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王子の成績が上がったのは愛の力だそうです。では、家庭教師の私は本日で辞めさせていただきます

作者: Sophia Rose

本文

「僕の成績が上がったのは、ミーナの愛のおかげだ」

第三王子レオン殿下がそうおっしゃった瞬間、書斎の空気が一拍だけ止まった。

窓の外では、王宮の庭園に遅咲きの薔薇が揺れている。机の上には、今日のために私がまとめた外交条約の要点、歴代国王の対外政策の変遷、礼法試験で間違いやすい所作の確認表が整然と並んでいた。

その向こうで、レオン殿下は晴れやかな顔をしていた。

隣には男爵令嬢ミーナ様が立っている。柔らかな金髪を揺らし、両手を胸の前で合わせ、瞳を潤ませていた。

「レオン様……そんな、私なんて。ただ、レオン様ならきっとおできになりますと、そう申し上げていただけですわ」

「それが大事なんだ。君が信じてくれたから、僕は変われた。君の優しさがなければ、僕はいつまでも机に縛りつけられて、息苦しいままだった」

殿下は私のほうを見た。

その視線に、少しの後ろめたさと、それ以上の誇らしさがあった。

「クラリス。君には感謝している。もちろん、君はよくやってくれたと思う。だが、君は厳しいだけだ。間違えれば指摘し、覚えていなければ復習を命じる。僕の気持ちを軽くしてくれたことは一度もなかった」

私は膝の上で指を重ねた。

怒るべき場面なのだろうか。

悲しむべき場面なのだろうか。

けれど、私の胸に最初に落ちてきたのは、長い時間をかけて灯してきた燭台の火を、ふっと吹き消されたような静けさだった。

「僕を変えてくれたのはミーナの優しさだ。成績が上がったのは、愛の力なんだ」

殿下はそう断言なさった。

机の上の紙束が、やけに白く見えた。

私は侯爵家の長女として、幼い頃から学問を好んできた。外交学、歴史、法学、礼法。貴族令嬢の嗜みとしては少し偏っていると言われたけれど、父は笑って書庫の鍵を渡してくれた。

「クラリスは、読んだものを誰かに渡せる子だ」

父はよくそう言った。

だから、私が第三王子レオン殿下の婚約者に内定し、さらに家庭教師役を任された時も、私は恐れより先に責任を感じた。

レオン殿下は、決して愚かな方ではなかった。

ただ、学び方を知らなかった。

外交条約を読めと言われれば、最初の三行で眉間にしわを寄せる。歴史の年号を覚えろと言われれば、数字だけを丸暗記しようとして混乱する。法学では条文の言い回しに躓き、礼法では緊張のあまり杯を取る指が強張る。

それでも、王子としての務めから逃げきれるわけではない。

私はまず、条約文を色分けした。

赤は譲歩、青は義務、緑は期限。難しい文言は、同じ意味の平易な言葉に置き換え、さらに実際の交渉場面を想定した会話に直した。

「殿下、この一文は単なる挨拶ではございません。ここで相手国は、港の使用権を十年延ばしてほしいと暗に示しています」

「こんな遠回しな言い方で?」

「外交とは、直接言わずに伝える技術でもあります。露骨に要求すれば角が立ちます。ですが、読めなければ譲るべきでないものまで譲ってしまう」

殿下は何度も首を捻った。

私は怒鳴らなかった。

翌日も、その翌日も、同じ箇所を別の例で説明した。大陸南部の塩の交易、北方同盟の軍馬の通行権、王妃陛下の祖国との婚姻条約。殿下が退屈しないよう、過去の外交失敗例を物語のように語った。

