作品タイトル不明
おかえりなさい!
翌日。わたしの部屋に、白いパエーリャが届いた。
「昨日のお詫びに、私が焼きました。トマトを使わない、バターピラフのパエーリャです」
「……あ……ありがとう、とても、美味しそうだわ」
わたしはお礼を言って、一口食べた。とても美味しかった。
「昨日は申し訳ありませんでした。せっかくマリー様達が作ってくださったのに、台無しにしてしまって……」
「とんでもない、気にしないで。わたしのほうこそごめんなさいね」
わたしはお詫びをして、また一口食べた。あまり味がしなかった。
エラさん曰く、これと同じものをトマスとアダム、トッポにもそれぞれ作って配ったらしい。そのために徹夜をしたらしい。顔色が悪く、目の下には真っ黒いクマまであった。しかし彼女はまた涙ぐむ。
「ですが、みなさんには許してもらえませんでした……。『体質なら仕方ない、気にしないで』とはおっしゃっていただけたのですが、パエーリャは食べてくれなくて」
「それは……みんな勤務中だからよ、きっと。あとでゆっくり、お昼ご飯にするんじゃないかな」
「いいえきっと、私は嫌われてしまったんです。仕方ないですよね。私、いくらお詫びをしても許されないことをしてしまったんですもの……!」
顔を覆って、わあっと泣き出すエラさん。
「……大丈夫よ。みんなには、わたしから言っておくわ」
わたしはエラさんを慰めて、また一口食べた。それはなんだか酷く異物感があって、飲み込むことができなかった。
それから、わたしはエラさんに約束した通り、三人の侍従達と話をした。どうかエラさんを許してあげて、と。
アダムは黙り込み、わたしにフイッと背を向けてしまった。
材料集めにも苦心し、故郷の母の味を吐き出されたのだから、仕方がない。
温厚なトマスも、怒鳴りこそしなかったけれど許せたわけじゃなかったらしい。
「今まで通り、同僚として最低限の業務連絡くらいはしますよ。声が聴こえないくらい距離を取るってことはありませんので」
こんな厳しい言葉を言って、持ち場についてしまった。
トッポは笑って許してくれた。
「トッポは全然怒ってないよ。トッポのトルティージャは美味しそうに全部食べてくれたからね」
そう言った後、わたしに向かって指を付き出した。
「だけど、奥様は怒んなきゃダメ。奥様がちゃんと怒るまで、トッポはエラさんのごはん作るのすごく嫌」
……わたしは、せめて表面上は普通の同僚として、彼女が傷つくようなことはしないであげてと懇願をした。
彼らはグラナド城の従業員だ。女主人であるわたしが本気でお願いすると、少なくとも表面上は従うしかない。それが分かっていたから、わたしは更に謝り、懇願して、なんとか矛を収めてもらった。
そして――エラさんは今までと変わらず、乳母の仕事に戻った。
我が娘の世話をしてくれている。昨日も今日も、娘を抱っこして。
えいやあ、漕ぎ出せ野郎ども
一糸乱れぬ 連帯の鼓動
見えたぞ 波間に遠くの陸地
船を進めろ 野郎ども
星色航跡 夢描く水平線
金貨を求めて 舵を切れ
――わたしはベッドの上で、ぼんやりと虚空を見ていた。
すぐそばで、エラさんが子守歌を歌っている。早朝、夜の世話を終えたエラさんがリサを渡しに来たところ、リサがグズりだしたから。わたしよりもエラさんの抱っこのほうが心地いいと、リサが泣いて訴えるから……仕方なく、エラさんはあやしてくれているのだ。わたしとリサのために。
えいやあ、太陽が昇ったぞ
船出の合図だ 碇をあげろ
見えたぞ 苦くてしょっぱい海
船乗りたちの汗と涙さ
星色航跡 夢描く水平線
金貨を求めて 舵を切れ
「やめてよ……」
小さな小さな、誰にも聞こえない声でわたしは呟いた。
その歌は……ありふれた子守歌なんかじゃない。船乗りたちの労働賛歌だ。
こんな勇ましい歌を子守歌にするのなんて、貿易商のキュロス様ただ一人だろう。
それを、どうしてあなたが知っているの? と、問い詰めるまでもなく、答えはわかっている。エラさんは、キュロス様の歌を盗み聞きしたのだ。
そこまで考えてから、わたしは首を振った。
盗み聞きだなんて、意地悪な言い方だわ。エラさんはただ、キュロス様が娘に歌って聞かせているのをそばで聞いていただけだろう。物覚えのいい彼女だから、扉越しにたった一度聞いただけでも覚えてしまっても不思議はない。
シーシャンティーは楽譜や文字の読み書きも不自由な水夫でも歌えるよう、聞き取りやすく覚えやすいメロディーになっている。わたしだって、数えるほどしか聞いたことないけれど歌える。
……そう、わたしだって歌えるのよ。なのにどうしてあなたが歌うの? わたしの夫がわたしの子供に聞かせるためのその歌を、どうしてあなたが歌うの……。
わたしはもう一度首を振った。どうしても何も、当たり前だわ。エラさんは今わたしの子を寝かしつけてくれているのだから。
そう、だからリサも大好きなこの歌を聴かせているのは当たり前のこと。リサはエラさんの腕の中で心地良さそうに眠っている。彼女がそうしてくれているおかげで、わたしは体を休めることができる。キュロス様だってそうだ。みんなが助かっている。みんなが。
――それなのに。
わたしは頭を抱えた。エラさんに乳母になってもらおうと、決断したのは自分だ。彼女はわたしのお願いを聞いてくれたのだ。本当に助けてくれている。エラさんは何も悪くない……悪くない……悪いのはわたし。
こんなに良くしていただいているのに、意地悪なことを考えてしまうわたしが悪い。
……このわたしの心がただ醜い。
「――マリー様。マリー様?」
呼びかける声で、わたしはハッと顔をあげた。
エラさんがわたしを覗き込んでいる。分厚い前髪の奥、青紫の綺麗な目が、わたしを心配そうに見つめていた。
「どうしました? 何だか塞ぎ込んでおられるようで……」
「何でもないわ。心配をかけてごめんなさい……」
わたしが言うと、エラさんはますます困ったように眉毛を垂らした。
「顔色が悪いです。私、まだ起きていられますから日中も子守りを任せてもらって大丈夫ですよ」
――リサを一日中わたしから取り上げるということ?
