作品タイトル不明
灰色の侵入者③
夢うつつの中、遠く遠く、歌声が聞こえる。
低いて甘い、男の声、だけど果てしなく甘くて、優しくて。
疲れた者には穏やかな眠りを。癒された者には柔らかな目覚めをもたらしてくれる。
――波間に遠くの陸地
船を進めろ 野郎ども
星色航跡 夢描く水平線
金貨を求めて 舵を切れ
わたしは目を開けた。
夜闇の中、ほんのわずかな蝋燭の火によってぼんやりと浮かび上がる人影。
……大きな男だった。わたしは彼よりも背の高い人を他に知らない。だけど背丈だけでなく、彼は大きかった。太く逞しい腕、長い指と肉厚な掌。広い胸に、小さな赤ん坊を抱いて、彼は歌っていた。歌に乗せて、ゆったりと上半身を揺らしながら。
えいやあ、太陽が昇ったぞ
船出の合図だ 碇をあげろ
見えたぞ 苦くてしょっぱい海
船乗りたちの汗と涙さ
星色航跡 夢描く水平線
金貨を求めて 舵を切れ
えいやあ、荒れ狂う潮騒のリズム
これぞ船乗り 魂の鼓動
見えたぞ でこぼこ岩の新航路
勇気を込めて 突っ走れ――
「……なんだか、勇ましい子守歌ね」
わたしの声に、彼は振り向いた。
歌声よりも小さな声で返事をくれる。
「船乗りの歌だよ。 海上労働賛歌(シー・シャンティ) ってやつだ」
「初めて聴いたわ。学園で習ったの?」
「まさか。いや、在学中学んだ賛美歌で、子守歌にも使われるものはあったけどな。俺はもともと歌が苦手だから、こういう、船乗りの歌くらいしかちゃんと覚えていない」
キュロス様が、歌を苦手としているなんて初耳、そして意外だった。だってまどろみの中で聴いた歌はとても上手だったもの。あれが音痴だというなら、わたしなんて二度と人前で歌えない。
わたしがそう言うと、彼は苦笑いした。
「音程や発声は、それこそ貴族の必修教養というやつだ。できることと、好きかどうかはまた別さ」
「確かに、それはそうね」
起き上がりながら、わたしは頷いた。わたしも実家に居た頃、親の命令で領地経営の仕事をしていた。一番得意なのは算術で、どんな大きな数字でも暗算を間違えたことはない。だけどそれは、楽しい作業ではなかった。
物語を読むのが大好きなのに、自分で創作もできない。よく「好きこそものの上手なれ」というけれど、好みと特性は、やはり別物なのだ。
「式典での国歌も、なるべく声を出さずに口だけ動かして誤魔化している。 独唱(ソロ) の機会などまず無いし、人前で歌うことは本当に稀だ。まして子守り歌なんて、他人に披露することはない」
「……じゃあ 現在(いま) 、あなたの歌声を知っているのは、わたしと娘だけなのね」
わたしが確認すると、彼は目を細めて、頷いた。
「過去も未来も、君たちだけだ」
彼はリサを抱いたまま、わたしのベッドに近づくと、枕をポンポン叩いた。再び寝転がるように促してくる。わたしは首を振り、逆にリサの寝かしつけを交代すると主張した。
キュロス様は今、アルフレッド公爵の国葬の件で忙しい。国中を走り回って、やっと今日帰って来たばかりなのだ。ゆっくり休んでもらわないと――というかキュロス様、お風呂のあとすぐに寝室へ入ったはずなのに、どうしてわたしの部屋にいるの!?
「扉越しに泣き声がうるさかったですか? ごめんなさい、わたしったら気が付かなくて……」
「大丈夫、ふと目が覚めただけ。それで寝顔を見に来たせいで、俺がリサを起こしてしまったんだ。それで慌てて寝かしつけていたところ」
「ではもうお部屋に戻ってください」
「いや、ちょうどいいから寝かしつけ当番交代。マリーこそ、今やっと深く眠れたところだったんだろう」
彼はどこまでも優しく笑う。そしてわたしの肩を抱き、ベッドにそっと転がした。
「この時間までご苦労さま。いつもありがとう」
片手でリサを抱いたまま、わたしの体に毛布を被せる。
そしてまた、彼は歌い出した。
えいやあ、船を揺らす戦いの轟音
臭い臭い 黒色火薬
見えたぞ 海賊の乱杭歯
冒険者たちよ 剣を取れ
星の航跡に 夢描く水平線
金貨を求めて 舵を切れ
鼻先まで毛布に埋もれながら、わたしは思わず、クスクス笑った。やっぱりこの歌、物騒過ぎない? メロディも労働賛歌らしいアップテンポで、眠くなるどころか元気になってしまいそう。いくらなんでも、選曲がおかしいわ。
そう思っていたはずなのに、わたしの瞼がとろりと重くなる。彼の歌声が甘く優しいから。
それとも、今日は日中バタバタしてて、疲れていたかしら……。
ああでもそれはキュロス様も一緒で……たから彼のほうこそ寝かせてあげないと……
だけどもう目が開かない。全身が睡魔の沼に沈んでいく。わたしは夢のなかで、昼間の出来事を反芻していた……。
――あれから、結局わたし達は侯爵の願いを聞き入れて、エラさんを雇用することになった。期間限定、一か月後の国葬の日まで。それも侍女ではなくハウスメイド、いわば城主達と接触しない、下働きとしての採用だった。
そう告げた時、侯爵は案の定難色を示した。
「できればキュロス伯爵か、マリー夫人の傍仕えにしてやってほしいのですが……」