「百年前のリーヴェル公は、なぜ敗れたと思われますか」

「兵が少なかったから?」

「それもございます。けれど、始まりは晩餐会の席順でした」

「席順?」

「はい。相手国の使節を一段低い席に通したため、同盟交渉は始まる前から壊れました。礼法は飾りではございません。相手が何を大切にしているかを測る秤です」

殿下はその話を覚えた。

やがて礼法の授業で、杯を置く位置、視線を向ける相手、退出時の一礼の深さを少しずつ直していった。

私は、殿下の癖を知っていた。

難問に当たると羽根ペンの軸を爪で叩くこと。理解できない時ほど「わかった」と先に言うこと。暗記だけで乗り切ろうとすると、三日後にはすべて抜け落ちること。

だから復習表を作った。

一日目は要点、三日目は例題、七日目は応用。間違えた箇所には小さな印をつけ、殿下がご自分で克服したと実感できるよう、次に解けた時には印を消した。

「また復習か」

殿下は何度もため息をついた。

「はい。殿下が本番で恥をかかないためです」

「少しは褒めてくれてもいいだろう」

「昨日より早く読めています。ですが、この条項の意味を取り違えると、鉱山権を失う可能性があります」

「君は本当に容赦がないな」

そう言いながらも、殿下は机に向かった。

春の試験で、殿下は歴史と外交学の成績を大きく上げた。礼法官からは「以前より所作が安定している」と評された。法学も、少なくとも基礎条文を問われて沈黙することはなくなった。

私は安堵した。

殿下が王子として認められることは、いずれ殿下の妃となる私の務めにも繋がると思っていた。

その頃から、ミーナ様が書斎に訪れるようになった。

王妃陛下主催の慈善茶会で殿下と知り合った、愛らしい男爵令嬢。人の心に寄り添うのが上手で、殿下が疲れていると、蜂蜜入りの香茶を差し入れた。

「レオン様は頑張りすぎですわ。少しお休みになって」

「ミーナは優しいな」

「私、レオン様なら必ず立派な王子になられると信じています」

その言葉に殿下が救われていたのは、私にもわかった。

だから私は、ミーナ様を責めなかった。

休憩は必要だ。励ましも必要だ。人は正しさだけでは立っていられない。

ただ、休憩の後には復習が必要だった。励ましの後には、条約文を読み直さなければならなかった。

ミーナ様が退出した後、私は殿下に紙を差し出した。

「では、先ほどの続きです。南方三国との穀物輸送に関する条項を、殿下のお言葉で説明してください」

「今いい気分だったのに」

「その良い気分のまま、覚えたことを定着させましょう」

殿下は不満そうにしながらも答えた。

間違えた箇所を直し、もう一度読ませ、翌日また問うた。

そうして積み重ねたものが、成績という形になった。

けれど今、殿下はそれを愛の力と呼んでいる。

私は静かに息を吸った。

「殿下。ミーナ様が殿下を励ましていらしたことは、私も存じております。そのお心は尊いものです」

ミーナ様がぱっと顔を上げる。

「クラリス様……」

「ですが、励ますことと、教えることは違います」

書斎がまた静かになった。

殿下の眉が寄る。

「どういう意味だ」

「優しさで条約文は読めません。励ましで歴史の流れは整理できません。殿下が覚えたのは、愛ではなく、毎晩の復習の結果です」

「だから、その復習をする気にさせてくれたのがミーナだと言っている」

「いいえ。殿下が復習を嫌がった日、机に戻ったのは殿下ご自身です。私が横で待ち、間違えた箇所を示し、次に進めるよう道を作りました。ミーナ様の言葉が支えになったことは否定しません。けれど、支えと指導は同じではございません」

