病弱な幼馴染のために王宮薬草園を明け渡せと言われました。では、王都の解熱薬は来月から届きません
作者: Sophia Rose
本文
王宮薬草園の朝は、いつも湿った土の匂いから始まる。
夜明け前に汲み上げた井戸水が畝の間を細く流れ、銀葉草の産毛に露が光る。咳止めに使う月見薄荷は、まだ薄紫の花を閉じていた。止血薬になる紅糸草は日差しを嫌うため、麻布の覆いの下で静かに茎を伸ばしている。
マリアベル・レインフォードは裾を汚さぬよう、けれど花壇を飾る令嬢のような歩き方ではなく、土の硬さを確かめる管理者の足取りで薬草園を歩いていた。
公爵令嬢であり、王太子エドワードの婚約者である彼女が、王宮薬草園の管理を任されて三年になる。
最初は、ただの名誉職だと思われていた。
王太子妃になる令嬢に、王宮の一角を任せる。花を眺め、庭師に指示を出し、季節ごとの茶会にふさわしい香草を選ぶ。貴族たちはそう考えていたらしい。
けれどマリアベルが受け取ったのは、花束ではなく台帳だった。
王都東区の診療所へ解熱用の銀葉草を何束。
西区の孤児院へ咳止め用の月見薄荷を何束。
産院へ止血用の紅糸草と、痛みを和らげる白根花を何束。
騎士団救護所へ傷薬用の緑膏葉を何籠。
土を整え、収穫時期を読み、乾燥庫へ回し、薬師たちに渡す。
派手な仕事ではない。舞踏会の中心で称えられることもない。
それでも、王都の誰かが熱を下げ、咳を鎮め、傷口から血を流しすぎずに済むなら、それでよかった。
「マリアベル様、東区診療所分の銀葉草、今日の昼までに乾燥庫へ運びます」
庭師頭のロアンが、麻袋を抱えた若い庭師たちを振り返りながら言った。
「お願いします。昨日の雨で水分が多いはずですから、風通しをよくして。蒸れると効き目が落ちます」
「承知しました」
薬師見習いの少女が、小さな板に収穫量を書きつけている。マリアベルはその数字を確認し、胸の内で来月の割り当てを組み直した。
夏風邪が増えている。孤児院からは咳止めの追加依頼が来るかもしれない。騎士団は辺境訓練から戻ったばかりで傷薬の消費が多い。産院の紅糸草だけは、絶対に切らしてはならない。
そんなことを考えていたときだった。
「マリアベル」
背後から呼ばれた声に、庭師たちが一斉に手を止めた。
振り向くと、王太子エドワードが白い上着をまとって立っていた。金の髪は朝日を受けて輝き、整った顔には、いつものように自分の決定が当然受け入れられると信じる若さがあった。
その傍らに、淡い水色のドレスを着た少女が寄り添っている。
アイリス・リーデル。
王太子の幼馴染で、幼い頃から身体が弱いと噂される伯爵令嬢だった。白い肌に細い肩。少し歩いただけで疲れてしまったのか、彼女はエドワードの腕にそっと手を添えている。
「殿下。薬草園へお越しとは珍しいですね」
マリアベルは手袋を外し、膝を折った。
エドワードは薬草の畝を一瞥し、眉をひそめた。
「相変わらず、土臭い場所だな」
庭師たちの表情がわずかに強ばった。
マリアベルは静かに答える。
「薬草を育てる場所ですから」
「ああ、そのことだ」
エドワードは、まるで長椅子の布地を替える話でもするように言った。
「この薬草園を、アイリスの療養庭園に作り替えることにした」
風が止まった気がした。
月見薄荷の葉が、朝露を乗せたまま揺れずにいる。
「……療養庭園、でございますか」
「そうだ。医師から、アイリスには静かな場所と清らかな空気が必要だと言われている。王宮の庭は人の出入りが多い。ここなら奥まっていて日当たりもいい。薬草などを抜き、芝を敷き、香りのよい花木を植える。小さな東屋も作らせるつもりだ」
アイリスが困ったように微笑んだ。
「わたくし、そんな大げさなことはと申し上げたのですけれど……エドワード様が、ここなら人目も少なくて休めるだろうと」
「君の身体が一番大事だ」
エドワードは優しく言い、そしてマリアベルに向き直った。
「そういうわけだ。今月中に片づけてくれ」
マリアベルは、すぐには返事をしなかった。
怒りがないわけではない。驚きがないわけでもない。
けれど彼女は、この薬草園で何度も学んできた。刈り取るべき時期を誤れば、薬草はただの草になる。水をやりすぎても根が腐る。感情も同じだ。あふれさせる場所を間違えれば、守るべきものまで傷つける。
