軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

賽子(さいころ)と真珠

青い海の向こうに、『楽園』が遠ざかっていく。

少し前までは、砂浜でこちらに手を振るイサク達の姿があったけど、今はもう、影も形もない。

ただ白い泡の航跡が、細く長く、島とこの船を繋いでいる。まるでわたし達の未練を表しているようだった。

わたしとキュロス様は、貿易船のキャビンから、儚く消える白線を眺めていた。一昨日は、見飽きた海の景色にあくびをしていたキュロス様も、今日はどこか物憂げな表情で、遠ざかるルハーブ島を眺めている。

水平線の向こうに完全に見えなくなってから、彼はやっと、言葉を話した。

「ここを去る時は、また来る日のことを思ってしまう」

わたしは頷いた。

「わたしも……いつかまた来たいです。本当に、素敵な島でした」

補給と休息のため、たった二泊三日だけの滞在だったけど、わたしはもう理解していた。

この島が『楽園』と呼ばれている 所以(ゆえん) 。かつての英雄ディボモフが、この島を支配から護ろうとした理由。東部共和国との貿易商であるキュロス様が、たびたびこの島を訪ね、わたしを連れてきてくれた理由も。

この島は、本当に……ただただ、自由だった。

それは飢えの心配がない豊かさがあっての余裕だろうか。もしくは裸で寝ても凍えない、常夏の気候がそうさせるのか。あるいは、顔を上げればいつもそこにある、心洗われるような景観が、島民達をそう育むのかもしれない。

確かに、ここは間違いなく楽園だった。

だけども、とわたしは続ける。

「なぜかしら、ここに居る間、ずっとグラナド城のことを思い出していたの」

キュロス様は驚いたように振り向いた。

「なぜ? あの城にいるルハーブ島民はトマスくらいしかいないぞ」

「ええ、不思議よね」

そう呟きながらも、本当は見当がついていた。ルハーブ島にグラナド家と同じ匂いを感じる理由――それは、家族と自立だ。

グラナド城は、異国人を偏見なく雇い入れるため、ディルツ貴族邸では珍しく多国籍な空間だった。主従を問わず親しくありながら、みな自立して働いている。侍従達にとっては職場だから当たり前なんだけど、その空気感は本当に家族のように温かかった。それでいて、依存はしない。わたしの生家シャデラン邸のように、お互いを縛り合い、背中合わせで支えねば崩れてしまうような、危ういものではない。

ただみんな、そこで生活をしているだけ。自分が生きていきたいように、過ごしているだけ。

グラナド城にはそんな心地のいい距離感がある。それをこのルハーブにも感じたのだ。

糸を引くほど甘く粘つく関係では得られない、爽やかな愛だった。

「本当に、良いところでした……」

しみじみと繰り返す。隣でキュロス様が背伸びした。

「しかし、ここだけが『良いところ』ではないぞ。世界は広い。『楽園』と呼ばれる島や街は、世界のあちこちにある。なんなら一国に一か所ってくらい」

「イプサンドロスにもありますか?」

わたしが問うと、彼は頷いた。

「ああ。知っているかな? イプスは別名『猫の楽園』と呼ばれていて、町は猫だらけなんだ。野良ではあるが餌に困ることは無く、地域で守られて、可愛がられている」

「まあ! それは知らなかったわ」

驚くわたしに、彼は更にイプスの文化を教えてくれた。東部共和国では古くからある宗教で、『猫は清潔で愛すべき真のペット』と教え、伝えられてきたんだって。

誰の飼い猫でもないのにみんな名前が付いていて、決して飢えることなく、人を恐れず懐っこい。観光客がカフェに座ると、勝手に膝に乗ってくるという。ディルツでは考えられない風習だ。

わたしは身震いして、海に向かって叫んだ。

「ああ本当に、世界って広い!」

子どものように浮かれるわたしを、キュロス様は微笑んで眺めていた。機嫌はよさそうだけど、眼差しにはどこか陰りがある。わたしは彼の顔を見上げた。

「どうしたんです、キュロス様。何か悩み事でも……?」

「……ああ。なんだか妙な胸騒ぎがしてな」

「胸騒ぎ?」

彼は真顔で頷いた。

「大抵の時化は、航海士が空や風を見て予見するんだがな。それ以外のトラブルは俺の方が鼻が利く」

「……海賊、ですか」

「どちらかというと水夫同士の喧嘩かな。閉鎖空間で大人数が暮らしているから、小競り合いは避けがたい――とはいえ」

キュロス様は首を傾げた。

「今はルハーブ島で息抜きをさせた直後。リフレッシュできているだろうし、食料も豊富だ。喧嘩になりづらい時期のはず……」

その時だった。キュロス様の後ろを、一人の水夫が横切った。見たことのある顔で、その動作にも何も不自然な所はない。だがその服装――下着一枚という姿に、わたしは悲鳴を上げた。

