軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

……許しません、決して。(中編)

その日、貸し馬車屋の店主は張り切っていた。

「とびっきりの白馬と白金の車を卸すぞ!」

それもそのはず。男爵家は下級貴族とはいえ、このシャデラン領の主だ。長女の嫁入りとあらば、またとない大口の仕事になるに違いない。

だがしかし、店を訪ねてきた男爵は、料金を聞くなりこう言った。

「――馬鹿馬鹿しい。婚約する前の見合い用ドレスならともかく、交通費にそんな金を出してどうするのだ。一番安い車と御者でいい」

その声で、馬糞を片付けていたヤーコブは頭を上げた。安い仕事なら、ヤーコブの出番である。しかし店主は慌てて断った。

「それではろくに身体も伸ばせない、小さな荷馬車になります。酷く揺れるし、ご令嬢には酷ってもんです」

「構わん。宿代も、夜は荷台で寝れば浮くだろう」

「そ、それは無理です。御者だって、四日も地面の上じゃ身体を壊しちまう」

「アナスタジアと一緒に、荷台で寝ればいい」

「……男爵様、うちのはみんな男ですよ?」

いつもは銭儲けにうるさい店主も、眉をひそめて呻いた。そういえばこの間、店主の娘に彼氏が出来たらしいと嘆いていたのを思い出す。そうでなくても常識的な反応だろう。

まして男爵令嬢、ましてや嫁入りのその日に。

しかし、シャデラン男爵は鼻を鳴らす。

「構わん。狭くて眠れんというなら、アナスタジアを地面で寝かせろ。体調を崩すと困るのは、 荷(・) 物(・) よりも御者のほうだ。――事故だけはないように、な」

当日……結局店主の計らいで、ワンランク上の幌馬車が用意された。御者はやはりヤーコブ。

「ヤーコブ、おまえ二度と客に手を出すなよ。まして相手は領主の娘だ。今度はクビじゃ済まないからな」

いやみったらしく釘をさしてくる店主。だったらおまえが御者台に座ればいいのに、と、ヤーコブは聞き流した。

アナスタジア嬢は、薄汚い車と外国人の御者を見て、さすがに少し驚いていた。だが文句ひとつ言わず黙って乗った。

ヤーコブは、不思議に思った。

シャデラン家の次女が、「ずたぼろ娘」なのは有名だ。

一方、姉のアナスタジアは見目麗しく、誰からも愛されているという話だった。しかし、とても信じられない。アナスタジアは確かに見目こそ美しいが、両親から愛されているとは思えなかった。

酷く揺れる馬車の、堅い木の床に座り込んだアナスタジア。人形のように無表情で、微動だにしない。拗ねたようですらない。ヤーコブは試しに、ぞんざいな口調で話しかけてみた。

「よお、喉が渇いてないか? 水飲むかい」

普通の貴族ならこれで激怒する。だが令嬢は、一瞬眉をひそめただけだった。

「……お気遣い、ありがとう存じます。わたくしは足りております」

そう、はかなげに微笑みすらしていた。

ヤーコブは更にいくつか、彼女に無礼な言動を試みた。親愛のためといって名を呼び捨てにし、彼女の容姿――おもに体つきについて――率直に評価を伝え、揶揄をした。

さらに不躾に、質問を重ねた。ほとんどの問いに彼女は答えなかったが、怒り出すことはなかった。処女かという問いも、黙って目を伏せるだけだった。

ヤーコブの疑問は晴れた。

――さてはこいつ、親の言いなりになるしか生きていけない、見た目通りの人形だな?――。

貴族の娘は、親の決めた結婚には逆らえない。政略結婚が当たり前、まして下級の女からの破棄は不可能。莫大な違約金が必要で、場合によっては家のお取り潰しすらありえる。

男爵家が困窮しているのは明らかだ。そして相手の男は上級貴族で、大富豪。

――この娘は、売られたのだ。そしてそれを、娘自身が理解している。

何があっても、逃げるわけにはいかないと――。

その夜――アナスタジアが水で身体を洗っている時、ヤーコブは、幌の天幕を大きく開いた。

「おっとごめんよ。荷物を取りに来ただけなんだ」

アナスタジアは、悲鳴を上げなかった。

次の夜、荷台を御者に譲り、男爵令嬢は野宿をしていた。ヤーコブは荷台を抜けだして、アナスタジアの身体をまさぐった。アナスタジアは動かなかった。熟睡していたのではない。身体を丸めて堅くして、ガチガチと鳴る奥歯を噛みしめ、固い地面に寝転がったまま、何も気付いていないふりをしていた。

ヤーコブは、とても愉快だった。

そして次の夜。ヤーコブは、王都のほど近くまで辿り着きながらも、手前の河原で野宿をすることを提案した。昼間の雨で増水した河は、ごうごうと大きな音を立てている。女の悲鳴など掻き消されてしまうほど。