殿下は椅子から立ち上がった。

「君は、どうして素直に祝えないんだ。僕の成績が上がったんだぞ。君の婚約者である僕が、王宮で認められたんだ」

「祝っております。だからこそ、次の試験まで油断なさらないでくださいと申し上げているのです」

「またそれだ。君はいつも、次、次、次。僕がどれほど苦しかったかわかっているのか」

私は答えなかった。

わかっているつもりだった。

わかっていたから、殿下が一度で覚えられないところを責めなかった。苦手な分野を笑わなかった。夜会の翌朝は課題を軽くし、落ち込んだ日は物語から入った。

けれど、それらは殿下にとって、厳しさの一部でしかなかったのだろう。

「ミーナは違う。僕を信じてくれる。間違えても責めない。僕は彼女の前では王子ではなく、ただのレオンでいられる」

「それは、よろしゅうございました」

「クラリス、君には愛がない」

その言葉は、思いのほか深く胸に刺さった。

私は、殿下を愛していたのだろうか。

婚約者としての敬意。未来の妃としての責任。共に歩む相手を支えたいという願い。

それを愛と呼ぶには、少し堅かったかもしれない。

けれど、少なくとも私は、殿下が人前で恥をかかないようにと願っていた。

殿下が「第三王子は形ばかりだ」と笑われないように。

努力すれば届く場所があると、殿下ご自身に知っていただけるように。

その願いを、愛がないと言われた。

私は、机の上の資料を一枚ずつ揃えた。

「承知いたしました」

「何がだ」

「殿下が私の指導を不要とお考えであることを、承知いたしました」

殿下の表情がわずかに揺れた。

「そこまでは言っていない」

「ですが、私の役目は、殿下の気分をよくすることではなく、殿下を失敗させないことでした。その役目が厳しいだけに見え、成果が別のものによるとお考えなら、私はここにいるべきではございません」