「殿下。恐れながら、この薬草園は観賞用の庭ではございません」
「見れば分かる」
「王都の診療所、孤児院、産院、騎士団救護所へ、定期的に薬草を供給しております。特に銀葉草、紅糸草、緑膏葉は代替が難しく、来月分の割り当てもすでに組んであります」
「だから何だ」
エドワードは片手を振った。
「薬草など、また植えればいい。アイリスには今、静かな場所が必要なんだ」
マリアベルは彼の目を見た。
「薬草は植えた翌日に薬にはなりません。銀葉草は収穫まで三月、紅糸草は根付くまでさらにかかります。乾燥や調合の工程もございます。今ここを潰せば、王都の解熱薬、止血薬、傷薬、咳止めの供給に穴が開きます」
「大げさだな」
エドワードの声に、わずかな苛立ちが混じる。
「王都には薬師がいる。市場にも薬草は売っているだろう。足りないなら買えばいい」
「市場の薬草は品質が揃いません。王宮薬草園のものは、薬師たちが効き目を確認したうえで使っています。急に同量を確保するのは難しいかと」
「君はいつもそうだ」
エドワードは深く息をついた。
「できない理由ばかり並べる。少しはアイリスのことを思いやれないのか」
マリアベルの背後で、若い薬師見習いが唇を噛んだ。
マリアベルは、彼女に目で合図して下がらせる。
「アイリス様のお身体を案じていないわけではありません。ですが、王都には熱を出した子どもも、出産を控えた母親も、訓練で傷を負った騎士もおります。この薬草園は、その方々のためにもあります」
「その程度のことは、誰かがどうにかする」
「その誰かが、ここにいる薬師や庭師です」
「では、彼らに別の場所で育てさせればいい」
「土から整え直す必要があります。水脈も日当たりも違います。少なくとも数月は――」
「マリアベル」
エドワードの声が冷えた。
「これは相談ではない。王太子としての決定だ」
その言葉に、庭師たちが顔を伏せた。
アイリスが小さく肩を震わせる。
「エドワード様、わたくし、そこまでしていただかなくても……」
「君は黙っていていい。君はいつも我慢してきたんだ。今度くらい、君のための場所があっていい」
甘い言葉だった。
けれどマリアベルには、それが誰かを守る言葉ではなく、誰かを理由に他のものを踏む言葉に聞こえた。
「承知いたしました」
マリアベルは深く礼をした。
エドワードの表情が満足げに緩む。
「分かればいい。さすがに君も王太子妃となる身だ。物分かりが――」
「では本日をもって、わたくしは王宮薬草園の管理を辞します」
エドワードの言葉が止まった。
「……何?」
「殿下のご決定により、この場所は薬草園ではなく療養庭園となるとのこと。薬草園としての管理責任は、ここで終わります」
「勝手なことを言うな」
「勝手ではございません。薬草園の運用は、管理者が栽培計画、収穫計画、供給計画を一体で担うことで成り立っております。薬草の畝を撤去し、用途を変えるのであれば、わたくしの職務は成立いたしません」
マリアベルは庭師頭のロアンへ視線を向けた。
「ロアン。乾燥庫の在庫を確認してください。すぐに運び出せるものは、今日中に各施設へ前倒しで届けます。根を傷つけず移せる株は、鉢上げして退避させましょう。職人たちの雇用先については、レインフォード公爵家の温室を一時拠点にします」
「はい、マリアベル様」
ロアンの返事は震えていたが、迷いはなかった。
「待て。職人を連れて行くとはどういうことだ」
「彼らは薬草園の維持に必要な専門職です。薬草園でなくなる場所に残せば、仕事を失います。わたくしの責任で、次の仕事場を用意いたします」
「君は私に逆らうつもりか」
「いいえ。殿下の決定に従い、この場所を明け渡します」
マリアベルは、あくまで静かに言った。
「ただし、わたくしは薬草園の管理者として、薬草と職人を守る責任があります。療養庭園の飾りとして、彼らを残すことはできません」
エドワードは言葉を失ったように、彼女を見つめた。
アイリスだけが、不安げに薬草の畝を見ている。
「本当に……ここがなくなると、困る方がいらっしゃるのですか?」
マリアベルはアイリスへ向き直った。