アナスタジアは、初めて男に逆らった。

「なぜ馬車を停めるの? このまま王都に入ってしまえばいいじゃない。もうほんの目と鼻の先、王都の灯りが、そこに見えているのに!」

ああこの娘は、それを拠り所にしていやがったのか――そのけなげさを、ヤーコブは嗤った。

お人形じみた可愛い顔が、恐怖と怒りに歪んでいる。ヤーコブは心の底から愉快に思った。

狭い幌馬車の荷台、壁に背中を貼り付けるアナスタジア。それでも目にはまだ希望が宿っている。アナスタジアは言った。

「わたくしは伯爵の婚約者です。わたくしに手を出したら、どうなるとお思いですの」

ヤーコブは答えた。

「さあ、知らねえよ。婚約者が外国人に穢されたなんて、伯爵様が知ったらどうなるのかなんて」

その言葉で……アナスタジアの目から光が消える。ヤーコブは笑った。そして、

――ヤーコブは、悲鳴を上げた。

「痛ぇっ! なっ、なんだこの女! 今、オレの指を捻りやがったぞ!」

「ミオ、やめろと言っただろう。話はまだ途中だ」

キュロス様に 窘(たしな) められて、ミオは黙って頭を下げた。

男もさすがに、不穏な空気に気付いたらしい。調子よく喋っていたのが、途端にトーンダウンする。

「話はこれで終わりだぜ。オレはその先、何もしていない。いや初めから何をするつもりでもなかった」

「……シャデラン領で聞いたのは、もう少し続きがありましたが?」

「いやそれは、ただ……からかっただけで――ひぃぎぃやぁっ!」

「ミオ!」

男の悲鳴と、キュロス様の叱責が重なる。ミオは両手を挙げた。

「トマス、すみませんが代わっていただけますか? 無意識に二、三本、引きちぎってしまいそうです」

「はい。ミオ様は少し離れていてください」

トマスが男の背後に立つ。その表情が、一瞬目に入ったからだろう。男は青ざめた。

トマスが尋ねる。

「おいおまえ、あの『人形』に使われていた髪や服を、どうやって手に入れたか、ちゃんと言え」

「……ふ……服は……オレが、脱がした」

「髪は?」

「それは……それは本当にオレじゃない! あの娘が、自分で切ったんだ!」

男は、なぜかそれを自慢げに、自己弁護のように大声で語った。

「ひどい女だ。髪を掴んでいたオレの手を、髪ごとハサミで切りつけたんだ。布を裁つようなでかいハサミで、指が半分取れかけた! ほら傷がまだ残っている、ほら見ろよ酷いだろう!」

「ああ、確かに結構な傷だ。その怪我で、落ちた髪やドレスを回収するのは骨が折れただろう。それでも、男爵夫人に高値で買い取ってもらえて良かったじゃないか」

「ち、違う、あれは……夫人が持ちかけてきたんだ。初めから売るつもりだったわけじゃない」

「令嬢を襲った証拠隠滅のためにだろ」

「違う、あれはただの事故だ」

「へえ。じゃあ馬車を水で濡らし傷を付けたのは何のためだ。事故に見せかける工作以外に何の目的だ?」

「女が自分で河に落ちた。勝手に死んだだけだ。オレが殺したんじゃない、あれは事故だ!」

男の声が頭に響く。わたしは目を閉じて、呟いた。

「……もういい。もう……聞きたくない」

この男がどういうつもりで、アナスタジアに何をし、どう愉しんだのかなんて、知りたくない。

「マリー」

キュロス様が、優しくわたしを抱き寄せる。わたしはその手を払った。

まだ確かめなくてはいけないことがある。キュロス様を押し退け、わたしは誰よりも前に出た。

男に問う。

「アナスタジアは、あなたから逃げようと夜の河原を走って……足を滑らし、運河に落ちたのね?」

男は呻いた。

「……い、いや。オレは……オレは何も……」

「アナスタジアは、あなたのせいで死んだのね」

男の顔が引きつっている。石床に傅き、わたしを見上げる小男の視線が揺れていた。

……わたしは今、どんな顔をしているのだろう。いや、これは何という感情なのだろう。それもわからない。何もわからなかった。

顔面が痛い。胸が苦しくて、身体の感覚が無いのに、指先だけが熱い。生まれて初めての激情だった。

男はわたしから目を逸らし、ぼそぼそと独り言みたいに呟いた。

「でも――あの女は、嫁にしなくて正解だったと思うぜ。旅の荷物に、男物の服なんぞを入れていやがった。とんだ女だ、婚約者のほかに男がいたんだよ。

毎日、毛布代わりに包まって、大事そうに抱いて眠っていた――」

視界が白む。次の瞬間、バシンッ! と激しい音が鳴った。

自分が男の顔面を、殴りつけたのだと――気が付いたのは、少し後のこと。

わたしは絶叫した。

「お姉様を侮辱するな!!」

叫んだ瞬間、大粒の涙がこぼれ落ちる。

男が目をくらませていたのはほんのわずかだけ、すぐにわたしを睨み付け、口から泡を飛ばし、トマスを振り払い立ち上がった。

「何しやがる、おまえも犯されたいか!」

男はわたしに向かって突進した。だが寸前で、キュロス様に阻まれる。

キュロス・グラナド伯爵は背が高い。ただ仁王立ちになっただけで、小男の身体を跳ね返した。殴られたようによろめく男。

たたらを踏んでいるところへ歩み寄り、キュロス様は今度こそ、腕を振り上げた。

「マリーを泣かせたな」

キュロス様の掌は、わたしの平手打ちなど忘れてしまうほどの爆音を立て、男の顔面を叩いて吹っ飛ばした。

爆走する馬車に撥ねられたように、全身が宙に浮き飛んでいく。

男はそのまま石床に落下、ごろんごろんと転がり、手足を投げ出し、静かになった。