ミーナ様が慌てたように声を上げた。

「あの、クラリス様。私はそんなつもりでは……ただ、レオン様が少しでもお楽になればと」

「ミーナ様のお気持ちを疑ってはおりません」

本当に、そうだった。

彼女は悪意で殿下を惑わせたのではない。殿下が笑えば嬉しく、殿下が褒めてくれれば、自分が役に立ったと思ったのだろう。

ただ、自分が知らない場所で、誰かがどれほどの手間をかけていたかを知らなかった。

そして知らないまま、手柄だけを受け取ろうとしてしまった。

「レオン殿下。私は本日をもって、家庭教師の任を辞させていただきます」

「待て、クラリス。それは勝手だ」

「正式な任命は王妃陛下からいただいております。すぐにご報告いたします。引き継ぎ資料は残してまいりますので、次の教師にお渡しください」

「君は婚約者だろう。僕を支えるべきだ」

「支えをお望みでしたら、ミーナ様がいらっしゃいます」

殿下が息を呑む。

私は深く礼をした。

「殿下のご健闘をお祈り申し上げます」

それだけ告げて、私は書斎を出た。

廊下を歩きながら、胸が痛まなかったと言えば嘘になる。

けれど、足は止まらなかった。

その日のうちに、私は王妃陛下へ辞任を願い出た。

王妃陛下は、紅茶に口をつけることなく私の話を最後までお聞きになった。美しい銀灰色の瞳は、静かに細められている。

「クラリス。あなたは、怒ってよいのですよ」

「恐れながら、怒りを理由に辞するのではございません」

「では、何を理由に?」

「殿下が私の指導を信頼しておられない以上、指導は成り立ちません。学ぶ方が必要と認めない教えは、ただの苦痛になります」

王妃陛下はしばらく黙っていた。

そして、私が持参した引き継ぎ資料に目を落とされた。

条約文の要約、出題傾向、殿下が間違えやすい箇所、復習予定表。礼法の癖については、言葉だけでなく簡単な図も添えてあった。

「これを、あなたが一人で?」

「はい。殿下の理解の助けになればと」

「……惜しいわね」

王妃陛下は小さく呟かれた。

「ですが、あなたの判断を尊重します。家庭教師の任は本日をもって解きましょう」

「ありがとうございます」

「婚約については、すぐには動かしません。王家の都合もあります。ただし、あなたが不当に扱われることは許しません」

「お心遣い、痛み入ります」

部屋を辞した後、私は王宮図書室に向かった。借りていた資料を返すためだった。

そこで、偶然にも宰相補佐のエリオット・ヴァレン公爵令息と出会った。

彼は宰相閣下の右腕として若くから働き、隣国語にも通じる才人だ。黒髪に落ち着いた琥珀色の瞳を持ち、いつも穏やかに礼を尽くす方だった。

「クラリス嬢。ずいぶん多くの資料をお持ちですね」

「返却に参りました」

彼は私の腕の中の本を見て、少し目を丸くした。

「南方海峡通商史、古代王権法、宮廷礼式比較……第三王子殿下のご指導用ですか」

「以前は、そうでした」

エリオット様はそれ以上をすぐには尋ねなかった。

ただ、私の腕から重い本を半分受け取ってくださった。

「お手伝いしても?」

「ありがとうございます」

返却台まで並んで歩く間、彼は静かに言った。

「殿下の最近の成績向上について、宰相閣下も注目しておられました。とくに外交学の答案は、以前より論旨が明確になったと」

「殿下が努力なさった結果です」

「その努力を形にするには、適切な導きが必要です」

私は少しだけ足を止めた。

エリオット様は、こちらを見ていた。

「失礼。踏み込みすぎました」

「いいえ」

私は首を振った。

「そのお言葉で、少し救われました」

彼は穏やかに微笑んだ。

「事実を述べただけです」

家庭教師を辞してから、王宮での私の時間は減った。

侯爵家に戻った私は、自分の勉強を再開した。父の書庫にこもり、隣国との新しい関税協定、古い王朝の継承法、使節団の慣例について読み直した。

婚約者として王子を支えるためではない。

私自身が、知りたいから。

私自身が、使いたい知識だから。

それから一月後、王位継承適性を測る模擬外交試験が開かれた。

王位を直接決めるものではないが、王子たちが将来どの役職に向くかを測る重要な試験である。王族、宰相、主要貴族、外交官、礼法官が見守る中、候補者は架空の国との交渉を行う。

第三王子レオン殿下も参加された。

私は招かれていなかった。

けれど父が評議員として出席し、後から静かに教えてくれた。

その日の殿下は、最初こそ堂々としていたという。

ミーナ様も見学席に座り、両手を組んで見守っていた。

試験官役を務めたのは、隣国グランヴェルから来ていた若き外交官、ユリウス卿だった。実際の外交を知る者らしく、彼は柔らかい笑みを浮かべながら、曖昧な言葉を巧みに混ぜた。

「我が国としては、両国の友好をさらに深めるため、北港の倉庫使用について従来の慣例に近い形で、柔軟な取り決めを望みます」

この一文には罠があった。

従来の慣例とは、過去に一度だけ非常時に認めた無償使用を指す。柔軟な取り決めとは、期限を明記しない貸与を意味しかねない。

私なら、殿下にこう教えた。

「美しい言葉ほど、境界を確認なさいませ」と。

だが、殿下は微笑んで頷いた。

「友好のためならば、我が国もできる限り配慮しましょう」

宰相閣下の眉が動いたという。

ユリウス卿はさらに問いを重ねた。

「ありがたいお言葉です。では、北港の倉庫使用について、十年前の協定に準じるという理解でよろしいでしょうか」

十年前の協定。

それは、北方飢饉の救援物資を一時保管するための特例協定であり、通商利用には適用できない。

殿下はそこで言葉に詰まった。

「十年前の協定……それは、確か……友好協定の一つで」

礼法官が手元の記録に何かを書きつけた。

ユリウス卿は穏やかに待った。

「殿下、その協定の目的をご説明いただけますか」

「目的は……両国の信頼を深めることで」

「具体的には?」

殿下は羽根ペンを指で叩き始めた。

私のよく知る癖だった。

「具体的には……物資の……いや、港の……」

見学席のミーナ様が小さく身を乗り出した。

「レオン様、大丈夫です。あなたならできますわ」

その声は優しかったという。

殿下は一瞬だけ安心したように彼女を見た。

けれど、試験官の問いは消えない。

励ましでは、条約文は読めない。

ユリウス卿は次に、礼法上の選択を問う場面を作った。架空の使節団に、王族に近い血筋だが現在は属国の代表が含まれる。その席順をどう扱うか。

殿下は高位の血筋だけを見て、上座に近い席を示した。

礼法官の表情が曇った。

その配置では、正式な同盟国の大使を下位に置くことになる。小さな侮辱が、大きな不和に繋がる。

さらに法学の問いが続いた。

「もし相手国が、口頭での合意をもって即時実行を求めた場合、殿下はどの範囲まで応じられますか」

殿下は答えられなかった。

王族の裁量、評議会の承認、通商税に関わる制限。基礎の基礎だった。

それでも丸暗記ではなく、場面に応じて使えなければ意味がない。

殿下は、以前の殿下に戻っていた。

いや、以前より苦しかったかもしれない。

一度上がった評価があるからこそ、その失速は誰の目にも明らかだった。

試験後、宰相閣下は殿下に問うたという。

「第三王子殿下。前回の答案で見られた条約解釈の精度は、本日ほとんど確認できませんでした。学習方法に変更がありましたか」

殿下は唇を噛んだ。

「少し、指導者が変わりました」

「クラリス嬢は?」

「……家庭教師を辞しました」

場が静まり返ったそうだ。

王妃陛下は目を伏せ、王女殿下は扇の陰で小さく息を吐いた。

ミーナ様は真っ青になっていた。

「でも、レオン様は頑張って……私は、毎日励まして……」

その声に、宰相閣下が厳しくも静かに言った。

「励ますことは尊い。しかし教育とは、相手が理解するまで道筋を整え、間違いを見つけ、積み重ねを管理することです。気持ちを支えることと、能力を育てることを混同してはならない」