「はい。けれど本日収穫できる分を前倒しで届ければ、急な混乱は少し抑えられます。代替の仕入れ先も薬師組合へ知らせます」
「そんな……わたくし、知らなくて」
「存じ上げなかったのであれば、アイリス様の責ではございません」
その言葉に、アイリスの顔がさらに青ざめた。
エドワードが苛立ったように二人の間へ割って入る。
「もういい。好きにしろ。ただし、あとで泣きついてきても知らないからな」
「泣きつくことはございません」
マリアベルは最後にもう一度、薬草園を見渡した。
朝露に濡れた葉。土の匂い。職人たちの手。
この場所を、彼女は愛していた。
けれど愛しているからこそ、踏みにじられる場所に置き去りにはできない。
「皆さん、始めましょう。今日中に、命へ届くものを届けます」
その日、王宮薬草園から花嫁修業めいた優雅さは消えた。
庭師たちは無言で畝に入り、収穫できる薬草を選り分けた。薬師たちは乾燥庫の棚を開き、札を確認し、効き目の落ちていないものから袋詰めした。
マリアベルは泥のついた手袋のまま、配達順を書き直した。
産院へ紅糸草。
騎士団救護所へ緑膏葉。
東区診療所へ銀葉草。
孤児院へ月見薄荷。
いつもなら一月かけて出す分の一部を、数日に分けて先に渡す。足りなくなる時期と量も、すべて添えた。
王宮の侍従たちは遠巻きに見ていた。王太子に逆らった公爵令嬢が癇癪を起こしているのだと囁く者もいた。
マリアベルは振り返らなかった。
夕方、最後の荷車が王宮の裏門を出た。
王宮薬草園には、土を掘り返した跡と、移し替えられなかった若い芽だけが残った。そこへ、療養庭園を造るための職人がやってくるのだろう。芝を敷き、白い椅子を置き、香りの強い花を植えるのだろう。
マリアベルは門の外で一度だけ足を止めた。
「マリアベル様」
ロアンが低い声で呼ぶ。
「よろしいのですか」
「よろしいのではありません」
マリアベルは答えた。
「けれど、ここに残れば、薬草園が壊された責任まであなた方に押しつけられます。それだけは避けます」
「私どもは、どこまでもお供します」
「ありがとう。ですが、わたくしについてくるのではなく、あなた方の腕が必要とされる場所へ行きましょう」
その夜、レインフォード公爵家の古い温室に灯りがともった。
長く使われていなかった温室は埃をかぶっていたが、井戸は生きており、日当たりも悪くない。庭師たちは割れた鉢を片づけ、薬師たちは運び込んだ株を並べ、マリアベルは机の上に王都の地図を広げた。
完全な代替にはならない。
それでも、止めてはならない。
彼女は薬師組合へ使者を出し、近郊の修道院薬草畑にも協力を求めた。公爵家の名を使うことに躊躇いはなかった。これは自分の誇りのためではなく、王都の薬のためだ。
そして一週間が過ぎた。
王宮の表門に、白衣をまとった医師たちが集まったのは、よく晴れた午前だった。
「王太子殿下への面会を求めます」
医師団長セドリック・ヴァレンは、門番にそう告げた。
灰色の髪を後ろで束ねた、まだ三十を少し過ぎたばかりの男である。穏やかな面差しだが、診察室で泣く子どもも戦場帰りの騎士も黙らせるだけの落ち着きがあった。
彼の背後には、東区診療所の老医師、西区孤児院の薬師、産院の助産師長、騎士団救護所の治療係が並んでいる。
彼らの手には、空になりかけた薬箱があった。
王宮内では、ちょうど新しい療養庭園の東屋に白い布が掛けられているところだった。芝は青く、香りの強い花木が植えられている。アイリスのための長椅子も用意され、エドワードは満足げに庭を眺めていた。
そこへ侍従が駆け込んでくる。
「殿下、医師団長がお見えです。至急お話があると」
「医師団長が? アイリスの診察か」
「いえ、それが……王宮薬草園についてだと」
エドワードの眉が動いた。
広間に通された医師たちは、誰一人として笑っていなかった。
セドリックが一礼する。
「王太子殿下。王宮薬草園の供給停止について、説明を求めます」
「供給停止?」
エドワードは不快そうに聞き返した。
「薬草園は療養庭園に作り替えた。必要な薬草なら市場で買えばいいだろう」
その瞬間、老医師が堪えきれずに声を上げた。
「市場で買える量ではございません!」
セドリックが片手で彼を制し、静かに続ける。
