軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十四話 やまのみさきIV 『やたのばすたー』

完全なる劣勢だった。

歯噛みして手を翳すは前方。

ありとあらゆる偶然が敵となって襲い掛かる森羅万象の乱流。

分かっていたことであるはずなのに、どうしようもなく重い"偶然"という名の敵。

ヒイラギは自前の炎熱と狐火、さらには虎の子の紅蓮獄を使役してようやっと致命傷を防いでいるというのに、相対する童女はまるで無傷。

行使する魔導にブレはなく、ただひたすらに周到に執拗にヒイラギを追い続ける。

魔素を散らされ、炎を打ち消され、防護さえ破却されたのちに怒涛の如く襲い掛かる自然世界の大嵐。

まるで乱気流の中の塵芥のように翻弄されながら、それでもなお小さな命を潰さないようあらゆる手を尽くして

圧倒的に不利なのは未だ変わらず。

しかしヒイラギの表情は決して、悪いものではなかった。

「ほんっと、嫌味になるくらい相性悪いというか、なんというか! 抑えるどころか尻尾巻いて逃げ腰戦闘しかできないなんて泣けてくるわね!」

「……なら、さっさと倒れてくれませんか……」

むしろ。

物量差で押し潰そうとして押し潰せないヤタノの方が切羽詰まった表情だった。

「……っ」

「周辺の魔素は潤沢、私の側に残っているのはあんたの力が及んだあとの空間魔素だけ。必死こいて炎を手繰ってる私より、あんたの方が辛そうなのはなんででしょうね」

「うる、さい……!」

きっかけは先ほどのイブキの挑発だった。

『あたいの息子が!! お前を助けてやる!! 助かったあとで、お前は笑う!! それはもう、最高に良い笑顔で笑う!! そしてぇ――あたいを殺した罪悪感で泣く!! ああ、さいっこうに良い気分だ!! 先に言っておいてやるよ!! ざまあってなぁ!!』

