軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

80 好都合ではあるけれど

***

ガルクハイン皇太子専用の馬車は、街道を南へと向かっていた。

(ここまでの旅程も、なんだかあっという間だったわね)

ここから半日ほど進んでいけば、目的地がぼんやりと見えてくるはずだ。

もうすぐ訪れる夏に合わせ、涼しげな若葉色のドレスに身を包んだリーシェは、馬車の向かい席に座って書類を読んでいるアルノルトへ目を向ける。

(それにしても驚いたわ。……まさかこの遠出に、アルノルト殿下が同行を申し出て下さるなんて)

そしてリーシェは一週間前、アルノルトと交わしたやりとりを思い出す。

***

『つまりですね。私が幼い頃にディートリヒ殿下と結んだ婚約が、正式には破棄されずに残っているのです』

アルノルトの執務室で、リーシェはそんな風に説明した。

目の前のアルノルトは、その意味を理解してくれたらしい。

『――エルミティ国の王太子と、「婚約の儀」を交わしていたのか』

『仰る通りです。とっても古い儀式なので、今時はどこの国の王族も行わないものらしいですが……』

『婚約の儀』は、『婚姻の儀』とは別に行われるものである。

これは多くの場合、政略結婚のときなどに、許嫁同士である子供たちを連れ出して行う儀式だ。

政略結婚など十数年かかる長い計画を、軽々しく反故には出来ないようにするために結ばれるものだった。もっともディートリヒの場合、そんな契約があることはお構いなしだったのだが。

『どうやら私の両親が、エルミティ国王陛下に願い出たようで』

ほとんど霞のような記憶だが、リーシェはおぼろげにそのことを覚えている。

朝早くから支度をさせられ、とても眠かったということと、いつもと違う雰囲気に充てられて大はしゃぎするディートリヒのことしか思い出せないが。

『あの男との婚約が、いまだに神殿側で登録されたままになっている、と』

『私も寝耳に水でした。なにしろ婚約の儀だけでも珍しい上、その契約が破棄されるなんて前例が少ないものですから』

リーシェは目を閉じ、神妙な顔でうんうんと頷く。

『すっかり忘れていましたね。――「大神殿に行って、婚約破棄の手続きを済ませないと、他の男性と結婚できない」だなんてこと!』

もちろん真っ赤な嘘である。

ディートリヒ以外の男性と結婚する場合、事前に大神殿での婚約破棄申請が必要なことを、リーシェはちゃんと知っていた。

あれは四回目の人生において、とある事情で大神殿に立ち寄ったときのことだ。

司教から『儀式を交わした婚約者と縁を切るには、正式な手続きが必要だ』という話を聞き、その場で慌てて申請したのである。

(今回の人生では、分かっていたけれどわざと破棄せずにガルクハインまで来たのよね。 ……どうしてもアルノルト殿下と結婚したくないと思ったら、ディートリヒ殿下との婚約の儀が破棄されていないことを理由にして、隙を作って逃げ出そうと思って)

ほとんどの国では行っていない儀式なので、アルノルトも確認しないだろうと踏んでいたのだ。

リーシェは俯いたまま、上目遣いにちらりとアルノルトを見遣る。

(……だけどもう、これは破棄しても大丈夫な気がするわ。「どうしてもアルノルト殿下と結婚したくない」とは、思わずに済みそうだし。……アルノルト殿下がやさしくて、やさしいし、やさしいから)

『なんだ』

『いえ、なんでも!』

とはいえ、せっかく残しておいた婚約だ。

普通に破棄するだけではなく、目的のために利用しなければ勿体ない。リーシェはこれをきっかけに、とあることを調査するつもりでいた。

(――ずっと気になっていたんだもの。アルノルト殿下と、クルシェード教団の関係について)

この世界には、かつて女神がいたという。

その女神を崇め、奉り、教えや暦などを作ったのがクルシェード教という名の教団だ。

彼らの教えは世界中に広まり、多くの人々に信仰されている。リーシェの故国や、ガルクハインだって同様だ。

信心の深さに個人差はあれど、ほとんどの人がその教えに影響されながら生きている。結婚式では女神に愛を誓い、女神の生まれた日には家族でお祝いをするのだ。

大半の貴族は、名前と姓のほかに、教会での洗礼名を与えられる。

リーシェの場合、『リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナー』という名前のうち、『イルムガルド』が教会に授けられた洗礼名だ。

そんな習慣が馴染むくらいに、クルシェード教と女神の教えは浸透しているものだった。

(ガルクハインは、この世界で強い力を持つ『国』のひとつ。だけど、そんな強大国家と同じくらい強い力を持つのが、ガルクハインよりもずっと長い歴史を持つクルシェード教団だわ)

しかし、それほど大きな教団の歴史も、ひとりの人物によって灰となるのだ。

(――いまから五年後、皇帝となったアルノルト殿下が、教団のすべてを焼き払う)