ミーナ様は言葉を失った。

殿下もまた、机の上の資料を見つめたまま動かなかったという。

その日の夕方、私は王宮に呼ばれた。

謁見の間ではなく、王妃陛下の私室だった。そこには王妃陛下、宰相閣下、王女アデライード殿下、そして宰相補佐のエリオット様がいらした。

私は深く礼をした。

「クラリス・ベルフォード、参上いたしました」

王妃陛下が穏やかに手を上げる。

「楽になさい。今日はあなたを責めるために呼んだのではありません」

宰相閣下が机の上に数冊の綴じられた資料を置いた。

見覚えのある筆跡。

私が引き継ぎとして残したものだった。

「クラリス嬢。これを拝見しました」

「はい」

「第三王子殿下の弱点分析、復習計画、条約文の段階別要約、礼法上の癖に対する矯正案。どれも非常に実践的です。単に知識があるだけでは作れない。相手の理解を観察し、必要な形に変換する力がある」

私は静かに目を伏せた。

胸の奥に、消えていた火がまた小さく灯るのを感じた。

王女アデライード殿下が身を乗り出す。

「わたくし、あなたの歴史教材を読みましたの。北方同盟の失敗を晩餐会の席順から説明する箇所、見事でしたわ。あれなら退屈な年号も流れで覚えられる」

「恐れ入ります」

「王族の教育に必要なのは、叱る者でも甘やかす者でもありません。失敗しないために、何を積めばよいかを示せる者です」

宰相閣下は頷いた。

「そこで、あなたに依頼があります。王立学院の高等科に、新しく外交実務の予備講座を設ける予定です。貴族子女の中には、条約文を飾り文句としか読めない者も多い。あなたに教材作成と講師補佐をお願いしたい」

私は思わず顔を上げた。

王立学院。

貴族の子女だけでなく、官吏を目指す優秀な平民も通う学び舎。そこで外交実務を教えることは、未来の国を支える人材を育てることに繋がる。

「私に、そのような大役が務まるでしょうか」

「務まるかどうかを問う段階は、もう過ぎています」

そう言ったのは、エリオット様だった。

彼は一歩前に進み、丁寧に礼をした。

「失礼を承知で申し上げます。第三王子殿下の前回答案と今回の模擬交渉を比較すれば、あなたの指導がどれほど実務に近かったかは明らかです。特に、曖昧な表現の危険性を見抜かせる訓練は、学院の講義にも取り入れる価値があります」

私の喉が少し詰まった。

認めてほしかったのだと、その時初めてはっきりわかった。

愛がないと言われたことより、厳しいだけだと切り捨てられたことより、私が積み重ねたものを、なかったことにされたのが苦しかった。

けれど今、その積み重ねを見てくれる人がいる。

紙の端の小さな注釈も、色分けの意味も、復習表の順番も。

「お受けいたします」

私は深く頭を下げた。

「私の知識が、誰かの力になるのであれば」

王妃陛下は微笑まれた。

「それから、婚約の件です」

部屋の空気が変わる。

私は背筋を伸ばした。

「第三王子殿下から、婚約の継続について再考したいとの申し出がありました」

一瞬、胸が静かに揺れた。

王妃陛下は続ける。

「ただし、それはあなたに戻ってきてほしいという意味でもあるようです。今日の試験で、殿下は多くを悟ったのでしょう」

「……そうでございますか」

「あなたの意思を聞かせてください」

私は、窓の外を見た。

夕暮れが庭園を金色に染めている。

かつて私は、その道を殿下と並んで歩く未来を考えていた。殿下が王子として認められ、私は妃として支える。そんな未来を当然のように受け入れようとしていた。

けれど、今は違う。

私の前には、別の道が開いている。

誰かの補助役としてではなく、私自身の知性を使って歩く道が。

「恐れながら、婚約は白紙に戻していただきたく存じます」

王妃陛下は驚かなかった。

ただ、静かに頷いた。

「理由を聞いても?」

「殿下が私の価値に気づかれたのは、私がいなくなったからです。ですが私は、いなくならなければ尊重されない場所へ戻るべきではないと考えます」

王女殿下が扇を閉じた。

「立派ですわ」

私は首を振った。

「立派ではございません。ただ、学んだだけです。教えることと尽くすことは似ておりますが、同じではありません。相手が学ぼうとしないなら、教師は自分を削るだけになります」