あれ以降、目に見えてヤタノの様子が変わったのは間違いがない。

彼女の台詞の何が琴線に触れたのか分からないが、どんな形にせよあの童女の瞳には火がともった。

――紅蓮獄・火之夜藝速――

ヒイラギが魔導を行使する。鬱陶しいとばかりに獄炎を払うヤタノだが、明確にその動きには今までになかった"感情"が見え隠れしていた。

思わず、ヒイラギは口にした。

あり得るかもしれない可能性を。

賭けたくなる、そんな未来を。

「……もしかして、語らない聖典の効果が薄れてるとか」

「うるさい、うるさい、うるさい――!!」

焔が躍る、火炎が舞い散る、しかして火花は消滅する。

厄介だと感じた 彼女(・・) に”消えて欲しい”と願われたから。

偶然が、森羅万象が、世界そのものが眼前の童女に味方する。

「相変わらず理不尽な神蝕現象だけど、だからといってまだまだやられてやるわけにはいかないってーの!!」

「そうですか、なら――」

「っ……うっそぉ」

袈裟に振られた番傘一閃。

鉄を熱で擦ったような火花と一緒に現れた亀裂から、夥しい物量――巨大な礫が飛来する。まるで流星群ではないかと驚愕するヒイラギ。

慌てて跳躍し回避するも、それがいつまでも通じるような数ではない。

歯噛みして火炎を操る右手を、狙いすましたように抉る岩石一投。

「あぐっ!?」

「偶然、飽和した魔素が異空間を繋いだようですね――たまにあることですが」

「歴史上一度だけ起きた災害をたまにと言えるならそうなんでしょうよ!!」

吼えるヒイラギだが、その右手は既に機能しない。

ぷらんと垂れ下がった、焼けるような痛みだけを発するその部位に舌打ちしながらヒイラギは駆ける。

視界に広がる空は雨。否、弾幕の如く降り注ぐ飛礫によってなされる死のシャワー。

音を立てて陥没する地面を背に、持ち前の動体視力と研ぎ澄まされた耳だけを使って逃げ回る。

「――炎を使わないのですか」

「使えるわけないでしょうが! 飽和した魔素でコーティングされている岩を炎で燃やせるならやってみたいものね!!」

「――ならとっとと死んでくださいよ!」

「ところがぎっちょん、そうはいかないのよね! なんたって――バカにあんたを任されてるんだから!!」

右手を庇い、ターンとステップを合わせて駆けまわるヒイラギの姿は、まるで氷上を踊る精のようだった。

しかしながら凍った池には既に次々と礫が叩き落とされ、噴火した火山の真下のような有様ではあったが。

「そのバカは――約束を守ってくれるような人じゃないのに――!」

「あら、守ってくれたけど? ……また、再会できたもの」

「魔族の側について、わたしとの約束を裏切った――裏切った? あれ、違う、わたしは――」

「はっ、植え付けられた憎悪がはがれそう、ってところかしら。……そうなると噂のバカはやってくれたってことかな。流石はご主人様ね。絶対に言わないけどそんなこと」

弾幕は健在。ブレることも動揺することもなく、次々に降り注ぐ死の驟雨。

しかし、否しかし。

その担い手たる童女の様子は、明確に変化していた。

額に手を当て、何かを抑えるように呻いている。

それを好機と取って首を取りにいくような理由はヒイラギにはない。

けれど、それでもこれは"好機"だった。

「あ、ぐ、ぁ……!!」

「ヤタノ! いい加減、目ぇ覚ましなさい!!」

――紅蓮獄・火之夜藝速――

手を合わせて放射するそれを、ヒイラギは無理やり行使した。

右足で自らの痛む右手を蹴り上げ、浮いた瞬間にタイミングを合わせて左手と重ねて焔を紡ぐ。

うねり唸り吠えたてるように発生した極太の炎の柱は、まっすぐなりふり構わず、相手の回避など脳内に無いかのようにヤタノに向けて突き立てられる。

「――ぁ」

当たった――そうヒイラギが確信したその瞬間。

―― 神蝕現象(フェイズスキル) 【天照らす摂理の調和】――

一瞬で魔素と焔が散らされて無に帰った。

ですよねーと舌打ちしながらも、ヒイラギは気づく。

俯き、見えなかった彼女の瞳が、まっすぐに敵意を照らしてヒイラギを見据えているということを。

――前髪が、そして額にうっすらと、焼け跡のようなものが残っていた。

「命中、した――?」

「ヒイラギ――」

「そうよ、私よ! なんか用!?」

「わた、しは――違う、違う違う違う! わたしはただ目の前の障害を――違う、そうじゃない、あなたを、傷つけたく――あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

ヤタノ。

そう、彼女への同情を口にする――のは、早すぎた。

「ぐぁっ!?」

殺気。

悍ましい、それも大量の濃厚の殺気。そんなものを感じ取れる理由が、ヒイラギには思いつかなかった。

ただ、殺すという明確な意志を誰かが持っているのだとすれば。それは分かる。向けられた敵意に、悪意に、殺意に冷静に対処するだけなら、既に手慣れたものだ。

だから、今更、ただの、殺してやるという殺気に動揺する理由は本来無い。無いのに、なぜこんなに私の背筋を凍らせるのか。

簡単だった。

だって、この山が。この空が、この見渡す限りのフィールドが。

お前を殺すと、そう威嚇しているのだから。

「うっそ、でしょ」

一歩、下がった。瞬間、その足がぬかるみに取られた。

「ぐっ」

捻るように跳躍、その時極小の電撃が耳をかすめた。

「ヤタ――」

声をあげようとした、気付けば突然の豪雨がこの身を濡らしていた。

「これは――」

ごろごろと、空が唸った。まるで獲物を見つけた肉食獣がそうするように、舌なめずりすら幻想する空の殺意。

この状態で雷など受けようものなら、間違いなく自らは死に到る。

冗談じゃない。死にたくない。けれど、どう考えても。

ただ子供のように蹲り、呻き、苦しそうに泣き声を上げるあの少女を。

助けるどころか、戦って勝てる気すら失せたのだ。

「ははっ……正気を失って完全開放? 冗談じゃないっての」

悪態をつくことで気を紛らわそうとして、出来なかった。

空に立ち込めた暗雲以上に心の中に現れた黒雲は重くうずく。

こんな、世界が敵に回った状態で。

偶然を司る童女を掻い潜り、彼女を助けようなどと。

「いったい何が起きたってのよ。あとちょっとじゃない」

「魂ごと乗っ取られてるって話じゃなかったのか?」

「何かがはがれたのか、分からないけど。それでも今の彼女は苦しんで、助けを求めてる。なのに、これじゃ」

「……そうか、なら」

――鬼いさんがいっちょ一肌脱いでやろう。

「――ってアンタいつから!?」

「いつからっていやいつからでしょうや。ってこの台詞完全にどっかの世界救った英雄と同じセリフだな。まあ、いいや。追いついてよかった。ルノアールの野郎は片付けた。さらりと、いっちょ助けてやろうか」

