撮らなかった。

王子小春は卒業証書を受け取る時、足元だけを見ていた。

美月は泣かなかった。

卒業式が終わり、校庭で写真を撮る時間になった。悠真は母と二人で写真を撮った。美術部の後輩が来て、色紙を渡してくれた。十条凪が少し離れたところから頭を下げた。

美月は校門の近くで待っていた。

悠真は逃げることもできた。

けれど最後くらい、終わらせようと思った。

「悠真」

美月はそう呼んだ。

悠真は立ち止まった。

「卒業、おめでとう」

「おめでとう」

「同じ高校、行けなくなっちゃったね」

「最初から、もう行くつもりなかった」

美月の唇が震えた。

「そっか」

二人は昔、同じ高校へ行こうと話していた。荒川線に乗って、少し遠くの学校へ行く。帰りに商店街でたい焼きを買う。テスト前には図書館で勉強する。そんな未来を、何の根拠もなく信じていた。

その未来は、もうどこにもない。

美月は鞄から白い石を取り出した。

「まだ、持ってる」

「そう」

「捨てられない」

「そう」

「悠真は、もう何も持ってないの?」

悠真は少しだけ考えた。

昔の写真。交換したメモ。美月がくれたキーホルダー。全部、箱に入れて押し入れの奥にある。

「持ってるよ」

美月の目に光が戻りかけた。

悠真はそれを見て、言った。

「捨てるために」

光は消えた。

美月は声を出さずに泣いた。

「私、どうしたらいい?」

「知らない」

「私、ずっと後悔してる。あの時、レオンくんのところへ行かなければよかった。悠真に言えばよかった。教室であんなこと言わなければよかった。全部、全部、戻したい」

「戻らない」

「わかってる」

「なら、聞くな」

美月は白い石を握りしめた。

「私、悠真のこと、まだ好き」

悠真は目を閉じた。

胸が痛んだ。

最後まで痛むのかと思った。

それが腹立たしかった。

「俺は、滝野川さんのことを、もう幼馴染だと思ってない」

美月は息を止めた。

「滝野川さん」

その呼び方で、美月の十年が終わった。

彼女はその場にしゃがみ込み、白い石を握ったまま泣いた。周りの生徒がちらちら見る。誰も近づかない。誰も助けない。かつて誰からも好かれていた滝野川美月は、卒業式の日に、校門の前で一人で泣いていた。

悠真は歩き出した。

母が何も言わずに隣を歩いた。

校門を出る時、悠真は一度だけ振り返った。美月はまだ泣いていた。三年二組の誰かが遠巻きに見ている。先生も気づいている。けれど誰も動かない。

レオンの作った地獄は、レオンが消えた後も残っていた。

悠真は勝った。

レオンは王子様ではなくなった。クラスの連中は自分の言葉に潰された。美月は自分が何を失ったのか理解した。

ざまあみろ。

確かにそう思った。

その瞬間だけは、胸の奥が少し晴れた。

けれど次の瞬間には、空っぽになった。

復讐は、失ったものを返してくれない。

白い石も、夕方の帰り道も、「悠真、帰ろ」と笑う声も、もう戻らない。

田端駅へ向かう道で、母が小さく言った。

「悠真、これからは」

悠真は首を横に振った。

「大丈夫」

その言葉を聞いて、母は泣きそうな顔をした。

悠真は自分でもわかっていた。

また大丈夫と言っている。

大丈夫ではない時に、大丈夫と言っている。

でも、もう美月はそれを怒ってくれない。

怒る資格を、彼女は自分で捨てた。

春の風が吹いた。

王子北中学校の校舎が、少しずつ遠ざかっていく。

悠真はポケットの中のスマホを握った。そこにはまだ、全部の録音が残っている。レオンの声。美月の声。クラスの笑い声。自分が壊れていく音。

消す日は来るのだろうか。

たぶん、しばらく来ない。

悠真は歩きながら、小さく呟いた。

「裏切らなければ、誰もここまで不幸にならなかったのにな」

その声は、誰にも届かなかった。