各地の教会に火を放ち、司教たちを引き摺り出して、信者の前で殺していく。

(経典も燃やされ、信仰のシンボルは徹底的に破壊されて、跡形もなくなったはず。私も、一度はこの目で見たことがある)

この人生を始める前は、アルノルトのそうした行動について、大きな力を持つ組織の破壊が目的ではないかと考えていた。

けれど、今回の人生で彼と話をし、ずっと気になっていたことがあるのだ。

(離宮から見下ろすことが出来る、ガルクハインの城下町。初めてこのお城に来た日、街の東に見える尖塔が何なのか、アルノルト殿下に尋ねたことがあったのに)

アルノルトはこう言った。『教会だ。時計塔の役割も兼ねていて、朝と夜に定刻を告げる鐘を鳴らす』と。

しかし、テオドールの答えと比べれば、その回答は不自然だ。

(アルノルト殿下の説明は、教会そのものにはほとんど触れず、 時計塔としての役割にしか言及なさらなかった)

未来のアルノルトの所業も相まって、そのことが僅かに引っ掛かっていたのである。

(……『教会』と呼ばれる建物の説明で、それしか教えてくれないのは変だわ。アルノルト殿下なら弟君のように、教会の権威や政治的価値を説明してくれそうなものなのに。それらを敢えて避けたとしか思えない)

もしかするとアルノルトは、教会に対する人知れない感情があるのかもしれない。

その感情が、五年後の凶行に繋がっているのだとしたら、リーシェにはなんとしてもそれを止めたい事情がいくつかある。

(それに、今回の人生で『あの方』に会えそうな機会はちょうど今だけだもの。……とはいえ、調査のため大神殿へ近づくには、不自然に思われない理由を用意しないとね)

であれば、ディートリヒとの婚約破棄はちょうどいい材料になるではないか。

この計画を思いついたのは、つい先日受け取った手紙のおかげだった。リーシェはそれを取り出して、アルノルトに見せる。

『婚約破棄の手続きについて、ディートリヒ殿下のいまの恋人であるマリーさまがとても頑張って下さったそうです。婚約の儀は滅多なことで破棄できませんが、マリーさまはご自身をディートリヒ殿下の不貞相手と名乗り出ることで、ディートリヒ殿下を原因とする婚約破棄を進めてくださいました』

アルノルトはつまらなさそうな表情で、リーシェの渡した手紙を眺めた。

『ディートリヒ殿下側の手続きは終わっているそうで、あとは私が大神殿に向かえば良いのだとか。ディートリヒ殿下とお会いせずに済みそうなので、迅速に処理は進められるかと思われます』

『……』

『ですので急なお話ですが、近日中にドマナ聖王国の大神殿まで出向いてもよろしいでしょうか。早ければ一週間ほどで、戻ってくることが出来るかと』

『……』

お願いのていを取っているが、アルノルトはここで頷くしかない。

なにしろ大神殿に行かなければ、リーシェはディートリヒ以外の男と結婚できないのである。

アルノルトの思惑は知らないが、リーシェと結婚しなければならない事情がある以上、どうあっても許可が出るだろう。

(本当は、アルノルト殿下にも一緒に来てほしいのだけれど)

眉根を寄せ、いささか機嫌の悪そうな顔をしているアルノルトを見て、リーシェは考える。

なにしろ今回は、アルノルトの心理に引っ掛かる部分を知るための調査だ。当の本人がいてくれた方が、動きやすいのは間違いない。

(とはいえ、公務があるし絶対に無理よね……私ですらこの時期に留守にするには、婚姻の儀の支度を大急ぎで進めなくてはいけなかったし)

諦めようとしていた、そのときだった。

『……では、俺も同行する』

『えっ!?』

思わぬ言葉に声を上げる。隣に座ったままのアルノルトは、平然とした表情でリーシェを見た。

『なんだ。都合が悪いのか』

(いえ、むしろその逆ですが!?)

都合が良すぎて驚愕だ。

思惑が分からずに戸惑うと、アルノルトは長椅子の背凭れに肘を掛け、こう説明してくる。

『ちょうど、教会に関する公務を溜め込んでいる。面倒で後回しにしていたが、直接顔を見て詰められるのであれば、その方が早いからな』

(……なんだか嘘っぽいような……)

『それに……』

『?』

言葉の続きを待って首を傾げると、アルノルトはしばらく沈黙した後に、こう口にした。

『いいや。なんでもない』

これは随分と珍しいことだ。

アルノルトが一度言いかけた言葉を取り消すだなんて、滅多に見られる振る舞いではない。

やはり教団に関することでは、いつもと態度が違うような気もする。

(気がするだけで、勘違いかもしれないけれど。とはいえ、一体どうして……)

じっと見つめてみるのだが、こんなことでアルノルトの考えが読めるはずもなかった。

であれば、ここは有り難く同行してもらうのが一番だろう。

そうして数日後、ドマナ聖王国への馬車は出立し、さらに数日を掛けて今日に至る。