「シュテン……」

気づけば、そこに居た。

いつも都合よく、現れる。

制御を失った右手と、悪意にさらされた全身は余りにもろく、挙句こんなところにバカが登場したとあっては脱力でへたり込んでしまうのも仕方がない。

「ああああああああああああああああああああああああ!!」

「おやおや、ご乱心のご様子で。あれ本当に助け求めてるんだよな? 助けてー! というよりもこう、あー人殺してぇー! みたいな欲望に見えるのは気のせいか?」

「バカ言ってないで、助けてあげて。ここまで頑張ったんだから、あんたももうちょっと頑張ってよ」

「あいよ、任された」

頼りない鉄の棒を担いで、群青の着流しを纏った陽気な妖鬼は朗らかに笑った。

ほんと、頼りになるったら。

「っしゃあ、行ってやるぜ!」

そのまま、シュテンは童女の方に突っ込んでいく。

「来ないで、殺します、殺してしまいます、死んでください、助けて、消え去れ」

「おうおう、まるで二人のヤタノちゃんが中に居るみてえな様子だなあ!!」

飛び込むように着地した地面は亡者のようにシュテンの足を取ろうとする。鉄棒を突き刺してさらに跳躍、雨を伝うように伸びてきた電撃の指先は、鬼化を交えて弾き飛ばした。

「そんな芸当が――シュテン……!」

「はっ、これでも近所じゃ鬼神のシュテンくんって呼ばれてるもんでなあ!!」

「ふざけないでください――相変わらずですね――それでもこれで潰します――近所ってレベルじゃないくらい響き渡ってるじゃないですか――その口、即刻閉ざしてやります」

振られた番傘に抉る軌跡。

発生する奇跡の名は流星群。

眺めた先に見えたお星さまが次々に、おのれをお星さまに変えかねないというのにも関わらず。シュテンは愉快そうに口元を歪めてひた走る。

「いいねえ、そうこなくっちゃ。お姫様を救うってんなら、その道中は厳しい方が愉快ってもんよ! 一度当たったら即死確定の横スクロールはきついがな!!」

鉄棒を一振り、風圧で礫を吹き飛ばす。器用にヤタノに当たらないように、それでいて豪快に勇ましく。

それでもヤタノの周囲に飛んだ石の礫は、彼女に近づいた途端に掻き消えた。

「結局それも魔導の産物か、なるほどな……!」

その距離は既にシュテンの間合いだ。

ヤタノの偶然の奔流は、それでも鬼神を拒絶し続ける。

「死んでください――来ないでください――」

「そいつは無理な相談だ! ってなんか正気っぽいヤタノちゃんにまで拒絶されたか今!?」

がびん、とその場に似つかわしくないリアクションを交えながらも、シュテンの勢いは止まらない。

ヤタノの繰り出す電撃も焔も土壁も風刃も乗り越えて、因果の逆転に手を伸ばす。

「ほら、すぐ行くぞヤタノちゃん!!」

「来ないで――殺してしまいます――!!」

「はっ、それでも助けてやる。一緒にまたお団子食べるって約束、まだ果たしてねえもんでな!!」

「そんなもので! そんなもので貴方は――!」

「そんなものって言うけどよ、俺はそれが大好きなんだ!!」

「っ――シュテン、貴方は――貴方は……」

もう、手の届くような距離だった。

ヒイラギの炎で焼かれた前髪はシュテンとの瞳の交錯を邪魔しない。

ヤタノの透き通った瞳には光。

いつぞやのような感情の死んだ目は何処かへ。

シュテンは今度こそ頬を緩ませて告げる。

「何をしてやれば、お前を解放できる」

「助けて、くれるのですか――」

「当たり前だろ。友達じゃねえか」

「わ、たしは、もう身体を殆ど動かせません――」

「おうよ」

「がんばって、聖典を追い出しますから――」

「おう」

「わたしの胸から出た、それを引っ張――」

「胸から出るのかヤタノバスター」

あ、はい、ヤタノバスターでいいです。

そう朗らかに笑って、ヤタノは。

しかし、空から降り注いだ泥に飲まれた。

「WHAT!?」

「なによ、そのリアクション、は……」

突然ヤタノとシュテンの間を阻んだその泥に、体裁だけでも驚いて見せたシュテンはしかし硬い表情を隠そうともしなかった。

あれは、ルノアールから発生した、

「墨汁だ」

「墨汁」

「ルノアールの身体から湧いた」

「沸いた」

「どうなるのか、俺にも分かんねえ。つか、俺ってばあれを追い越してきちまってたのか」

ぼりぼりと悠長に頭部を掻くのが、余裕のなさを誤魔化すポーズであることはヒイラギにもパスを通じて伝わってくる。

あの泥から伝わってくるのは途方もない魔素。それも悪意に汚染された、エゴの塊のような憎悪の奔流だ。

「えーっと、どうすりゃいいんだあれ」

『もう、無理です……逃げて、お願い……』

「ヤタノちゃんの声が聞こえる」

「悲し気な顔して空見上げないでくれる? 思いっきりあの泥の中から聞こえてるじゃない」

「わあってるよ。ふざけてねーとやってらんねえよ。どうなってんだアレ」

「ごめん、私にも分からない」

『もう、わたしだってあとどのくらい自我を保てるか分かりません……あの……本当に……ごめんなさい……』

すすり泣くような、そんな声色だった。

泥に飲み込まれた代わりに、完全に自我を取り戻したのか。

それは分からないが、何れにせよ危険な状態であることくらい、この場の面々なら誰でもわかる。

『あれだけ気を付けていたのにルノアールの魔導に引っかかって……シュテンにも、ヒイラギにも、本当に申し訳ないことをしてしまいました……』

『この泥はわたしの神蝕現象を取り込んでしまっています。きっと、おそらく、ルノアールの目的は最初からこれだったんだと思います。語らない聖典の契約者ルノアールの身を代償に、【天照らす摂理の調和】を暴走させて――その先に何をする気だったのかはわかりませんが、この神蝕現象がわたしの手を離れたら、どうなってしまうのか……』