王妃陛下は少し寂しそうに、けれどどこか誇らしげに微笑んだ。

「あなたを失うのは、王家にとって痛手ね」

「学院で働くことをお許しいただけるなら、国のために力を尽くします」

「もちろんです」

その三日後、レオン殿下から面会を求められた。

断ることもできたが、私は会うことにした。場所は王宮の小さな応接室。以前、授業の合間に休憩したこともある部屋だった。

殿下はやつれて見えた。

けれど、以前のような不満げな色は薄れていた。

「クラリス」

「殿下」

私は礼をした。

殿下はしばらく黙っていたが、やがて小さく頭を下げた。

「すまなかった」

王子が簡単に頭を下げるものではない。

私は少し目を見開いた。

「君がどれほど僕を支えてくれていたのか、わかっていなかった。試験で、何も出てこなかった。ミーナが励ましてくれたのに、頭の中が真っ白になった」

「……」

「その時、君がいつも言っていた意味がわかった。覚えたつもりのことは、使えなければ守ってくれない。優しい言葉は嬉しい。でも、問いには答えてくれない」

殿下の声は震えていた。

「僕は、努力したと思っていた。けれど、君が道を作ってくれていたから歩けていたんだな。道がなくなって、初めて自分がどこに立っているのかわかった」

私は静かに聞いていた。

殿下が現実を知ったことは、よかったと思う。

この先、真剣に学べば、殿下は変わるかもしれない。元々、学ぶ力がない方ではないのだから。

「もう一度、僕の教師に戻ってくれないか」

予想していた言葉だった。

私は首を横に振った。

「お受けできません」

殿下は顔を上げた。

「婚約者としてでも?」

「婚約も、白紙に戻していただくようお願いしました」

「そこまで……」

「殿下。私は殿下を憎んでいるわけではございません」

その言葉に、殿下の表情が苦しげに歪む。

「では、なぜ」

「殿下が成長なさるために、私である必要はありません。そして私が生きるためにも、殿下の隣である必要はありません」

殿下は黙った。

「ミーナ様を責めすぎないでくださいませ。彼女は殿下を励ましたかっただけです。ただ、励ますことと、教えることは違います。それを、お二人とも知らなかった」

「……ミーナにも言われた。自分は何もわかっていなかったと。君に謝りたいと」

「謝罪は受け取ります。ですが、戻る理由にはなりません」

私は立ち上がった。

「殿下が本当に学びたいとお思いなら、新しい教師に敬意を払ってください。間違いを指摘されることを、否定されたと受け取らないでください。厳しさの中に、殿下を失敗させまいとする願いがあることもございます」

