軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

Evanescent

——もう、何日が過ぎたのだろうか。

あと少しで自分のものになるはずだったレイチェルが、この腕からすり抜けてしまってから。

かつてアウレリア家の次期当主として名を馳せたエヴァン・アウレリアは今、王城の地下深くにある牢獄に収監されていた。

妻を手に掛け、アウレリアの家名に泥を塗ったばかりか、強大な浄化の力を持つ娘の存在を隠匿してきた大罪人。それが今の彼の肩書きだった。

だが、枷に繋がれて処刑の日を待つエヴァンの心に去来するのは、己の罪への悔恨などではない。

「……レイチェル」

彼女の名前を反芻するだけで、乾ききった胸の奥から甘い痺れが這い上がってくる。

しかし、その心地よい感覚はすぐに別の感情に塗り潰される。

「お前は今、どこで、誰の隣にいるのだ……」

自分の世界から消えてしまった愛おしい娘への、身を焦がすような恋慕。ただそれだけが、彼の胸を焼き続けていた。

家のため、自分を律して妻を娶った。レイチェルを遠ざけるため、ウィンストン家の子息に彼女を譲ろうともした。

それなのに。結局は自分の気持ちを抑えきれずに暴走し、最後にはすべてを失ってしまった。

結局自分はどうすればよかったのか。無為な時間を過ごす中で何度も考えてはみたものの、答えは出ない。

諦めていればよかったのか。小細工など弄さずに、彼女に思いの丈をぶつけていればよかったのか。

それとも——

何度となく繰り返される自問自答。

今日もまた、エヴァンの意識は彼の世界に福音が鳴り響いたあの日へと深く沈んでいった。

*

十八年前。アウレリアの屋敷は、待望の長女誕生に沸き立っていた——はずだった。

だが難産が災いし、アウレリア夫人であるセリーヌとその娘には十日間の面会謝絶が敷かれることとなった。

その間、屋敷の使用人たちは好奇心を隠しもしない囁きを交わしていた。

赤子を取り上げた産婆が困惑し、医者も口を濁していた。どうやら、アウレリアの血筋にそぐわぬ赤子が産まれたらしい、と。

屋敷に漂う不穏な空気。五歳になったばかりのエヴァンも、それを敏感に感じ取っていた。

十日が過ぎ、ようやく面会を許されたとき。

ベッドに横たわったままの母セリーヌと、揺り籠の横に立つ父テオドアは、喜びに沸く様子もなくどこか複雑な面持ちで、乳母に手を引かれたエヴァンを迎え入れた。

「……エヴァン。この子があなたの妹、レイチェルよ」

その声に促されるように、エヴァンは揺り籠に手を掛ける。恐る恐る覗き込んだ先にいた赤子は、ようやく開いた瞳も、生え始めた産毛も、アウレリアの象徴とは程遠い泥を混ぜたような色彩をしていた。