――違う、エラさんはそんなことを言っていない。
わたしはぐっと手を握り、ゆっくり開く。そして笑顔を作った。
「ありがとう……助かります。そうさせてもらうわ」
「はい、ゆっくりお休みになってくださいね。さあリサちゃん、おねえちゃんのお部屋で遊ぼうか」
エラさんはリサに笑いかけながら抱き直し、わたしの部屋を出て行った。
パタン、と扉の締まる音が、やけに大きく聴こえた、
扉が閉まるところを確認もせず、わたしは枕に顔を埋めた。眠れそうにはない。だって体は十分に休まっているんだもの。昼寝なんてする必要がない、だけどベッドから起き上がれない。
わたしは何度も寝返りを打ちながら、どうして自分が眠れないのか、寝転がっているのかわからなくなってしまった。
こんなんじゃいけない……起きなくちゃ。眠らないんだったら、エラさんを休ませてあげなくてはいけない。彼女は夜通し、リサの面倒を見てくれたのだから。……だから……だから……。
「うっ、う……」
意味のないうめき声が出る。
――コツコツと、遠慮がちに扉がノックされた。エラさんが帰ってきたのかと一瞬思ったけれど、違う。きっとキュロス様だとなぜか分かった。
いつもなら、わたしはすぐにベッドから起き上がり自ら扉を開け、彼を迎え入れる。だけど今は体が動かなかった。
「どうぞ入ってください」
ベッドに寝転がって、背中を向けたままそう呟く。
背後で扉が開く音がした。
「マリー、寝ているのか?」
やはり訪問者はキュロス様だった。
「大丈夫です、起きています」
と、返事はしたけれど、それ以上の会話をする気にはならなかった。今はキュロス様とも話したくない。話してしまうと何かいらないこと……口にしてはいけないことまでこぼしてしまいそうで。
寝転がった背中側から、優しい声が聴こえる。
「マリー、どうした。体調が悪いのか?」
「ごめんなさい……今は誰にも会いたくない気持ちなの」
そんな酷い言葉で返す。しかし、その時。
「私にもですか?」
女性の声。決して大きな声ではないのに、凛として鈴を鳴らしたように心地よく、耳の奥に入ってくる――よく知ってる、懐かしいぐらい切望していた――もしかするとキュロス様よりもたくさん話をしてきたかもしれない、大好きなあの人の声――わたしは飛び起きた。
「ミオ!」
彼女、ミオは小柄な女性だ。大柄なキュロス様に比べ半分くらいのサイズに見える。だけど存在感は抜群で、ただそこにいるだけで騎士団に守られているような気持ちになれる。
いつものようにほんの少し目を細めるだけの笑顔を浮かべ、ミオはわたしに一礼した。
「ただいま戻りました、マリー様」
「ミオ! ミオ……!」
わたしはミオに駆け寄り、思いっきり抱きついた。わたしよりも小さな体をぎゅーっと抱きしめて、意味もなく何度もミオの名前を呼んだ。
「ミオ……会いたかった! 会いたかったよう」
わたしの背中をポンポンと子供をあやすみたいに叩いてくれる。隣でキュロス様が居心地悪そうに頬を掻いた。
「思っていた以上の大歓迎ぶりだな。そんなに何十日も開いていたわけでもないし、俺だっていたのに」
「こういうのは適材適所、役割分担です。旦那様に話せないことが積もっておられたのでしょう」
やっぱりいつも通り、どこまでもクールな口調でミオが言う。
「旦那様に言えないことを聞くのが侍女の仕事、そして侍女には言えないことを聞いてあげるのが、旦那様の仕事です」
「つまり……俺達ふたり揃えば無敵ということだな」
キュロス様がにやりと笑うと、ミオは頷いた。
わたしは……わたしは本当に力が抜けてしまって。ミオの前でへなへなと、床に崩れ落ちてしまった。