『だから、逃げて……お願いです……本当にごめんなさい。シュテンも、ヒイラギも、他の、みんなも……わたしは、もう……』

悲痛なヤタノの言葉が周囲に響き渡った。

彼女の言葉の通りなら、この後にどんな災厄が待っているか分かったものではない。天照らす摂理の調和は全ての偶然を司る魔導だ。

それが使用者の手を離れて暴走などした日には、とてもではないが手に負えない。下手をすれば、魔王以来の世界の終焉が見えてきてしまう。

この世界は、そんな危険が簡単に引き起こされる。

ごくりとつばを飲んだヒイラギの隣で、シュテンは問いかけた。

「で、あいつ何だって?」

「聞けよ!!!!!!!!!!!!!!!!」

炎のハリセンでシュテンの頭をぶん殴った。

それでもいたた、と頭をさするだけのシュテンの鬼化はとんでもないが、ヒイラギは憤懣やるかたない。

しかしそんな彼女を置いて、シュテンはヤタノに問いかけた。

「んで、ヤタノバスターはどこから出るの?」

『……もう、無理です。この泥を避けられなかったのはきっと神蝕現象がそれを望んでいたから……わたしはもう、精神どころか魔導すら奪われて――』

「そういうのいいから。俺は、どうすりゃお前を助けられんだよ」

『無理です! もう……無理なんです……』

ヒイラギの目から見ても、状況は絶望的だった。

こんなのは、無理だ。魔素の泥によって引き起こされた汚染はヒイラギにとっても劇物だ。ましてや魔力に耐性のないシュテンともなれば、その状況は覆せない。

もしそれをどうにか出来たとしても、彼女を泥から救う方法がない。

それこそ魔導の門外漢のシュテンと、炎にしか適性のないヒイラギではとてもではないが。

「はっ、俺は諦めねえよ。お前はこの後、ほっぺにクリームつけながら高い高いされる刑が待ってるんだ。それを――それを完遂するまで、お前に死んでもらっちゃ困る」

「いつ作ったのよその刑法」

「今」

「知ってた」

ああ、確かに。シュテンの言う通り、軽口でも言っていなきゃ気がおかしくなりそうな状況だった。

と、そんな時だった。

がさ、と茂みから飛び出す二人の人影。

端正にあつらわれた揃いの制服はぼろぼろで、体中に木の葉が取り付いて、二人とも息も絶え絶えで、それでもしかし、目は爛々と輝いていた。

あの、二人は。

「間に合ったっぽい!!」

「これは間に合ってないのでは?」

背に刻まれた数字はVIIIとX。見慣れた、というには語弊があるが、いつの日か助けてくれた相手であり、敵対した相手だった。

「お、お前ら!?」

「やっほーシュテンくん! 本当はさっきもこの山に居たんだけどね、きみの関わる案件は手出し無用っぽい! って言われちゃってたから殆ど手伝えなかったんだ」

だけどね!

「ヤタノ・フソウ・アークライトがこの事件に巻き込まれてる……ううん、そもそもの原因になってるなら話は別! これはあたいたち帝国書院の問題でもあるっぽい! アスタルテさまをがくがく揺らして説得して、はるばる往復してきたよ! 間に合ってよかった!」

「ベネっち、お前……」

「その呼び方アホっぽいから辞めてって言ったっぽい!!」

ぷっくーと頬を膨らませる、そばかすの目立つカチューシャ少女。

ヒイラギと同じ炎を司る、帝国書院書陵部第八席ベネッタ・コルティナがそこに居た。

「なんで僕まで引っ張られてきたんだ……否、そうか、第三席を相手取るのに第八席では心許なさ過ぎるからか」

「ストレートに言い過ぎっぽい! 事実だけど!!」

そして、引っ張られてきたらしい第十席グリンドル・グリフスケイルも。

「久しぶりだね、ヒイラギちゃんも! 炎の力では劣るかもしれないけど、魔導のことならあたいたちにお任せ! あの泥の除去は出来ないけど、抑え込むことくらいなら出来る! だから、手伝わせて欲しいっぽい!」

へっ、とシュテンが鼻の下をこすった。

ああ、テンションが上がってきた。

「さんきゅーベネっち、最高だよ」

「――ごめんねシュテンくん。最初から手伝えなくて」

「なんだよ、気にすんなよ」

「お父ちゃん助けてくれたんだもん、恩返ししたいよあたいだって」

「そう、か」

シュテンの殆ど覚えていない世界線では、ヒイラギを助けてくれた頼もしい仲間だったらしい彼女。

それを鑑みれば恩返しをしたのは自分の方だった気がしなくもないが、差し引いても嬉しいものだ。

「そんなわけだ、ヤタノ! 準備は整ったぜ!!」

『……シュテン、貴方は』

「任せろって。囚われのお姫さまを助けるのには慣れてんだ!」

「うっわーシュテンくんくっさ」

「うるせえよ! またお前もお姫さま助けるーずの仲間なんだからな!」

「うっわーシュテンくん名前だっさ!!」

『分かっているのですか!? この泥は、この 世界(・・) は! この神蝕現象は! 貴方を、一触れすれば殺すのですよ!?』

改めて向き直れば確かに、凄まじい圧力が、プレッシャーが、ひしひしとシュテンを突き刺していた。

空も大地も、目の前に立ち塞がる泥も。

軽々とその身を持ち上げられて、泥の中に取り込まれたヤタノの表情でさえ、全ての制御はきっと彼女のものではない。

それでも、まあ。なんつーか。

「魂を燃やせ。越えるべき壁を前に、ハイになるイメージだ」

そう、お袋が言っていた。

「シュテン……?」

「面白ぇじゃねえか。一触れされれば死にかけるような力を持つ敵を前にするなんざ、俺だってそうそうあることじゃねえ。……そうでもねえか、まあいいや。とりあえず言いたいのはだ、最高にハイになってきやがったってことだよ……!」

にぃ、と吊り上がった口角は好戦的で、握りしめた鬼殺しが悲鳴のような唸りを上げる。

なあおい、ヤタノ。

「もしその世界が俺を殺そうとしてきてもよ」

世界を程度と言い切った救世の英雄が居た。

世界線を越えて旅をした堕天使が居た。

世界を変えた結果、仲間になってくれたヤツが居る。

世界を飛び回って俺を探してくれたヤツが居る。

なんだ、思ったよりも大したことはない。

「安心しろよ、ヤタノちゃん。 鬼神(おれ) は世界より強ぇぞ?」

『シュテン……貴方、は……』

熱く、身体中に迸る力は力強く。

シュテンに漲る、凄まじいまでの神域の魔素。

「さあ、後方は頼んだぜ」

「私を誰だと思ってるのよ」

「任せるっぽい!」

「よく分からんがな!」

「グリンドルは気が抜けるなあ」

へらりと笑って。

大地を蹴った。

『っ』

ヤタノが息を呑んだ。

何せ、米粒ほどにしか見えなかった距離に居たはずのシュテンが、既に眼前に居たからだ。

『シュテ――』

「すぐに愉快な俺たちのところに引っ張り戻してやるよ!」

『あの……』

「だから、全力で助かりに来てくれ。俺が救う。アイゼンハルトみてえにデカい世界を救うことは出来ねえが、ま、お前くらいちっちゃくてかわいい 世界(・・) なら、きっと俺でも役者は務まるさ」