くすんだ髪。淀んだ水底を思わせる、頼りない瞳。透き通るような金髪のエヴァンや、澄んだ青い瞳の両親とはあまりにもかけ離れている。

一目で出来損ないと断じられてしまいそうなその姿に、エヴァンは幼いながらも周囲の囁きの意味を悟った。

——こんなにも可愛らしいのに、何て可哀想なんだろう。だってこの子は僕と違って、これからも奇異の目を向けられ続けるんだから。

自分や両親のような輝かしい本物の証を持たない娘。不思議なことに、その不完全さこそがエヴァンの目には何よりも尊いものに思えた。

そっと赤子へと手を伸ばす。揺り籠の中にいたレイチェルが弱々しく彼の指を握りしめ、その小さな熱が伝わった瞬間、エヴァンの中に温かな感情が湧き上がった。

「……母上。レイチェルを産んでくれてありがとうございます。兄として、僕がこの子を一生守りますからね」

エヴァンが力強く宣誓して笑いかけると、セリーヌは動揺したように目を瞠り、やがて一筋の涙を零した。

「ええ……ええ、そうよ。この子はアウレリアの娘。あなたの妹なの。どうか、大事にしてあげてちょうだい」

エヴァンは、その言葉に応えるように誇らしげに胸を張る。

正しい行いをして褒められる時と同じ手つきで、テオドアが優しく彼の頭を撫でてくれた。

レイチェルは愛されて育った。父からも母からも、分け隔てなく。

両親は当初の失望を打ち消すように彼女を慈しんでいた。その愛情の裏側に、微かな憐れみを含ませて。

もちろんエヴァンも彼女を可愛がった。自分の後ろばかりをついて回る妹が、愛らしくて仕方がなかった。

「レイチェルはすっかりお兄ちゃん子に育ちましたね」

セリーヌが嬉しそうに微笑む。自分よりも兄に懐くレイチェルにテオドアは複雑そうにしながらも、「兄妹の仲が良いのはいいことだ」と二人をまとめて抱きしめた。

幸せな家庭であったのは確かだったが——成長するにつれ、両親に伴われて社交界に顔を出すたびに、レイチェルは陰でからかわれるようになった。

「あなた、お父様にもお母様にも全然似ていないのね。養子なの?」

同世代の娘たちは無垢を装った質問をぶつけてくる。親たちは慌てて娘の口を塞ぐものの、その瞳にははっきりと疑心と嘲りが浮かんでいた。

その頃には、エヴァンにもその含みの意味が分かるようになっていた。要するに母の不貞を疑っているのだ、と。

貞淑で知られるセリーヌがそのような真似をするはずがないことくらい、彼らにもよく分かっているはずだ。それでも周囲は嬉しくて仕方がないのだ。清廉と謳われ、王家の覚えもめでたいアウレリア家の唯一の汚点を、ようやく見つけたのだから。

エヴァンはなるべく口を挟まぬように努めていた。無理に否定すれば余計に面白がるような連中だ。相手をしたところでアウレリアの品位を貶めるだけである、と。

沈黙が却って相手を増長させてしまうことになるなんて、正しく育てられたエヴァンは知らなかったのだ。

世間はアウレリアを放っておいてはくれないのだと、否応なく気付かされた頃。ついに耐えきれなくなったエヴァンは、執拗にレイチェルを貶める令嬢たちを厳しい言葉で叱りつけた。

「……妹への侮辱は、この私への侮辱に他ならない。君の家は、そのことを理解しているのか?」

顔を青くした令嬢たちは、逃げるようにその場から走り去っていく。

残されたレイチェルは、おずおずと申し訳なさそうに彼を見上げて礼を述べた。

「ごめんなさい……。私のせいで、兄さまの手を煩わせてしまいました」

「気にするな。兄として、お前を守るのは当然のことだ」

そう慰めて、消え入りそうな声で謝る彼女を抱き寄せた瞬間――エヴァンは自らの異変に気が付いた。

胸元に添えられた彼女の小さな手から熱が伝わると同時に、自らの心臓が狂ったような鼓動を刻んでいたのだ。

独りで声を殺して涙を流す姿も。

それでも決して腐ることなく、周囲に追いつこうと必死に努力を重ねる姿も。

その健気さが、痛々しさが、愛おしくて仕方がなかった。

でもそれは当然だ。大切な妹なのだから。

だからこれは——そう。兄妹としての家族愛だ。

エヴァンはそう信じ込むことで、湧き上がる想いを理性の鎖で繋ぎ止めた。心の奥底にある最も暗い場所へ感情を押し込めて、これは汚いものではない、兄としての憐憫なのだと自分に言い聞かせ続けてきた。

――しかし、彼女の内に眠る「力」を目の当たりにしたとき、その鎖は大きく軋みを上げた。

濁った水を瞬時に澄ませる、水の浄化の力。それは加護の力に他ならず、公になれば彼女は瞬く間に自分の手の届かない場所へと連れ去られてしまうことは容易に想像がついた。

王族が、あるいは他国の権力者が彼女の価値を見出し、自分の腕の中から奪っていく。

それは、あってはならない未来だった。

だから彼は嘘を吐いた。

……その嘘が、レイチェルを深く傷つけると分かっていたのに。

「レイチェル。これが仮に加護だったとしても、これでは皆を失望させてしまう。……誰にも言ってはいけないよ」

彼女の輝かしい未来を奪い、価値を否定することへの罪悪感。

相反するように芽生えたのは、自分の元から飛び立たんとするその翼を手折る背徳の甘み。

その両方が歪に混じり合って、エヴァンの精神を着実に蝕んでいく。

それでも、兄であろうとしていたのに。

決定打となったのは、父から聞かされたレイチェルの婚約話だった。

「……はい? いま、何とおっしゃいましたか?」

「レイチェルももう十五になっただろう? これまでは先延ばしにしてきたが、ウィンストン家の当主から打診があってな。……あそこの次男坊がレイチェルに恋をしているんだと。そこからはトントン拍子に話が進んでな。好いた相手であれば大事にしてくれるはずだ」

