軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

後日談 グリモワール・リバースへ

それはいつかの記憶。

遥か彼方、何十年も前の、しかし薄らぐことなどない鮮烈な記憶。

「あの……ほ、ほんとうにまほうをおしえてくれるんですかっ?」

不安に心を搔き乱された。ざわざわざわと胸中が揺れる。

腹の底が「逃げろ」と叫んだ。脳がひりひりと警戒を張り巡らせる。

けれど。けれど童女はあまりにも、危険を前にするという経験が乏しくて。

鈍い音を立てて閉じた扉の音にびくついて思わず背後を振り向いて、目前に立つ男を見上げる。

青年というには幾ばくか歳をとっていて、しかし壮年というには落ち着きが足りない、そんな男。彼は自らの緑色の髪をかきあげて、ただ一言「ああ、そうだよ」と頷いた。

「……え、えっと。もう少しあかるいところのほうがいいなって、わたし――」

「天才と呼ばれる魔導師が最も活動に適した環境を取り揃えた。それを、何も知らないうちから否定するのは――」

よくないよくないよくないなぁ。

ねっとりとした否定の言葉に、童女は声を失った。

不気味だったとか、怖かったとか、そういうこと以前の問題として、せっかく魔導を教えてくれるという人物に対しての非礼に口を閉ざしたのだ。そういう意味では既に彼女は"出来上がってしまっていた"と言っても過言ではなかった。

「ごめん、なさい」

「いやいやいやいや、仕方ないなら仕方ない。さあ、魔導を始めようか。"神"に到る業を極めるために」

「は、はい。わたしが……みんなを助けられるならっ……人間と、魔族がいがみあわないで居られるなら、わたし、なんだってします!」

「んっんー、いいねえいいねえいいですねえ。なんでも、か」

気合を入れるように両拳を握りしめる童女に隠れ、男の表情が酷く歪む。

願いに対する冒涜か、今より起こる新たな知への好奇心か、或いは一人の少女を破滅へ導くことへの隠しきれない愉悦なのか。または、誰にも負けない研究を行うための犠牲を尊んでいるのか。

それとも、まだ見ぬ"敵"への応戦手段に対する賛美か。

男の嬉々とした感情を示す導は無い。その感情の機微に気づく術はない。

だから、最後の最後まで分からなかった。

懸命に魔導に勤しんだ彼女の願いが、鉄を溶かすようにめらめらとゆらゆらと溶けていく。

嗚呼、嗚呼。

わたしの、大切な願い。わたしが、子供の頃に願った想い。わたしが唯一想った祈り。

それらがすべて、雨雪のように溶けていく。

『きっとあの優し===助け===』

やめて。

『魔=====絆=作===』

やめてよ……。

『===導======』

ああ……もう、何も。

「その願いを破却する」

……あれ? なにをやめてって、わたしは。

童女は光の無い虚ろな瞳で、こてんと首を傾げて目の前の男を見上げた。

わたしの全ては、失われた。

その空虚なからっぽの瞳に、飛び込んできた光景が。

愉快そうに笑っていた男の頬に、最高にビッグな拳が飛び込んできた瞬間だった。

「させるかわっせろおおおおおおおおおおおおおおおおおい!」

男が吹っ飛んだ。壺の群れに突っ込んだ。

がっしゃんがっしゃん棚から落ちては割れに割れる。

「……あ」

そのけたたましく喧しい、煩わしい音たちが。

おいおい嬢ちゃん思い出せと、へらへら笑って問いかける。

『きっとあの優しい姉を助けるんだ』

あ。

『魔族と人間の絆を作るんだ』

そうだ、わたしは。

『己の魔導を救いの手に』

そのために、わたしは。

顔をあげた。

拳を振り抜いた、角の生えた魔族は遠見でもするように手で庇を作り、「おいおい勇者でもそんなに派手に壺割らねえよ」とかなんとか訳の分からないことを言っているけれど。

でも。

助けられたことは事実で。

それがなんだかとても暖かくて。

「助けてくれてありがとう」

そう素直に、礼を言うことが出来た。

あったはずのない、けれども確かに存在した、洞のような空虚で暖かな記憶。

「……なんで、って聞くのは無意味なことなのですよね」

「はぁん?」

ヤタノが【天照らす摂理の調和】との戦いで取り戻した原初の 神蝕現象(フェイズスキル) ――【大地に恵む慈愛の飽和】によって生まれた、イブキ山山頂付近の春やかな平原。

その中央を切るように走る大きくゆったりとした川のせせらぎに耳を傾けながら、ヤタノはシュテンに問いかけた。

当の彼は川に正面向いてあぐらをかきつつ、釣り竿を垂らしてぼけっとしている。

時おり「くぁ」とあくびをするばかりでまるで釣り竿に手ごたえがないところを見ると、釣りの才能はないのだろう。

「……わたしは、貴方に何かを返せるでしょうか」

「この前の一件か? まぁだ気にしてんのかヤタノちゃんよぉ」

「気にします! 気にしないはずがないじゃないですか! 貴方は、わたしのせいで、……この山だって」

ぺちぺちと背中を叩く感触は、シュテンにとってはそよ風も同然だ。

先ほどまでは背中合わせで小さく暖かな感触がしていた背後の気配は、今や起き上がってシュテンに抗議を繰り返している。

それも長い時間にはならなかったようで。叩く手が背を離れないまま、そっと肩へとなぞる。

「わたしは。……情けなくも精神を。魂の情報を改ざんされて、貴方に危害を加えたのです。友達だと、そう思っていたのに。いつの間にか植え付けられた憎悪に取り込まれて、わたしは……」