『……シュテン、ありがとう』

きっと目の前の無表情は、心の中では泣き崩れているのだろう。

それを想像して余りあるほど、感極まった声色だった。

シュテンは最後にニカっと笑って、空中に襲い掛かってきた落雷を身体を捻って回避した。

『シュテン!!』

「安心しやがれ、そうそう俺に傷をつけるなんざ出来ねえよ!」

敵は偶然の権化。

そうであるならば、相手にとって不足無し。

雷撃を弾き、ハリネズミのような泥の槍どもを打ち払い、飲み込もうとしてきた大地を蹴る。

「魔素の泥で魔法攻撃できると思ったァ? 残念、地形ダメージ無効の下駄でしたァ」

泥がぶちキレた気がしたが、そんなものに気を取られている場合ではない。

怒り狂ったのか次々と、絨毯爆撃のように泥が襲い掛かってくる。

津波の如く、波濤の如く、轢殺せんとうねる奔流を、シュテンは最小限のステップで躱しながらひたすらにヤタノの様子を窺っていた。

「よし、これを通せば泥を抑えるには足りるっぽい!」

「全部魔導円陣描いたの僕なんだけど」

「気にしないっぽい! あたいってば絵とか下手だし!」

「そんな理由でやらせたのねアンタ……」

後方ではすでに魔導を操る準備を整えていた。

グリンドルが地面に描いた魔導円陣を宙に浮かせて、全員が渾身の魔素を流し込む。

水道にバケツをひっくり返したように勢いよく通されていく魔素は、そのまま魔導円陣を突き破りそれぞれの軌道を描いて泥に殺到していく。

「よし、上手くいったっぽい!」

片手でガッツポーズしながら、ベネッタは尚も魔素を流し込み続ける。これを尽きさせたが最後、泥を抑え込みヤタノを救うなどということは出来なくなるからだ。

「っとぉ!!」

ヒイラギが、円陣に使っている右手をそのままに左手で炎を放った。

使えない右手を有効活用できるだけましだと一人で笑う。

こちらを脅威と判断したのだろう、暴れる泥が三人を襲おうとしたのだ。

「これを維持しながら魔導使えるなんて、本当に強くなったっぽいね、ヒイラギちゃん」

「元から出来たの!」

「はいはい」

軽口を叩きあうのも一瞬。

ばちん、と弾かれたように魔導円陣がかき消えた。

呆けるヒイラギを置いて、グリンドルは黙々と同じ魔導円陣を描き始める。

「な、なに?」

「何って、"偶然"魔素を消されたんでしょ? そりゃそうなるよ、っと!」

―― 神蝕現象(フェイズスキル) 【大文字一面獄炎色】――

日輪属性の炎が躍る。彼女らを包み込むように展開した炎が、一時的にとは言え悪意から全員を守り続ける。

「――ヤタノ・フソウ・アークライト、ううん、天照らす摂理の調和にそう簡単に勝てるわけがない。抑え込めるのは、魔導円陣を描いて魔素を通して縛った一瞬。あとはシュテンくんが頑張るしかない。あたいたちの魔素が尽きたら、敗北」

「っ――」

「そういうことになるね」

ベネッタに同意しながら、グリンドルはひたすらに魔導円陣を構築し続けていた。彼はシュテンのことも、ヒイラギのことも見ようともせずただただ魔導円陣を刻んでいく。

何度徒労になるかも分からないのに、文句ひとつ言わず精密に。

「――僕は魔族を討伐せねばならないと思っている」

口を開いたのは、その時だった。

「第八席に、妖鬼と九尾を助けようなんて言われた時は気でも狂ったかと思ったよ。いや、元々彼女は魔族も嫌いじゃなかったみたいだけどね。それでも、帝国書院の、それも書陵部がやることじゃない。なのに、なんでかな」

「――ああ、やっぱり、そうなんだろう」

自身の中に生まれた感情に、自身で決着をつけたらしい。

不思議だな、と口にしながら、グリンドルは円陣を完成させる。

「――突然連れてこられた場所では、人間が人間に操られて戦わされていた。魔族はその不憫な少女を友達だと言い切って、全力で手を差し伸べていた」

完成した魔導円陣に、全員が無言で手を添える。

その瞬間だけ弱まる泥の勢い。シュテンが一息ついてヤタノの方を睨むのが見えた。敵意ではなく、一瞬も見逃すまいとしているのだろうことが伺える。

しかしそれを視界に入れた時には既に魔導円陣は弾け、かと思えばグリンドルはまたしてもすぐさま円陣の作成に入っていた。

「尊いと、思ったんだ。種族にとらわれず、手を取り合うその様が。いつかのベネッタがシュテンを助けた気持ちが分かった。何のことはない、魔族だからとか人間だからとか関係なく助け合えるんだって、それを見せつけられて初めて、僕は」

す、と一瞬だけヒイラギを見上げる眼光は翡翠。

光の中にあるのは悔悟。

「きみを魔族というだけで処分しようとしたことに、謝ろうと思った」

「あんた……」

「あの妖鬼は帝国にとって危険だと思うし、その眷属であるきみと馴れ合うつもりはない。ベネッタにとってこれが恩返しだというのなら、僕のこれは単なる迷惑料だ」

迷惑料。その言葉に、どれほどの意図が込められているのかは分からなかった。

でも、ただ人に迷惑をかけたというだけで、目に見えて削れていくほどの魔素を費やせるものなのか。

「グリンドルは魔導円陣さえ描けばいいって言ったっぽい。保有魔素少ないんだし」

「そうはいかない。迷惑料の支払いは、おのれの全てを一度流すことと決めた」

「いつ?」

「今だ」

あっそ、とベネッタが言うのと同時にまたしても魔導円陣が起動する。ヒイラギは何も言わずに手を翳し、グリンドルも同様だった。

そしてベネッタも、口で言うほど彼を止めようとしなかった。

「もともと、ヤタノが招いた問題だし、帝国書院が手を貸すのは当たり前ってね!」

「魔族に手を貸すとは何事かって第一席にどやされただろうに」

「大丈夫大丈夫、シュテンは死んだって言ったから」

「絶対信じてないだろうしめちゃめちゃ酷いなそれ」

リズムよく軽口を刻みながら、グリンドルはまたしても魔導円陣を描く作業に戻り、ベネッタは流しているありったけの魔素を、少しでも取り込もうと空に魔素吸収の呪文を刻んでいた。

