軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第12話 パンの匂いが戻る日

予算案が完成した翌日。

俺は南区のパン屋を訪ねた。

「マリアさん」

「ああ、ナカムラさん。今日はパンのご注文ですか」

「いえ。お金を届けに来ました」

マリアの手が止まった。

「返還金です。ゲルハルトに不正徴収された『復興対策税』——銅貨二百枚。本来あなたが払うべきでなかったお金です」

マリアは銅貨の入った革袋を見つめた。長い沈黙のあと、手が震え始めた。

「……返ってくるなんて、思ってなかった」

「台帳があったから、正確な金額がわかりました」

「ナカムラさん。あたしね——あの二百枚、窯の修理に使うはずだったんだよ。窯の目地が崩れてきてたんだ。でもゲルハルトに取られて、修理もできなくて、そのまま店を閉めるしかなかった」

マリアの手が革袋を握りしめた。

「このお金で——小麦粉を買っていいですか」

「もちろん。あなたのお金です」

「窯の修理と、小麦粉と……。——ナカムラさん、一枚ずつ数えてもいい?」

「好きなだけ数えてください」

マリアは銅貨を一枚ずつテーブルに並べた。数える手が震えている。フィーネがその隣で、一緒に数えていた。

「……百九十八、百九十九、二百。——全部ある」

マリアの目から涙がこぼれた。エプロンで顔を拭いて、すぐに窯の前に立った。

その後、一軒ずつ、他の住民にも返還金を届けた。フィーネが同行した。

三軒目で、年配の女性が銅貨を受け取った。銅貨を見つめて、しばらく動かなかった。

「……あの子の薬、買える」

「あの子?」

「孫が、熱を出してるんです。薬草が買えなくて——」

フィーネがメモ帳に書いた。「へんかんきん→くすりがかえる」。

(返還金が、薬に変わる瞬間を見た。これが行政の実感だ。数字が、人の命に繋がる)

全世帯への返還が終わるまで、三日かかった。

最後の一軒を訪問した帰り道、フィーネが言った。

「ナカムラさん。返還金を届けた時の、みんなの顔——忘れません」

「そうですか」

「台帳に名前が載ってて、記録が残っていたから、正確な金額が返せたんですよね。——記録って、人を守るんですね」

(——記録が人を守る。その通りだ。そして、それを十三歳で実感として理解したこの子は、行政官としての素質がある)

鍛冶屋のハンスは、革袋を受け取って中身を確認した。

「全部あるのか。——全部返ってきたのか」

「台帳で銅貨の一枚まで合わせています。不足があれば、お申し付けください」

ハンスは革袋を握りしめたまま、フィーネを見た。

「フィーネ様。——あんた、ちゃんとした領主になれそうだな」

フィーネの目が潤んだ。「あ、ありがとうございます」と言おうとして、声が詰まった。代わりに、深くお辞儀をした。そのお辞儀の仕方は誰にも教わっていないが、丁寧だった。

帰り道、フィーネが言った。

「ナカムラさん。『ちゃんとした領主』って、どういう意味でしょう」

「向き合ってくれる人、という意味でしょう」

「……私、向き合えてますか」

「今日、全軒回りましたよね」

「はい」

「向き合えてます」

フィーネが小さく笑った。その次の瞬間、石畳につまずいた。帳簿が小雨のように散らばった。

「あわわわ!」

(いい場面だったのに)

帳簿を拾うフィーネの背中に、夕日が当たっていた。赤毛がオレンジ色に光っている。石畳に散らばった帳簿を一冊ずつ拾いながら、フィーネは小さく笑った。転んだのに、笑っている。

「昨日までは、転んだら泣いてたのにな。——強くなったんだな、あの子」

アルノルドが組んだ腕を解き、散らばった帳簿の一冊を拾った。

(情は移さない。移さない、と言っているが——)

◇ ◇ ◇

三日後。

南区に、パンの匂いが漂い始めた。

ボランティア清掃のとき以来の、本格的な営業再開だ。あの時は倉庫の小麦粉を持ち込んでの臨時営業だったが、今度はマリアが自分の金で仕入れた小麦粉で焼くパンだ。

朝六時に窯に火が入った。

七時には焼きたてのパンの匂いが通りに流れた。

八時には、行列ができていた。

「マリアさん、パン! パン焼いてるの!?」

「もう半年以上食べてないよ!」

「いくら? 銅貨何枚?」

マリアが窯から出したてのパンを並べた。湯気が上がっている。

「うちのパンは、一斤銅貨三枚。——昔と同じ値段だよ」

住民たちが歓声を上げた。

フィーネが広場から走ってきた。息が切れている。

「ナカムラさん! マリアさんのお店が——」

「ええ。知ってます」

「パンの匂いが——広場まで来てるんです」

フィーネの目が潤んでいた。

「——父が生きていた頃みたいです」

パン屋の前で、子供がパンを頬張っている。母親が「ゆっくり食べなさい」と言っている。老人が懐かしそうにパンの匂いを嗅いでいる。

「当たり前」が、一つ戻った。

◇ ◇ ◇

夕方、執務室でフィーネが台帳を整理していた。

「ナカムラさん」

「はい」

「今日、住民の方が三人、台帳に登録したいって来ました」

「未登録の方ですか」

「はい。今までは怖くて名乗り出られなかったけど、パン屋が戻ったのを見て——『この領地はちゃんとしてきた』と思ったんだそうです」

(パンの匂いが、信頼を生んだ。行政の成果が目に見える形で住民に届くと、次の行政サービスへの協力が得られる。好循環の始まりだ)

「フィーネ様。今日の登録者、名前を教えてください」

「はい。一人目はクラウス・ホフマンさん。二人目は奥さんのリーゼ・ベッカーさん。三人目と四人目は七歳と六歳の男の子で、五人目は——」

フィーネがメモ帳を見た。

「えーと。五人目は、生まれたばかりの赤ちゃんなんです。名前は——『まだない』そうです」

「名前がない?」

「お父さんが、『台帳に載せてから名前を決めたい』って」

(台帳に載せてから名前を——つまり、この領地の住民として認められてから、子供に名前を付けたいということか)

「……いい話ですね」

「はい。——私、名前を書くのが楽しくなってきました」

フィーネがペンを取った。

台帳の新しいページに、丁寧に書いていく。

「クラウス・ホフマン。リーゼ・ベッカー。トビアス(7歳)。グスタフ(6歳)。赤ちゃん(名前未定)」

最後の一行の横に、フィーネが小さく書き足した。

「名前が決まったら、書き直します」

(——こういうことなんだよ、行政は)

窓の外から、まだパンの匂いがしていた。

第二部「台帳」了

第三部「日常の回復」に続く