妹が他人の男の手に触れる。自分以外の男に、あの無垢で純粋すぎる信頼を向けられる。その光景を想像しただけで、エヴァンの脳は焼けきれそうになる。

理性を繋ぎとめていた最後の鎖が弾け飛ぶには十分すぎるほどの、激しい嫉妬。同時に湧きあがるのは、顔も良く覚えていないウィンストン家の息子への煮えくり返るような殺意。

そこでようやく、彼は認めた。

自分はレイチェルを——ひとりの女として、狂おしいほどに愛しているのだと。

アウレリアの次期当主としての務めを果たすため、形ばかりの妻アネッサを迎え入れたが、それは自らを戒める儀式に過ぎなかった。

初夜の晩だってそうだ。泥酔するまで酒を呷り、抱いているのがレイチェルであると自らを欺き続けなければ、他の女に触れるなどという現実に耐えられなかった。

……そして翌朝に残ったのは、責務は果たしたという虚しい達成感と、愛おしい妹とはかけ離れた女が隣にいるという、吐き気を催すような嫌悪感だけだった。

それでもこうしていれば、いつかはこの愛も薄れる。

レイチェルが嫁ぎ、物理的に距離ができればこの感情も忘れられる。

そう信じて自分を律し続けてきたというのに。

終止符は、突如として打たれることになった。

シンディという「アウレリア家の本物の娘」が貧民街で見つかったことで、レイチェルが実の妹ではないと判明したのだ。

女神の気まぐれによる入れ替わり。

その話を聞いたとき、エヴァンはその場で腹を抱えて笑い出しそうになった。

十八年の歳月を家族として過ごしてきた絆。倫理。道徳。抑えつけてきた自分の努力。それら全てが一瞬にして、水泡に帰したのだから。

「……なんということだ。レイチェルが、私の妹ではなかったなんて……」

ならばもう、遠慮する必要などどこにもないではないか。

そうして綿密に練ったはずの計画は、嫉妬に駆られた妻と金で寝返った下賤な輩のせいで虚しくも潰えることとなり――

エヴァンはレイチェルを得るどころか、すべてを失ったのだった。

*

乾いた笑いを漏らしながら、エヴァンは冷たい石壁に背中を預けた。

王都の水の品質低下問題。第五王子の暗殺騒動。それらの捜査の過程で、姿を消したレイチェルこそが強大な加護を持っていた可能性が高いと結論付けられたらしいが、今となってはどうでもよかった。

ただ歯痒くて仕方がなかったのは――レイチェルが貧民街の男と共に街道を渡る姿を見たという目撃談。そして、二人の旅人が訪れた農村では水質が良くなっているという噂。それにようやく辿り着いたというのに、収監された身では何もできずにいるもどかしさで、頭がどうにかなりそうだった。

「レイチェル……」

ひび割れた唇から掠れた声が零れ落ちる。呼びかけても、彼女はもうエヴァンに笑いかけてくれない。

王家を謀った罪は重く、両親の嘆願も虚しくそのうちひっそりと処刑されることだろう。

その前にもう一度だけでいい。

会いたい。この手で抱きしめたい。

そして、できることならば——

『……ほんと、拗らせた男って感じ。まぁいいわ。嫌いじゃないもの』

不意に、牢獄の闇の奥から鈴を転がすような声が響いた。

「なんだこの声は……? 私は、ついに頭がおかしくなってしまったのか」

『あんたの頭がおかしいのなんて昔っからでしょう? ……感謝しなさい。あんたにはもう一度だけ、やり直すチャンスをあげるから』

それが女神と呼ばれる存在のひとりだなんて、エヴァンはすぐには思い至らなかった。もっと厳かな存在だと無意識のうちに認知していたからだ。

戸惑うエヴァンのことなどお構いなしに、愉し気な声の持ち主は勝手に話を進めていく。

『願いを一つだけ聞いてあげる。さあ、あなたは何を願うの? レイチェルをここに連れてきてあげましょうか? それとも、ここから出してあげましょうか? 罪をなかったことにする? 一緒にいる男を縊り殺してあげてもいいけれど』