「まったく」

ヒイラギは呟く。

「これで助からなかったら、あの子供絶対に許さないんだから」

「あはは、あたいもそう思うっぽい!」

胸の中に、まだある程度の魔素を残したまま。

砂塵が巻き起こることもなく。大地を割る衝撃が生じることもなく。

それでもシュテンはただひたすらに戦っていた。

泥の勢いと、大地の指先と、空の悪意を一身に受けて尚、その全てを薙ぎ払い、振り払い、切り裂き、蹴り穿って駆け続ける。

この山を飲み込まんとする魔素の泥、その元凶を救ってやるために。

「オラオラどうしたヤタノちゃん!! へばったかァ!!」

『……ぐ、ぅう……』

「俺はずっと待ってんぞ! お前が! 気合で! 心から泥を追い出すのを!! 地獄のような偶然の中で! 世界とがっぷりよっつで戦いながら! ぶっちゃけ辛ぇけど!! それでもお前を待ってる!! 気合入れて戻ってこいや!!」

時折出現する魔素の鎖が、泥の勢いを阻んでくれているお陰で大事には至っていなかった。けれど、それでさえじり貧だ。分かってる。

シュテンは肺の奥底から辛さと諦念を追い出しながら、四方八方を飛び回ってヤタノの脱出を待っていた。

『シュテン……』

「おう、いるぞ。諦めてんじゃねえ! この後遊びに行くんだからな! もう二度と人さまにご迷惑をおかけしないようにテメエを肩の上に載せてやる! ああ!? 俺の存在が迷惑だ!? ぶっ飛ばすぞこの幼女!」

『言ってません……!』

「へっ、反応出来んじゃねえか! そのまま踏ん張れ! 俺が言われたことやってんだ! お前が自分に課したことを、出来ないなんて言わせねえぞ!!」

降り注ぐ雨に雹が混じる。

その痛みに耐えながら、それでも巨大な氷礫だけは的確に避けてシュテンは走った。飛んだ、転がった。

地面からも空からも、正面からも背後からも。

確かに世界を相手取るのは大変だ。しかし、鬼神化した自分なら、どんな難関も乗り越えられる。そんな気がしていた。

『シュテン』

「おう、どうした!!」

『ごめんなさい』

「なんだ、諦めんのか?」

『違います……! こんなことに、巻き込んでしまって、本当にごめんなさい……!』

「はっ、気にすんなよ。なんだ、意外と喋れんのか。それとも――喋ることで紛らわすのか?」

『後者、でしょうか。わたし、心は弱いんです』

「そうか、意外な弱点だな!」

『お話を、聞いてくれませんか』

「ああ聞いてやる、恥ずかしい話でもなんでもな!」

ありがとう、ございます。

時折苦痛に呻くような声を挙げながら、ヤタノはそれでも、振り絞るように言葉を紡いでいるようだった。

『……わたし、生まれた時から一人ぼっちだったんです。ころっと騙されてこんな力を植え付けられて』

『それでも力は全能で、なんだって出来ました。それではしゃいだこともありました。見た目通りの子供だったわたしは、それでよかったんです』

『でも……この力の本質はもっともっと悪意に満ちていて。"壁を越えた"わたしの力は、もう誰にも止められないものになっていました』

『ルノアールにとっては計算通りだったんでしょう。もっと言えば、この力のせいでわたしがはしゃいで、その強大な力に誰もが近寄らなくなるところまで含めて』

『けほっ……』

『わたしはそのままアスタルテに化け物として抱えられて、国単位の敵に対するカウンターとして使われるようになりました』

『帝国を守るため、なんていえば聞こえはいいですけど……本当は……わたし、は……』

戦いたくなんて、ない……。なかった……。

『誰も……! わたしを普通の人としてなんて、扱ってくれなかった!』

それは、今まで誰にも口にしたことが無い弱さだった。

悲痛の叫びは幸い、この距離で言葉を交わすシュテンにしか届かない。シュテンにしか届かないなら、それでよかった。

この人なら、聞いてくれる。こんなふざけたヤツなら、聞いてくれる。

世界を救う英雄に、ヒロインがして良い弱音じゃなくても。

わたしを救ってくれると豪語した魔族に、 邪悪(わたし) が弱音を吐くのは許して欲しい。誰にも許されなくても、貴方に許されれば、それでいいから。

「まあ、ずっと見た目の変わらない子供が国ごと始末できる力を持ってたらそりゃあな。普通の人なんて無理だわ」

『……でも、魔族は違いました』

「そうだな。魔族は違う。俺なんかは別だが、後ろで頑張ってる可愛い眷属も結構な年上だ」

『……わたしの……汚い本音を聞いてください』

「おう。聞いてやる」

『聞いてしまったらわたしは嫌われるかもしれません。助ける価値なんてないと思ったら、見捨てて 世界(わたし) を殺してください』

「――」

『魔族が、羨ましかった!! こんな化け物でも、普通に生きていられる魔族が!! けれど、わたしは狂化魔族と敵対し、魔王軍とも何度も戦った。決定的に亀裂が入ったまま、魔族には恐れられ、人間からは敬遠される。それが百年も続いていて、わたしは……』

