軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

紅昏(あかぐら)い月の夜

――ゥグァアアアッ! ――。

それは、聞いただけで胸が悪くなるような声だった。

獣の鳴き声……ではない。

理解した途端、一気に血の気が引いていく。

震えあがったわたしを、キュロス様は肩を掴んで抱き寄せた。わたしを安心させるためだろう、静かな声で囁く。

「……人の悲鳴だな。男性、まだ若い」

「ひ、人のッ……! そんな……」

「馬車の音はしなかったし、施設周辺に足を滑らせるような階段もない。となると辻斬り、強盗か……塀の外なら、この施設内は安全だろうが……」

キュロス様は眉間にしわを寄せ、あたりを見回した。

ここは旧王宮、外壁は高く強固にできてはいるが、現在はただの催事施設。古くなった石壁に人間一人、入りこめるくらいの穴があってもおかしくない。夜闇に紛れ、すぐ近くで暴漢が息をひそめているかもしれない。

キュロス様はわたしを抱いたまま、じりじりと後ずさりした。

「悲鳴は右から聞こえたな。マリー、このままハレムのあるほうへ移動するぞ」

「は、はい……」

「建物に入ったらすぐに内鍵を掛けてくれ。ハレムの防御力は城塞並み、君主以外の男が絶対に入れないよう強固な鍵がかかるからな」

「キュロス様は……?」

「俺は一度、君主の間へ戻る。世話役の男たちが戦えるとは思えないが、人数がいるとハッタリが効く。それに長剣を部屋に置いてきてしまった。今は護身用の装飾剣しかない」

「つ、捕まえにいくの⁉ でも、あなたまで危険が――」

「悲鳴の主が絶命して、犯人が逃走したならば追いかけはしないけどな。襲われている最中なら助けねばならない。なにより、もし敷地内にいるなら早いうちに捕まえておかないと、マリーや世話役の女性たちが襲われかねない」

「それはそうだけどっ――」

どうしよう、わたしは今、彼に縋って行かないでと止めるべき? それとも人命救助のために、彼を快く送り出したほうが良いの? わたしは答えが出せなかった。

「あなたが行かなくても、街ならば衛兵が来てくれるのでは?」

そう悪あがきするのが精いっぱい。だけど彼は首を振り、

「ここ、旧王宮の周りは旧市街地……戦後、首都が港町へ移ってからは半ばスラム化している。国は治安維持を目指していない。衛兵なんてそうそう巡回していないさ」

「そ、そう……でも……」

なおも追いすがろうとしたその時、今度は「キャアアア!」と、絹を裂くような甲高い声がした。キュロス様の顔色が変わる。

「くそっ! どこの馬鹿野郎だ、夜に女連れで出歩いてるのは!」

「助けて! 誰かいないのー!」

この言語、イプス語ではない。西洋の共通言語、フラリア語だ。襲われているのは外国人観光客らしい。

「剣を取りに戻っている暇はないな」

キュロス様は意を決したように唇を噛み、腰元の宝飾剣を引き抜いた。わたしはもう引き留めなかった。急いでハレムに駆け込んで、窓越しにキュロス様の背中を見送った。

本殿のそばの通用門を開け、市街地へ……声のした方へ駆けていく。わたしは膝の力が抜け、その場にへなへなと座り込んだ。そして両手を握り、額を押し当てて祈った。

どうか、どうか無事で帰ってきて……!

彼の帰還を待ちながら、ひたすらに願い、祈り続ける。

ともすれば一瞬で不安に押しつぶされそうになる。心配なのはキュロス様だけではない、悲鳴を上げた男女のこともだ。

フラリア語を使う……西洋大陸からの観光客。フラリアの航海技術はディルツほどでないにせよかなり発達しており、貴族や富裕層が観光に来ていてもおかしくはない。

……だけど……ここは市街地からは離れている。旧王宮はわたしたちの式のため貸し切りで、観光もできないのに、なぜこんな夜に……。

――わたしたちの結婚式。

三日後の式までに、届けられる予定だった、真珠のアクセサリー。

フラリア語を話す女性……。まさかあの声は――もしかして――。

あるひとたちの顔が思い浮かぶ、その瞬間、わたしは居てもたってもいられなくなって、ハレムの扉を押し開いた。

庭園を横断し、さっきキュロス様が出ていった、通用口までたどり着く。カンテラの明かりを消して、気配を殺してそうっと開き、足音を殺してそろりそろりと近づいてみる……。