「殿下。王宮薬草園は、王都の医療供給の要でした。マリアベル様が前倒しで届けてくださったため、直ちに患者が薬を失う事態は避けられました。しかし来月からの解熱薬、止血薬、傷薬、咳止めは、大幅に不足します」
「そんなはずはない。たかが庭一つだ」
「たかが庭一つではございません」
セドリックの声が、広間の空気を切った。
「王都の子どもの熱を下げていた銀葉草。産後の出血を抑える紅糸草。騎士の傷を塞ぐ緑膏葉。孤児院の咳止めに使う月見薄荷。それらを計画的に育て、収穫し、乾燥し、必要な場所へ届けていたのが、あの薬草園です」
助産師長が箱を開けた。
中には、わずかな紅糸草しか残っていない。
「殿下。産院では、来月二十人以上のお産を控えております。代替薬は確保中ですが、効き目も量も安定しません。マリアベル様の前倒し分がなければ、今週から危ういところでした」
騎士団救護所の治療係が続ける。
「訓練中の裂傷、骨折に伴う腫れ、遠征帰りの感染。傷薬は飾りではありません」
孤児院の薬師は、疲れた顔で頭を下げた。
「子どもたちの咳は、夜に悪くなります。月見薄荷の煎じ薬があるだけで、眠れる子がいるのです」
エドワードは、まるで知らない国の言葉を聞いているように立ち尽くした。
「なぜ……そんな重要なことを、私は聞いていない」
「マリアベル様が、何度もご説明なさったはずです」
セドリックは淡々と言った。
エドワードの顔が赤くなり、そして白くなる。
「彼女は大げさに言っていただけだ」
「では、その大げさな準備のおかげで、今のところ大事には至っておりません」
広間の扉の陰で、アイリスが震えていた。
彼女は療養庭園の完成を楽しみにしていた。静かな場所で休めると聞き、少しだけ嬉しかった。王太子が自分を気にかけてくれることに甘えていた。
けれど、その椅子の下に誰かの薬が埋められていたなど、知らなかった。
「エドワード様……」
か細い声に、エドワードが振り向く。
「わたくしのために、子どもたちのお薬がなくなるのですか」
「アイリス、違う。これは大げさに――」
「違わないでしょう」
アイリスは初めて、彼の腕から手を離した。
「わたくしは、静かな場所が欲しいとは言いました。でも、誰かの熱冷ましを取り上げてほしいとは言っておりません」
その言葉に、エドワードは目を見開いた。
アイリスは泣きそうな顔でセドリックへ向き直る。
「医師団長様。わたくしにできることはありますか。あの庭園を戻せば、間に合いますか」
セドリックは少しだけ表情を和らげた。
「一度掘り返した畑は、すぐには戻りません。ですが、マリアベル様が株と職人を保護され、レインフォード公爵家の温室で仮の栽培を始めておられます。今はそちらへの支援が最も有効です」
「マリアベルが?」
エドワードが呆然と呟く。
そのとき、広間の奥の扉が開いた。
入ってきたのは王妃だった。
銀糸の混じる髪を結い上げ、深い青のドレスをまとった彼女は、広間にいる全員を見渡した。穏やかな美しさの中に、王宮を長く支えてきた者の厳しさがある。
「話は聞きました」
「母上、これは――」
「エドワード」
王妃の声は静かだった。
「あなたは王太子として、王宮の一施設の用途を変える重みを理解していませんでしたね」
「私は、アイリスの身体を思って」
「誰か一人を思うことと、他の誰かを見ないことは違います」
エドワードは唇を噛んだ。
王妃は医師たちに向き直る。
「医師団長。現状の不足見込みを明日までにまとめてください。王宮から近郊の薬草畑へ支援金を出します。足りない分は隣領から買い上げます」
「承知しました」
「そして、レインフォード公爵家へ使者を。マリアベル嬢に、王都医療院付属薬草研究院の設立と、その総管理者の就任を打診します」
広間がざわめいた。
エドワードが思わず声を上げる。
「母上、マリアベルは私の婚約者です。勝手にそのような役職を――」
「婚約についても見直します」
王妃は短く告げた。
「王太子妃となる者を、あなたは補佐役ではなく都合のよい我慢役として扱いました。彼女が説明しても聞かず、専門職を軽んじ、王都の医療供給を危うくした。その事実は消えません」
「私は……そこまで悪いことをしたつもりは」