キュロス様も気が付き、大声を上げる。

「お――おいおまえっ、甲板でなんて格好してるんだ!」

「アッ、だ、旦那様……」

「服着ていられないほどの気温でもないだろう、船室でならともかく甲板にはマリーがいるから、見苦しい格好をするなと――」

「すいません!」

水夫は慌てて謝ったけど、すぐに服を着てきますとは言わなかった。キュロス様に強く促され、困ったように眉をひそめて、

「でもその、着る服が無くて。みぐるみ全部引っぺがされちまったもので……」

「……は?」

キュロス様の怪訝な声に、水夫は身をすくませた。

◇◇◇

「おまえらっ、ここで何やってるんだーっ!」

扉を乱暴に開け放って、キュロス様は怒鳴り声を上げた。

さほど広くはない部屋、小さな据え付けのテーブルで、アンジェロさんがお茶を淹れている。横で完成を待っているのはもちろん、彼の主、カエデさん。

絶叫したキュロス様に、彼女は「やあ」と軽く手を上げた。

「お久しぶり、キュロス・グラナド。しばらく見ない間に大きくなって」

「昨夜別れたところだっ! どうしてこの船におまえらがいる!?」

「積み荷に紛れて潜入した」

緑色のお茶を啜って、カエデさんはあっさりと言った。

思わずあんぐり口を開けてしまったキュロス様に、ほっそりした指を振りながら、

「あっ、時系列順に説明するね? まずは大きな木箱を用意して、私が中に入り、積み荷のフリをするでしょ。水夫が積み込みを始めたタイミングを見計らって、『親切な通行人』ことアンジロウが通りがかる。親切面して近づいて『重そうでござるな、積み込みを手伝うでござる』って言って持ち上げて、二人とも船倉にまで入り込んだの」

「あとはそのまま、息を殺してじーっとしていたでござる。猫がいて癒されたでござる」

自分もお茶を啜りながら、アンジェロさんは嘆息をした。

「一応、拙者は反対したのです。しかしカエデ様は言い出したら聞きませぬゆえ。すまんなキュロス殿、厄介になるでござるよ」

「ふざけるな、密航じゃないかっ!」

キュロス様が絶叫する。

――キュロス・グラナド伯爵は、背が高い。普段は甘く垂れた緑の瞳も、怒りに燃えれば禍々しさすら感じさせる。誰もが気圧されるほどの威圧感――だがカエデさんとアンジェロさんはどこ吹く風、なぜか顔を見合わせて、笑っていた。

「キュロス殿は大体いつも怒っているでござるなあ」

「おまえらが怒らせてるんだっ! それにこの部屋、水夫の四人部屋だぞ。四人分の身ぐるみと、部屋まで強奪したのか?」

「強奪とは人聞きの悪い。正当な勝負の報酬だよ」

カエデさんはお茶を啜って答える。

「私達はただ、密航を見逃してもらいたかっただけなんだよ。ミズホで流行りの博打をやって、私が勝ったらおとがめなし、負けたら私達は金品を差し出し船を降りる。……一回で終わっとけばよかったのに、もう一回もう一回とせがんできたのはおたくの水夫」

「この船はグラナド商会の貿易船、水夫にその使い方を賭ける権利はない。俺が密航を発見したからには、黙って降りていただく」

「嫌だ」

これ以上なくきっぱりはっきり、断言するカエデさん。思わず絶句したキュロス様を、カエデさんは頬杖をつき、舐めるような目つきで見上げた。

「ていうか今更、船を降りろと言われても困っちゃう。ルハーブの港ははるか遠くになりにけり、ここから泳いで戻れってって言うの?」

「自分の船はどうしたんだ。ルハーブには自家用船で来たんだろうが」

「船長に任せて飛び出しちゃった。今頃あっちも出航してるでしょうね。ほんとに帰る所が無いんだよ、今すぐ海に身を投げろだなって、残酷なことを言うのねキュロス・グラナド」