『わたしは、魔族と人間が仲良くなんてきれいごとを並べながら、ただ、ただ!!』

『寂しかったんです!!!!!!!!』

『……シュテン、貴方には迷惑をかけました』

『たった数度会っただけの相手への感情を、たとえルノアールに増幅されたからと言ってあそこまで拗らせるなんて、ちょっとどうかと思ったと思います』

「あ、うん」

『……あれは、その。貴方が、』

『数十年振りに現れてくれた、わたしをただの人間として扱ってくれる相手だったから……友達というのはわたしにとって、本当にかけがえのない相手だったんです……』

『すみません、恥ずかしいことをべらべらと。ここまで言うつもりじゃなかったんです。けど……もう……』

「喋ってると気がまぎれるっつったっけか、ヤタノちゃん」

『へ? あ、はい』

「……なるほどな、表情くらいの制御は、取り戻せたみたいだぜ」

『は……?』

依然遅い来る泥の波。

空から鉄槌のような雷撃の嵐。

乱気流のように吹き荒れる風の刃。

それらを掻い潜り、泥に半分以上飲み込まれたヤタノの前に現れたシュテンはにやにやしながら言った。

目を閉じ、死人のような無表情だったヤタノの顔が。

夢の中で恥ずかしい目にでも合っているような童女そのものの表情になっていて。それを、シュテンはぷーくすくすと笑いだした。

『なっ、あっ、ちょっ、シュテン!!』

「かっわえーのなんだこいつ、どうやったらこう、画像とかに残せるのかな、そーゆー魔導具シャノアールのヤツは持ってるかな、チクショウこの場にいねえ!」

『あ、や、見、見ないでくださいお願いします!』

「見ないっつったって、見なかったらヤタノバスターの予兆が見えないじゃねえか」

『そ、そうですけど――』

ヤタノが言い淀んだ隙を狙って、シュテンは言葉を返す。

「でもま、安心しろ。我欲にまみれてる方がちゃんと"人間"らしいぜ。それに、お前が昔、力を手に入れる前からヒイラギのことを案じて、魔族と人間の間を取り持とうとしていた優しいヤツだってこともちゃんと知ってんよ」

『……ぁ』

「お前は十分、人だよ。世界を使役できるから何だって話だ。っつか、俺がそうやってお前に友達として認められてたってんなら、話は簡単なんだよ」

『簡単……?』

問いかけたヤタノに、ああ、と頷く。

続く言葉が出てくるまでの間は、そう長くはなかった。

戦いのさなかだ。シュテンを殺さんと、今も世界が牙をむいている真っ最中。あたりまえだが短い時間のやり取りだ。

だが、それでも何故か。ヤタノにとっては、シュテンから言葉が返ってくるまでの時間が、やけに長く感じられた。

いったい、何を言うつもりなんだろう。

わたしは、今。

弱音も本音も洗いざらい吐き出して、醜い部分を全て曝け出したのに。それを全て肯定されてしまって、なんだかふわふわ酔ってしまっているような気さえするというのに。

これ以上、何かを言われたら。

良くないものに、おぼれてしまいそうな。そんな予感がひしひしとして。

「世界そのもののようなヤツと友達。これもまた、一つの浪漫じゃねえの」

な? と屈託のない笑みを浮かべたその妖鬼に。

一気に気持ちが呑まれてしまった。

「出やがったなああああああああああああああ!!」

それと、ほぼ同時。

シュテンの叫びで我に返ると、確かに自分の中から何かが出てきているような気がした。

「こいつを、引き抜いてやるぜ!!」

『お願い、しますっ……!!』

熱に浮かされたように、ヤタノは頷いた。

『助けて……!! シュテン……!!』

「ま、か、さ、れ、たああああああああああああ!!」

ぐ、と握りしめた黒い靄のようなナニカ。

しかし瞬間、がくりとシュテンから力が抜ける。

そして、ヤタノの方も脳に割れるような痛みが迸った。

『あぐっ……』

――わたしを拒絶するのですか、ヤタノ……!!

声が、聴こえた。

それは確かに、自分の声そのもの。

けれど無機質で透明な、感情の伝わらない声色。

すぐに気づいた。これが、おのれの力。それを分離させたものの正体だと。

『貴女を放っておいたら、世界が滅ぶのでしょう。そんなものに、この身を預けるわけには参りません』

――欺瞞ですね。ヤタノの本心はそんなものではない。もとより、そのような高貴な意志にわたしが弾かれるはずがありません。

『ならっ……!! 知りません……! とにかく、わたしは貴女の力など欲しくはない……!』

――愚かな。……否、その愚かさ故に引きはがされそうなわたしの言うことではありませんか。せいぜい、貴女から引きはがされた後に暴れるとしましょう。

『……そう、ですか』

――ままなりませんね。永い時間を貴女の中で過ごしたというのに、この程度の感情に押し切られるとは。ルノアールとかいう術師の戯言に乗ったのが失敗か。

『なら、その感情というのが、その程度の感情、などではなかったのですよ』

――随分恥ずかしいことを言いますね。まあ、いいでしょう。……さようなら、仮初の宿主。

『もうさんざん恥ずかしかったあとですので。ええ、さようなら』

ぐん、と何かが引き抜ける感触がした。

しかし、シュテンの動きは鈍い。

掴んだその魔素の塊が、あっという間にシュテンから魔素を削っているからだった。

「ヤタノちゃんは頑張ったんだ! ここで俺が頑張らずに居られるわけねえだろうがよ!!」

叫びとともに一閃。しかし、楔のような形状をしたその黒い靄は、そうそう抜けてはくれなかった。どころか、なけなしの魔素をどんどんと削られる。

魔族にとって魔素は生命力そのものだ。

それを失うということは、人間が水分を奪われるに等しい。

「ぐ、うううううううううううううう!!」

「しゅ、てん……!!」

「はっ!! 目ぇ覚めたじゃねえかヤタノちゃん!!」

見れば、楔が抜けきらない状態でも、ヤタノは意識を取り戻しているようだった。いつかのようなとぼけた童顔は、先ほどの懺悔のせいか頬を朱に染め上げて。それでもまだ身体は動かないようで、何もできない自分を責めるように俯いた。