「悪意がなければ許される立場ではありません」
その一言で、エドワードは黙り込んだ。
アイリスが涙をこぼしながら頭を下げる。
「王妃様。わたくしも、知らなかったとはいえ甘えておりました。療養庭園は不要です。どうか、薬草のためにお使いください」
王妃は彼女をしばらく見つめたあと、少しだけ頷いた。
「あなたの療養先は別に用意します。けれど、今後は自分の望みが誰の負担で叶うのか、考えなさい」
「はい……」
その日の午後、王宮からレインフォード公爵家へ正式な使者が向かった。
マリアベルは温室で、ちょうど紅糸草の苗を植え替えているところだった。
古い温室はまだ整っているとは言いがたい。床には土が散り、窓枠にはひびがあり、雨の日には桶を置かねばならない場所もある。
それでも、そこには薬草の匂いが戻りつつあった。
「マリアベル様、王宮から使者です」
父であるレインフォード公爵が、扉の外から声をかけた。
マリアベルは手を洗い、作業着の上に薄い上着を羽織って応接室へ向かった。
そこにいたのは、王妃の侍女と、医師団長セドリックだった。
セドリックは立ち上がり、深く礼をした。
「マリアベル様。まずは、王都の医療を守ってくださったことに感謝を」
「感謝されるほどのことはしておりません。急場をしのいだだけです」
「その急場をしのぐことが、どれほど難しいかを我々は知っています」
彼の声には、飾りのない敬意があった。
王妃の侍女が書状を差し出す。
「王妃陛下より、マリアベル様へ。王都医療院付属薬草研究院の設立にあたり、総管理者としてお力添えいただきたいとのお言葉です」
マリアベルは書状を受け取り、目を通した。
王宮の一角ではなく、医療院に隣接する土地に新しい薬草園を造る。診療所、孤児院、産院、騎士団救護所への供給を一元管理する。薬師と庭師の雇用を保障し、研究と栽培を結びつける。
それは、彼女がいつか必要だと思っていた形だった。
「……婚約については」
マリアベルが静かに尋ねると、侍女は目を伏せた。
「王妃陛下は、マリアベル様のお心を最も尊重すると。殿下には当面、公務の一部停止と再教育が命じられます」
父が厳しい顔で頷いた。
「我が家としても、娘を軽んじられたまま婚約を続けるつもりはない」
マリアベルはしばらく沈黙した。
エドワードと過ごした年月が、まったく無意味だったとは思わない。彼には明るさも、優しさもあった。けれどその優しさは、見たい相手にだけ向けられるものだった。
見えない誰かを想像する力がなければ、王の隣には立てない。
そしてマリアベルはもう、誰かに説明を聞き流されながら、それでも分かってもらえる日を待つつもりはなかった。
「婚約は、解消を望みます」
口にしてみると、胸の奥にあった重石が静かに落ちた。
「わたくしは、王太子妃としてではなく、薬草を育て、薬を必要とする方々へ届ける者として働きたいのです」
セドリックがまっすぐに彼女を見た。
「それは、王都にとって大きな幸いです」
マリアベルは微笑んだ。
「まだ幸いと言えるほどのものではありません。温室も畑も足りませんし、土壌の調査も必要です。薬師組合との連携も作り直さなければ」
「でしたら、医師団も協力します。どの薬が、どの季節に、どれだけ必要か。我々が現場の数字を出します」
「数字を出していただけるなら、栽培計画の精度が上がります」
「あなたは本当に、薬草の話をしているときが一番生き生きしておられる」
セドリックの言葉に、マリアベルは少しだけ頬を染めた。
「土まみれの令嬢は、おかしいでしょうか」
「いいえ」
彼はすぐに首を振った。
「とても頼もしいと思います」
その答えがあまりに自然で、マリアベルは言葉を失った。
褒められることはあった。美しい、礼儀正しい、王太子妃にふさわしい。けれど、土に触れる自分を頼もしいと言われたのは初めてだった。
数日後、王都医療院の裏手にある空き地で、最初の鍬が入れられた。
医師たちは必要な薬草の一覧を持ち寄り、薬師たちは乾燥庫の配置を話し合い、庭師たちは水はけを確かめた。孤児院からは年長の子どもたちが手伝いに来て、騎士団からは土運びの人手が出た。
産院の助産師長は、紅糸草の畝に手を合わせるようにして言った。