「それはできない」
キュロス様はきっぱりと首を振った。
「実は以前、新しく入れた侍女が、このマリーをひどく傷つけたことがありましてね。うちは侍従を召し抱えるとき、私かウォルフガング、もしくはミオが直々に面談をし、精査をしていました。しかしその時は色々あり緊急だった、それに友人からの紹介ということで、油断していた。その時はまだ、友人の前で猫を被っていたと、誰も知らなかった」
「それは――知らなかったなら、仕方がない、伯爵に罪はないかと……」
「俺の有罪無罪などどうでもいい、事実、マリーを傷つけてしまった。二度と繰り返したくない。まして今は極めてデリケートな時期だから」
侯爵はしばらく、うつむいて物を考えていた。
諦めたかな……? と思った頃、突然、パッと顔を上げ、
「だったら、ハウスメイドとしてはどうです? それなら上級貴族の城主ご夫妻と接点は少なく、悪いことはできないでしょ?」
「ハウスメイド……それだと掃除や洗濯下女の雑用をしてもらうことになるが……」
「あっ、私、そういう仕事なら得意です!」
エラさんが初めて大きな声を出した。思わず、しーんとなる現場。三人の視線を浴びてまたすぐ縮こまったけど。代わりに侯爵が後を継ぐ。
「このエラは生まれた家で、ずっと家事をさせられてきたそうで」
「はい、エラは、召使になるために生まれてきたような娘だって、母と姉によく褒めてられました。私の唯一の特技です」
自慢なのか自虐なのか、よく分からないことを言う。
「侍女はメイドの仕事などしなくていいと、何度も言ったんですがね。性分なのか三つ子の魂百までなのか……。汚れが目に着くと掃除をし、時には下男の衣服を繕ってもいるそうです」
「主人付きの侍女が、下男の繕い物を……?」
キュロス様の目が点になっている。
わたしは彼よりずっと鈍い反応をしていた。「あ、やっぱり異常なんだ?」と思ったくらい。生家では男爵の娘がそうしていたので。それは辛い作業ではあったけど、身分に合わないと考えたことは無かった。だって掃除や繕い物なんて、身分とか職業とか関係なく気が付いたひとがやればいいじゃない?
正解を求めて、エラさんの表情を見たけれど、わたしと同じ顔をしていた。あ、良かった、同族がいたわ。彼女もわたしと同じく、侍従同士の 身分階層(ヒエラルキー) について教科書的な知識は持っていても、いまいちピンと来ていないのだ。
わたしの視線を感じたのか、エラさんは恥ずかしそうに俯いた。
「ごめんなさい……あの、別に私、仕事を押し付けられているとかではないんです。ただ毎朝、部屋の前に汚れた服が山積みになっているから、夜までに洗って干して、畳んで置いておくんです。そうすると誰かが持っていってくれるので……」
「ちょっと、何を言っているのかわからない」
キュロス様は頭痛を押さえる仕草をしていた。今のわたしは、キュロス様の意見のほうに賛成だ。六対四くらいで。
「これは、ソフィアとの相性ではなくエラさん自身の問題だな。いじめられっ子体質と言うか、なんというか……とにかく天然で、不遇を自ら背負い込みすぎている……」
「まあ、それがエラの長所でもあるのですよ。とにかく、仕事は出来る子です。とりあえずただのメイドとして、下働きに使ってやってください」
「……そういうことなら、まあ。……仕方がないですね」
渋々といった様子で、キュロス様は頷いた。姉の夫でありスフェインの侯爵位であるダリオ様に、キュロス様は逆らいづらい立場にある。断る理由が思いつかなかった、という声音だった。
そんなこんなで、期間限定とはいえ、ここグラナド城の新たな住人となったエラさん。
グラナド城内、侍従達が暮らす寮棟、広間にて。
「よ、よろしくお願いします……」
震える声で挨拶した彼女に、侍従達はワアッと歓声を上げた。
久しぶりの新人加入ということで、侍従達はみなエラさんを優しく歓迎していた。先輩メイド達がエラさんを取り囲み、どの作業を割り振ろうかとさっそく相談。侍従頭のミオは不在だけど、メイド直属の上官、メイド長ならば常駐している。恰幅の良い中年女性であるメイド長は、エラさんの周りをぐるぐる回って、体型を目測していた。
「ううん? なんだあんた妙に着ぶくれてると思ったら、でっかい胸してるねえ! こりゃメイド服は特注だわ」
「ひぃぅっ……!?」
メイド長の大きな声と、エラさんの消え入るような声がわずかに聞こえた。
日中は、そんな彼女の様子を眺めていたせいで、わたしは昼寝をし損ねてしまった。夜の睡眠が細切れなので、昼寝は必須なのに。その疲れが今、どっと出てきたのだろう。リサの夜泣きに気付かないほど熟睡してしまっていたのだ。
条件はキュロス様だって同じのはずなのに、彼は、熟睡して涎を垂らしているリサを抱いたまま、わたしまで寝かしつけようとしている。
キュロス様の大きくて温かな手のひらが、わたしの胸をポン、ポン、叩く。また、彼の歌声が聞こえる。
これ以上なく幸福な気持ちで、わたしは深い眠りについた。