「死んだらキュロス殿を恨むでござる。化けて出るでござる。枕元に立って子守歌を歌うでござる」

それは怖いのかしら、安らぐのかしら。キュロス様の枕元で、子守唄を歌うアンジェロさんを想像し、わたしは思わずニコニコしてしまった。可愛い。

「お、おまえらっ――こ、の……!」

全く議論にもならない二人に、キュロス様は拳を握り締め、ぶるぶる震えていた。わたしはそんな彼の裾をチョイと引き、耳元に小声でささやいた。

「……これは……わたし達の負けだと思います……ここは船上、降ろせば必死という状況だからこそ、わたし達は彼らを追い出すことはできないって、あちらに筒抜けですもの」

「ったく……自分の命を人質に取るとはっ……!」

心底悔しそうに呻くキュロス様。わたしはちょっと笑ってしまいながら、

「ルハーブに折り返しますか? あるいはいっそ次の補給所までは乗せてあげて、穏便に降りてもらうとか」

我ながら現実的な提案だった。だがカエデさんは、鼻で笑った。

「降りないって言ってるでしょ。この船の水夫は、私に多額の借金を抱えてるんだよ。それを取り立てなきゃ」

「借金……!? あの、身ぐるみを剥いだだけじゃなくてっ?」

「そう、給料一年分くらい? 彼らは私に借りがある。返してもらうまで、船を降りるわけにはいかないね」

「……おまえ、よくもこの短い時間で、うちの乗組員を文字通り丸裸にしたな……」

「下穿き一枚は残してあげた。慈悲深い私を 崇(あが) め 奉(たてまつ) りなさい」

「だれが崇めるかっ!」

優雅にお茶を啜るカエデさんに、キュロス様は詰め寄った。お茶とお菓子で散らかったテーブルをバンッ! と叩き、低い声で、彼女に囁く。

「いい加減にしろ。もとより、この船は博打禁止だ。古代から博打はトラブルのもとだからな。暇つぶし用のカードやボードゲームくらいならばともかくとして、金品を賭けての博打は懲罰対象となっている」

「あらごめんあそばせ。そんなルール知らなかったのよ」

「……知っていようと知らなかろうと、ルールはルール。博打は禁止、ゆえに勝負は無効だ」

キュロス様の言葉は強気だけど、いまいち歯切れは悪かった。だってこのトラブルは、カエデさんが一方的に搾取したわけではない。水夫たちの自業自得なのだ。彼女は加害者でこちらは被害者と言い切れるものではなかった。

それでもこの商船の主として、言うべきことは言わなくてはいけない。キュロス様は懇願するように言った。

「この説明をせず、勝負を受けた水夫の自業自得ではある。だから奪ったものは返さなくていい、次の港まで送るだけはしてやる。しかし取り立ては諦めろ。おまえも損はしていないだろう」

「……そうはいかないよ、キュロス・グラナド」

カエデさんはそう言って、席を立った。

彼女は、とても小柄な女性だ。長身のキュロス様の胸ほどまでしかなく、並べば大人と子どものようにしか見えない。

だけど気圧されたのは、キュロス様のほうだった。彼女に一歩近づかれると、キュロス様はのけぞった。

「私は水夫と契約したんだよ。お互いに条件を示し合わせ、勝てばもらう負ければ払うってさ。それって商売と同じだろ。後になってからやっぱり無しなんて無理、まして第三者のあんたに、そんな権利なんかないの」

「……ぐ……」

「密航は悪いことだから、叩き出されても仕方ない。でもあの水夫達の身柄は、私達の物だ。借金のぶんウチでこき使ってあげる。私達を追い出すって言うんなら、水夫四人をこっちによこしな」

「……なっ……!」

「どうする、キュロス・グラナド。ああゆっくり考えてくれて結構だよ。ゆっくりじっくり、イプサンドロスに着くまで考え抜いて」

す、すごい。キュロス様が押されてる……!

わたしは、博打のことも商売のことも分からないけれど、カエデさんは正しいことを言っている、と思えた。賭け事は、勝負。損する可能性がある遊びだ。水夫も賭けに乗った時点で分かっていたことだろう。契約は契約、成立してしまった後、一方的に反故になどできない――そんな気がする。

キュロス様……どうするのだろう。