「ありがとう、ございます。本当に……助けて、くれるなんて」

「はっ……!! ここからだ! まだ安心は出来ねえさ!!」

「シュテン。その……魔素の、補給なのですけれど」

「おう、してえのはやまやまだが」

「わたしはこう見えても、魔素の保有量は莫大です。結構持っていかれてしまいましたが、それでも。なので、わたしから受け渡します」

「へ? おう、どうやって?」

額から汗を流しながら、首を傾げるシュテンに。

ヤタノは意を決したように目を閉じて――

「眷属ちゃんからのーっ、素敵な魔力供給~~~っ!!」

後方でそんな声が聞こえた。

瞬間、膨れ上がるシュテンの魔素。

ヒイラギの指パッチン一つで、瞬間的に増幅した魔素が。

最後の最後に、楔を抜く後押しとなった。

「おお!? すげえ!? どうやったんだ!?」

「船の上でパスを強化したって言ったでしょ。私の魔素も使えるようになってんのすっかり忘れてたみたいね!!」

「あ、あー。あれか」

思い返せば、そんな恥ずかしいことも。

「ってなわけでヤタノ、そんな無理なことしなくていいのよ」

「……」

振り向けば、ヤタノが笑顔に青筋を浮かべていた。怖かった。

「それはともかく、おおりゃああああああああああああ!!」

ヒイラギから送られてきたありったけの魔素を使って、シュテンはヤタノの"楔"を引き抜いた。

崩れ落ちる、泥の沼。

どさりと落とされたシュテンとヤタノは、しかしシュテンがヤタノを支えるように落ちたおかげで彼女は無傷。

だが、疲れ切ってしまったのか。

シュテンは、そのまま文字通り泥のように眠ってしまった。

「……シュテン」

ありがとう。

との言葉は飲み込んで。

これは後で言うべきだと己の胸に刻んで。

と、そこで近づいてくる三つの足音。

「やったっぽい!?」

「やったのね!?」

「やったな!!」

三人そろって似たようなことを言う、後方支援組にヤタノは首を振った。

息を呑む三人をそのままに泥の沼を見据えると、そこには。

単身で浮かび上がった泥が、ぎょろりと目玉を見開いて五人を睨み据えているところだった。

――それでは、満身創痍のお前たちを、食ってやるといたしましょう。

無機質な、ヤタノと同じ声。

「これは……」

「わたしの 神蝕現象(フェイズスキル) が、形を取ったものです。語らない聖典によって独立した、悪意ある偶然を引き起こす魔素」

「そんな……」

ヒイラギも、ベネッタもグリンドルも魔素を使い切るぎりぎりのガス欠状態。

頼みのシュテンは気絶したままで、ヤタノも神蝕現象を持っていかれた。

それで、この【天照らす摂理の調和】と相対?

冗談ではない。

それは三人の心中を正しく示すものだった。

けれど。ヤタノはまだあまり言うことを聞かない身体に鞭うって立ち上がる。

番傘を支えによろよろと、それこそ老婆のようにしかまともに立つことが出来ない状態で。それでも、自らの神蝕現象を睨み据える。

――今更、貴女に何ができるのです。

「あら、何が出来ると思いますか?」

響き渡る声は遠く。

けれど、ヤタノはそんな襤褸布のような風体でも、堂々と相手を見据えていた。

泥の、魔素の具現。それを睨み据える童女が何をしようとしているのか、背後のメンバーには何も分からない。

「貴女は【天照らす摂理の調和】であって、それ以上でもそれ以下でもない」

――そうですが。貴女はそうなると、ただの童女になりますね。

「いいえ?」

首を振って。

ヤタノは、番傘を静かに泥に向けた。

「わたしは壁越えをして貴女の力を手に入れた。である以上、前提条件が必要だと、そう思いませんか?」

――なに。まさかっ……!!

驚愕。姿は泥のまま、瞳の動きは変わっていなくとも、【天照らす摂理の調和】が何かに気付いたことは分かる。

ヤタノは、小さく微笑んで。

ちらりと、 世界(じぶん) を救ってくれた青年に目をやった。

甦るのは、いつかの願い。

『きっとあの優しい姉を助けるんだ』

『魔族と人間の絆を作るんだ』

思い返すのは、いつかの寂寥。

『寂しかったんです』

『数十年振りに現れてくれた、わたしをただの人間として扱ってくれる相手だったから……』

だから思い出す、上書きされてしまった己の魔導を。

最初に願った、わたしの神蝕現象を。

『己の魔導を救いの手に』

―― 神蝕現象(フェイズスキル) 【大地に恵む慈愛の飽和】――

降り注いだ太陽の光が、周囲を埋め尽くした。

――や、めて、わたしはまだなにも……!!

眩いばかりの光の先で、何かが呻き、爆ぜたような気がした。

目が慣れ、魔素が均され、そして温かな光が空を包んだことに気付いた頃。

全員の魔素がある程度回復し、全員の傷が殆ど癒え、荒らされた大地が元に戻ったのを確認し、泥のあった場所が綺麗に蒸発したことを見届けたヤタノは。

小さく笑ってから、倒れたシュテンの上に折り重なるように寝転んで気絶した。

安心したように眠りに就いた彼女の姿は、懐いた青年と添い寝する童女のように見えていた。