「本当に……願いを聞いてくれるのか?」

『もちろんよ。その感情を全部消してあげてもいいのよ? そうしたら、もう苦しむこともないでしょう?』

「それならば——」

きっと、焦がれすぎて気が振れたのだろう。だからこれは都合のよい夢に違いない。

そう思いながらも、エヴァンは確かに願いを口にした。

「戻れるのならば、あの女との結婚式の前日に」

一瞬の間の後に——

闇の奥から、心底愉しそうに笑う声が響いていた。

*

ハッと息を呑んで目を開けると、そこは天蓋のついた見慣れた自室のベッドだった。

窓の外には白み始めた夜明けの空が広がっている。卓上の暦は、アネッサとの結婚式を翌日に控えた日付を指していた。

エヴァンはぎこちない動きで自分の両手を見つめ、口元を歪めた。

——本当に、戻ってきた。

考えるよりも先に身体が動いていた。自室の金庫から金貨を鞄に詰めるだけ詰め込み、壁に掛けられていた護身用の剣を腰に帯びる。次期当主としての矜持も、家名も、明日迎え入れるはずだった女の顔も、すべて未練なく捨て去るために。

足音を殺して廊下を進み、レイチェルの部屋の前で立ち止まる。迷うことなく扉を開け、寝台で微睡む彼女の肩を強く揺すった。

最後に見たレイチェルよりも、まだあどけなさの残る顔立ち。

そんな少女に劣情を抱く自分を恥じることもあったが、今はただ、彼女に再び巡り合えたことが嬉しくて仕方がなかったが――

「……ん……兄、さま……?」

寝ぼけ眼を擦るレイチェルに、エヴァンは切羽詰まった表情を作って見つめ返した。

「静かに。時間がない、すぐに着替えて荷物をまとめるんだ」

「え……? どうしたのですか、こんな朝早くに……それに、明日は兄さまの結婚式では……」

「レイチェル、よく聞いてくれ。……アウレリア家の血を引く本物の娘が見つかったんだ」

本来であれば、本物の娘であるシンディが見つかるのはまだ先の話である。

だが、彼女はずっと自分の出自に疑念を抱いていたのかもしれない。エヴァンの言葉に彼女は大きく目を見開いて息を呑んだが、前回辿った人生同様に、どこか納得しているような節もあった。

そんないじらしい彼女の小さな両手を強く握りしめ、エヴァンはさらに言葉を重ねる。

「本来の両親の元にお前を返すという話が持ち上がっている。明日の挙式と共に、本物の娘の帰還を大々的に発表するそうだ」

「……お父さまたちが、それを望まれているのですね……」

「ああ。ウィンストン家との婚約話も白紙となったようだ。すまない、私の力ではどうしようもなかった……」

エヴァンは顔を歪め、痛ましく懺悔する兄を演じきった。

彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出し、真っ白なシーツを濡らしていく。レイチェルは、微塵もエヴァンを疑ってはいなかった。昔からそうだ。優秀な兄の言うことに間違いはないと信じ込んでいる。

だからこそ彼女はエヴァンの言葉をすんなりと受け入れ、ありもしない未来を想像してしまう。

家族に捨てられるという絶望。貧民街で暮らしていかねばならないという未知への恐怖。

それらが彼女の心を揺らした瞬間を、エヴァンは見逃さなかった。

「レイチェル。聞いてくれ。私はお前を貧民街などに送りたくはないのだ」

「でも……私は、アウレリアの娘ではないのですよね? 兄さまの妹でも……」

「そうだ。お前は私の妹ではなかった。だが、それが何だと言うのだ。お前が大事な存在であることには何ら変わりない」

「兄さま……っ」

震える声で縋り付いてきた小さな身体を、エヴァンは力強く抱きしめる。

絶望に沈む中で、彼女が縋り付く唯一の浮き木となるのは自分だけであることを刻みつけるように。

「ああ、レイチェル。可哀そうなレイチェル。父と母はお前を手放して、きっと本物の娘とやらにこれまでの愛情を注ぐに違いない。……だが、案ずるな。私が守る。家も地位もすべて捨てて、お前と共に逃げよう」