そこには想像通りの人物と、予想だにしていなかった展開が広がっていた。

その場にいたのは四人の男女。そのうちの一人はキュロス様だったけど、残り三人も、知っている顔ぶれだった。

「ひっ、ひい、いぃ」

腰を抜かしたらしく、地面にへたり込んでいるのが、イプサンドロスの商人、オグラン少年。

少し離れたところに、床に膝をつき屈みこんでいるのがキュロス様……その腕の中で目を閉じ、腹部から血を流しているのがアンジェロさん。彼に縋りつき、泣いているのがカエデさんだった。

「アンジェロ、意識はあるか。俺の声が聞こえるなら、何でもいいから声を」

「アンジロウ! 目を開けなさいアンジロウ!」

血を止めようとしているのだろうか、真っ赤に染まった手を押し付けて、カエデさんは震える声で叫んでいる。

「アンジェロさん!」

わたしの声に、いちばん大きく反応したのはオグラン少年。キュロス様は顔を上げただけで、カエデさんは動きすらしなかった。わたしは構わずアンジェロさんに近づき、カンテラをかざして顔を見る。

真っ暗闇にカンテラの明かりだ、顔色までは見て取れない……けれど、かすかに瞼が動いているのは視認できた。息はある。「今はまだ」なのかは分からない。

いや生死を確かめるより早く医者、治療を――そうだ世話役には医療従事者もいると聞いたわ。人を呼んでくる? いやアンジェロさんを運んだほうがいいのか。冬の路上に横たえていては体温が奪われる。それとも今できるだけの応急処置を――ああ駄目だ、今わたし、混乱している。優先順位を迷い、かえって足が止まってしまっていた。きっとキュロス様もそうなのだろう。アンジェロさんの声を聞こうと呼びかけるのに必死で――まず落ち着かないと、落ち着くためにはどうすればいい? 無理よだってアンジェロさんが血を流して倒れているんだもの!

そして誰よりも、カエデさん。いつもの知的な彼女とは別人のように声を乱し、半狂乱になっていた。アンジェロさんの服を掴んで揺さぶり、喚き散らす。

「起きなさい! もし本当……したら、許さない。起きなさい、私の命令が聞けないの? わたしを置いて――だめ……」

泣き声で言葉が壊れている。気持ちは痛いほどわかるけれど、このままではいけない。わたしが彼女を引きはがそうとした、その時。

カエデさんの頭に、大きな手がポンと乗っかった。小さな頭蓋の形を確かめるみたいに優しく撫で、水浸しの頬を指で擦る。

アンジェロさんは笑った。いつものように、穏やかに。

「……これは、これは……カエデ様。人前でそのように、大きな声を上げて……お館様に見つかったら、説教されるでござるよ」

「アンジロウ!」

「おお、 洟(はな) まで垂れて、はしたないでござる」

言葉だけはいつも通り、だけど彼の顔色は、まったくいつも通りではなかった。

カエデさんの左右にいるわたしたちに気が付くと、淡々と状況を伝えてくれる。

「傷は、脇腹にひとつ。深いが、はらわたは無事のようです。命に別状は、ないでしょう」

「でも出血が」

「ああ、意識を飛ばしている間に……でも、今から気合で 丹田(たんでん) を締めますゆえ、問題ござらん。もう大丈夫……」

「なにが大丈夫よ馬鹿侍! こんなに血が出てるのに!」

カエデさんは再び叫び、彼に縋りついてワアワア泣きだした。彼を傷つけた犯人への怒りより、彼を失うことに怯え、今にも破裂してしまいそうな泣き声。

わたしだって本当は手も足も震えていた。だけど悲鳴を上げようとする咽喉を必死で抑え込み、冷静になるよう努める。

「……キュロス、様。アンジェロさんを襲ったのは?」

「一人。もう逃げた」

キュロス様の声もやっと平静を取り戻していた。

「俺がアンジェロを担いで運ぶ。マリーは一足先に王宮に戻り、世話役を叩き起こしてくれ」

わたしは頷きもせず、駆け出した。アンジェロさんは大丈夫と言ったが、信じていいかはわからないのだ。全力疾走でその場を走り去った。

だけどどれだけ離れても、カエデさんの悲痛な声が聴こえてくる。

「ちくしょう、くそったれ。奴隷なんて二度と信じるものか。くそ――アンジロウ……」

彼女の泣き声は、いつまでも耳に残り、消えそうになかった。