「この畑があるだけで、どれほど心強いか」
マリアベルは首を横に振る。
「畑だけでは薬になりません。育てる人、調合する人、届ける人、使う人。すべてがつながって、ようやく命に届きます」
「では、あなたはそのつながりを守る人ですね」
隣に立っていたセドリックが言った。
マリアベルは、新しい畑を見渡した。
まだ土だけの場所が多い。苗は小さく、風が吹けば頼りなく揺れる。王宮薬草園のように整うまでには時間がかかるだろう。
それでもここには、彼女の言葉を聞く人たちがいる。
薬草をただの草だと笑わず、庭師を飾りの手入れ係だと見下さず、薬師の台帳を面倒な紙束だと捨てない人たちがいる。
王宮ではその頃、療養庭園の一部が掘り返されていた。
美しい芝は短い命を終え、香りの強い花木は別の庭へ移された。王太子エドワードは、王妃の命で医療院の見学に何度も通わされているという。
一度だけ、彼はマリアベルに面会を求めた。
新しい薬草園の入口で、彼は以前より少しやつれた顔で立っていた。
「マリアベル。私は……君の仕事を、何も見ていなかった」
「はい」
マリアベルは否定しなかった。
「謝れば済むことではないと分かっている。だが、謝らせてほしい。すまなかった」
「謝罪は受け取ります」
彼の顔に、一瞬だけ希望が灯る。
けれどマリアベルは穏やかに続けた。
「ですが、わたくしはもう、殿下の隣へ戻るつもりはございません」
「……そうか」
「殿下には、どうか学んでいただきたいのです。目に見えない仕事が国を支えていることを。静かな場所を誰かに与えるとき、その静けさが誰から奪われるものなのかを」
エドワードは深く頭を下げた。
王太子が人前で頭を下げる姿に、周囲の者たちは息を呑んだ。
マリアベルはそれ以上、彼を責めなかった。
責めることよりも、畑に戻ることのほうが大切だったからだ。
季節がひとつ巡る頃、新しい薬草研究院には緑が満ちていた。
銀葉草の畝は風を受けて波のように揺れ、月見薄荷は夕方になると淡い香りを放った。紅糸草は慎重に日除けをかけられ、緑膏葉は厚い葉を広げている。
王都の診療所には、以前より分かりやすい配給表が届くようになった。孤児院には咳止め用の煎じ薬が切れずに置かれ、産院には止血薬の予備が確保された。騎士団救護所では、傷薬の容器に研究院の印が押されるようになった。
誰かが大声で称えるわけではない。
それでも、熱の下がった子どもが眠り、産声を聞いた母親が涙を流し、傷を負った騎士がまた立ち上がる。そのたびに、薬草園の意味は静かに証明された。
ある夕暮れ、マリアベルは乾燥庫の前で台帳を閉じた。
「今日はここまでになさっては」
振り向くと、セドリックが籠を抱えて立っていた。中には医療院から届いた焼き菓子と、温かい茶の入った小瓶がある。
「医師団長自ら差し入れですか」
「総管理者殿が休むのを忘れるので、医師として見過ごせません」
「わたくしは患者ではありません」
「では、友人として」
彼は少し間を置き、照れたように続けた。
「……いずれ、友人以上として心配できる立場を望んでもよろしいでしょうか」
マリアベルは瞬きをした。
夕日の赤が、銀葉草の上に柔らかく落ちている。遠くで庭師たちの笑い声が聞こえた。薬師見習いの少女が、乾燥棚の札を直している。
ここは、誰かの気まぐれで奪われる庭ではない。
ここは、彼女が自分の足で立ち、守り、育てる場所だ。
その場所で向けられた言葉は、甘い約束よりもずっと温かかった。
「まずは、お茶をいただいてから考えます」
マリアベルがそう答えると、セドリックはほっとしたように笑った。
「では、よい茶葉を選んだ甲斐がありました」
二人は畑の端にある小さな木椅子に腰を下ろした。
かつて王宮薬草園で土を踏んでいたとき、マリアベルは自分の仕事が誰かに見えなくても構わないと思っていた。けれど今は、見てくれる人がいることの心強さも知っている。
誰かの幼馴染のために退けられる令嬢ではなく。
誰かの我慢役として微笑む婚約者でもなく。
薬草を育て、薬を届け、命を守る一人の管理者として。
マリアベルは、暮れていく空の下で静かに息を吸った。
土と葉と、温かな茶の香りがした。
新しい居場所の匂いだった。