「だったらもう答えは出てんじゃねえか」

シュテンの肩に添えられた手が、小さく震えていた。

少し前までは悪意を持って振るわれた手。嫋やかで、華奢なその手。

「友達だと思ってたからだよ。俺も。だから、ヤタノちゃんがやべーことになった時に助けた。まさかたぁ思うが、そこにご立派な理由があるなんて思ってねえよな? そんなに賢く見えるか? 俺って妖鬼のお兄さんはよ」

「……シュテン。貴方は」

相変わらず、シュテンはヤタノを振り返ることはなかった。

今も釣り竿の先をぼんやり見つめるだけで、表情にもなんの感慨を浮かべることさえしない。なんてことはない、いつものアホ面。

「まー、そうだなー。返せるものっつーか。もし今回の一件を重荷に感じるようならさ。一つ、思うことがある」

ただ、普段ならあってしかるべき茶化したような笑みは見受けられず。

ヤタノからは、シュテンの顔は窺えない。

ただただ、神託でも受けるかのように無言で彼の言葉を待つばかり。

「……昔。ずっとずっと昔の話だ。どれだけ昔かってーと、ヤタノちゃんが生まれるより昔だの話になるかな」

「それシュテンも生きてないのですけど」

「俺は旅の途中で友達を作った。面白い奴でな、すぐに打ち解けた。出会ってから別れるまで三日も無かった。その間にちょっとした事件があって、俺は友達だからあいつをちょっと助けたんだよ」

「――」

「したらあの野郎、それからずっと後になって、死にかけの俺を助けてくれたんだよな」

「えっと。シュテンは今、二十と少しでしたよね?」

「まあ、そうなんだけど。……そいつは再会の保障すらないままずっと、あの時の一件を"恩"だと思っててくれたらしくってな。大したことしてねえ俺と違って、本当に死ぬかと思った危機を救ってくれた。それで笑って言いやがったんだ。「恩返しの時間だ」ってな。……二百年だぜ? 忘れてろよ。覚えてる理由がねえよ。無理だよ俺の頭じゃ。……でもさ。嬉しかったんだ。冗談抜きで。あの時助けてくれたから、助けたんだって。友達だろって。……俺ぁ、俺の友達とは誰とでもそうありたいと思ったんだよ」

個性的すぎるヤツだけどな、と最後に添えて、シュテンは言葉を切った。

川のせせらぎが、そよ風に乗って耳に触れる。

「分かりました」

声変わり前の幼いソプラノに、シュテンの眉が少し動いた。

肩に乗せられていた手が、するりと滑るようにシュテンの胸元にやってくる。

右手も右肩の上からやってきて、後ろから抱きすくめられるように暖かさに包まれた。

「……暖かいですね」

「ヤタノちゃんの方が体温高ぇよ。暖かい」

「それはちょっと恥ずかしいからです。言わないでください」

「ば、ばっかやめろよそういうこと言われると俺も恥ずかしくなってくるじゃねえか」

「じゃあ、おあいこで」

「え、あ、うん? いいのそれ? なんかちょっとおかしい気がするんだが……」

ぎゅ、と。ヤタノの両手が、シュテンの上半身を離すまいとばかりに強く抱きしめられて。華奢な体のせいか、シュテンの右頬にはすぐにヤタノの顔が、金糸のような髪がふれる。

「貴方がいつかどこかでわたしを助けてくれた時。この前、泥から救い上げてくれた時。こうしてわたしは、とても暖かいものに包まれるような、優しい感覚の中にいたような気がします。それは、まぎれもなく貴方の暖かさだった」

「――」

「……いつか。いいえ、いつでも。わたしは必ず、貴方の助けになると誓います。恩返しでもいい、罪滅ぼしでもいい、友達だからでもいい、そういう風に貴方が言ってくれた。だからわたしは、貴方を必ず。貴方のために、貴方の力になると誓います」

耳元で囁かれる、小さく華奢な、重い誓い。

「……嬉しいもんだが、いいんだぜそんなに気負わなくて。俺もまた、気軽にヤタノちゃんを助けるから」

「友達だから?」

「友達だから」

「わたしは、違います」

「まさかの友達だと思われてなかった」

それはちょっと寂し――と言葉を続けようとして。

すぐ隣にあった小さな顔が、こちらを向いた気がした。

「……貴方は、わたしの。かけがえのない、大切な人だからです」

そっと何かが頬に押し当てられるような感覚。

それが何であるかを理解するよりも早く、ふっと熱は身体を離れていって。

「グリモワール・リバース。貴方の楽しくて優しい、暖かな旅に。必ずわたしも連れていってくださいね」

右頬から左頬まで一直線に朱に染まった朗らかな笑み。

年端もいかないはずなのに妙に艶やかな雰囲気を纏わせて、ヤタノは去っていった。

残されたシュテンは、ぼけっと川の流れを眺めながら。

「……えっ?」

自分が何をされたか理解して、今更顔面を赤くした。

毛ほどの需要もない。