殿下は深くうつむいた。

「君は最後まで教師だな」

「それが、私の得意なことですので」

少しだけ、殿下が笑った。

苦く、けれど以前よりも素直な笑みだった。

「ありがとう、クラリス。今度こそ、自分で学ぶ」

「殿下のご健闘をお祈り申し上げます」

私は礼をして、部屋を出た。

廊下の先には、エリオット様が待っていた。偶然ではないだろう。手には学院の講座案が抱えられている。

「お疲れさまでした」

「聞こえていましたか」

「扉の外までは。ただ、中身は聞いていません」

「では、どうして疲れたと?」

エリオット様は少し考え、真面目な顔で答えた。

「大切な過去に区切りをつけるのは、どんなに正しい選択でも疲れるものです」

私は思わず笑ってしまった。

彼は時々、こちらが隠したいところを穏やかに言い当てる。

「その通りです」

「少し歩きませんか。学院から届いた教室の見取り図があります。あなたが望むなら、机の配置から考えられます」

「机の配置から?」

「外交実務なら、講師が一方的に話すだけでは足りません。交渉役、観察役、記録役に分けるなら、円形か、向かい合わせの机がよいかと」

私は目を瞬かせた。

「……エリオット様」

「はい」

「それは、とても良い案です」

彼の表情がわずかに明るくなる。

「あなたにそう言っていただけると、自信になります」

「私も、相談できる方がいると心強いです」

言ってから、少し頬が熱くなった。

エリオット様は何も急がなかった。ただ穏やかに微笑み、私の歩幅に合わせて歩き出す。

窓の外の庭園は、もう夜の色に沈みかけていた。

かつての私は、誰かの隣に立つために知識を積んでいるのだと思っていた。

けれど今、その知識は私自身の手の中にある。

条約文を読み解く力も、歴史を物語として繋ぐ力も、礼法の意味を見抜く目も。誰かの成績を上げるためだけのものではない。誰かに愛がないと切り捨てられて、消えてしまうものでもない。

王立学院での最初の講義の日、私は教壇に立った。

教室には貴族子女や官吏候補生たちが集まっている。緊張した顔、退屈そうな顔、自信満々の顔。そのどれも、かつての殿下の面影に少しずつ似ていた。

私は黒板に、短い条約文を書いた。

美しい友好の言葉に包まれた、危うい一文。

「皆様。この文章を、ただの挨拶だと思った方は?」

数人が手を上げた。

私は微笑む。

「では今日は、その挨拶の中に隠された要求を探しましょう」

教室がざわめく。

後方で見学していたエリオット様が、静かに頷いた。

私は続けた。

「外交とは、言葉の奥にある境界を読むことです。礼法とは、相手を飾るためではなく、相手を理解するためにあります。法は、強い者の気分で変えないためにあります。そして歴史は、過去の失敗をもう一度繰り返さないためにあります」

生徒たちの目が、少しずつこちらへ向いた。

私は、かつてレオン殿下にしたように、一つずつ道を作っていく。

ただし今度は、誰か一人のためだけではない。

学ぼうとするすべての人のために。

講義の終わり、ひとりの女子学生が駆け寄ってきた。

「先生、条約文ってもっと退屈なものだと思っていました。でも、物語みたいに繋がっているんですね」

「ええ。人と国が動かすものですから」

「次までに、今日の例題をもう一度読んできます」

その言葉に、私は胸が温かくなった。

教えるとは、相手の中に小さな灯を渡すことなのかもしれない。

その灯が燃えるかどうかは、相手次第だ。

けれど、渡した灯が確かに誰かの手に残る瞬間がある。

教室を出ると、廊下でエリオット様が待っていた。

「素晴らしい講義でした」

「甘い評価ではありませんか?」

「私は甘やかすのがあまり得意ではありません」

「では、信じてもよろしいのですね」

「もちろん」

彼は少しだけ照れたように視線を逸らし、それから真っ直ぐ私を見た。

「クラリス嬢。もしご迷惑でなければ、今後も講座の相談相手を務めさせてください。仕事としても、個人的にも」

最後の一言は、とても静かだった。

けれど、逃げ道のない誠実さがあった。

私はしばらく彼を見つめた。

かつての私は、婚約という形で未来を与えられた。

今の私は、自分で選ぶことができる。

「では、まずは次回の教材についてご相談させてください」

エリオット様の瞳が柔らかく細められる。

「喜んで」

「それから……講義が落ち着いたら、学院近くの書店にご一緒していただけますか。隣国の新しい外交事例集が入ったと聞きました」

「ぜひ。私も同じ本を探していました」

私たちは顔を見合わせて笑った。

恋と呼ぶには、まだ静かすぎる。

けれど、互いの知性を尊び、言葉を交わし、同じ本を手に取ろうとするこの時間を、私は大切にしたいと思った。

王子の成績が上がったのは、愛の力だと誰かは言った。

けれど本当は、努力には努力の形がある。

支えには支えの役目がある。

優しさは人を立たせるかもしれない。けれど、歩き方を身につけるには、地図と訓練と、間違いを正す手が必要だ。

私はもう、誰かの影でそれを差し出すだけの令嬢ではない。

私の知性は、私のものだ。

私はそれを携えて、自分の未来を選んでいく。

差し出された講座案を受け取り、私は新しい教室へ向かって歩き出した。