「そんな……! それでは、兄さままで……」

「いいんだ。私にはお前さえいれば、それでいい」

前世では決して口にできなかった言葉。——なんて甘美な響きだろう。

将来の不安に怯え、自らの腕の中に収まる彼女の温もりを感じながら、エヴァンは暗い歓喜に打ち震えていた。

レイチェルの見開かれた瞳には自分だけが映り、自分以外のすべてに絶望している。

——もう、誰にも渡しはしない。

「見つかると面倒だ。さあ、急ごう。日が昇る前にここを出る」

エヴァンは涙に濡れたレイチェルの頬をそっと指先で拭い、彼女の手を引いて、まだ暗い屋敷を後にした。

*

王都から遠く離れた、国境近くの小さな街。

その外れにある質素な家の寝室は、窓という窓が分厚いカーテンで閉ざされている。

微かに漂う花の香りと、規則的な寝息だけが満ちるその部屋の寝台で。エヴァンは飽きもせずに指をゆっくりと動かしていた。

指先に絡みつくのは、金色になり損ねたくすんだ髪。朝日が昇っても日の差し込まない部屋の中で彼女の髪はさらに昏く沈み、自分だけの色に染め上げられたようにも見える。

隙間から覗く白い項には、仄かに滲む赤。その印を愛おしむように、エヴァンは腕の中で眠る少女を抱き寄せた。

女神か、あるいは悪魔は、エヴァンの願いを確かに叶えてくれた。自分に再びやり直す機会を与えてくれたのだ。

ならばもう二度と、正しくあろうなどとは思わない。家名も、当主としての責務も、そして自分の腕を汚す妻という名の不純物も。すべてを取り除いて、ただ一人の少女をこの世界から奪い去ってみせた。

レイチェルは今でも両親に見捨てられたと信じている。『誰かに見つかれば連れ戻されるかもしれない』と何度となく言い含められた彼女は、エヴァンが用意したこの家から一歩も外へ出ようとはしない。

昏く、静謐で、外界の穢れの一切を遮断したこの部屋こそが彼女にとって唯一の安全な聖域であり、エヴァンという存在だけが、彼女の拠り所となった。

それでも時折、レイチェルは大きな瞳を不安に震わせる。そのたびに彼女を抱きしめて何度となく耳元で囁いた。

「大丈夫だ。私の生涯をかけて、お前を守り通してみせるから」

「でも兄さまはアウレリア家の当主になる人なのに……私のせいで……」

「そんなことは気にしなくていい。いずれ、戻れる日も来るはずだ」

もちろんそんな日が来ることはないが——それでも不安がる彼女を慰めるように寝台を共にし、もう帰れないのかと嘆く彼女の哀しみを和らげるために、毎夜抱きしめた。

かつて暮らしていた王都では、アウレリアの家に本物の娘が戻り、水が濁り、宮中には本物の王子なるものまで凱旋したという。

だが、その噂を運んでくる行商人もいつからかぱったりと姿を見せなくなった。

窓の外に広がる景色がどうなっているかも分からない。

鳥の囀りも、風が木々を揺らす音すらも聞こえない。

そもそも自分はいつから食事を摂っていなかっただろうか。眠気を感じたのは、いつが最後だったか。

本来ならば強大に育つはずだった彼女の加護の力さえも、行き場をなくしたかのように急速にその力を失っているようだった。

……まぁ、今となってはそんなことはどうでもいい。

この腕の中に確かな熱を孕んだレイチェルが存在する。それだけで十分なのだから。

エヴァンは小さく寝息を立てる彼女の柔らかな頬を、指の腹でなぞる。

今日は何をして過ごそうか。

目を覚ましたら、彼女の髪を洗ってやってもいいかもしれない。

「……愛しているよ、レイチェル」

甘く囁いたその声は、閉ざされた部屋の闇の中へ静かに溶けていく。

白い首筋にもう一度唇を寄せて、エヴァンも静かに目を閉じた。