作品タイトル不明
123 未来の夫に悪戯します
入り江になっている小さな砂浜は、城の通路からしか入ることが出来ず、皇族と客人しか訪れないそうだ。
白い砂浜には、誰の足跡もない。浅瀬の水色から淡いエメラルド、そして紺碧へと移り変わっていく美しい海に、どうしてもわくわくしてしまう。
「アルノルト殿下!」
ひとりで駆けてきたリーシェは、後ろのアルノルトを振り返った。
アルノルトは上着を着ておらず、白いシャツに黒のスラックス姿だ。暑くないかが心配だが、慣れているのか平然としている。
「殿下。はしたないかもしれないですが、靴を脱いでも?」
「好きにしろ。怪我はするなよ」
「はい!」
リーシェは岩陰にバスケットを置くと、帽子を脱いでからそこに被せた。自作の日焼け止めを塗っているので、肌への負担は問題ないはずだ。
そしていそいそと靴を脱いで、さらさらの砂に素足を乗せる。
先ほど雨が降ったお陰で、火傷しそうな熱さではない。陽光に照らされた砂は、じんわりとぬくもりを伝えてくれた。
(風が冷たいお陰で、暑いけど涼しい……! 不思議な感じ)
リーシェが纏うワンピースは、ふくらはぎまでしかない丈で、シフォン地を幾重にも重ねたデザインだ。ふわふわしたその裾が、風と遊んで揺れている。
昨日も思ったが、この街の海風はまったくべたべたしていない。ほのかな潮の香りと共に、涼やかに吹き抜けてゆく。
「もう、すっかり夏なんですね」
リーシェがガルクハインに来たのは、五の月の半ばである春だった。
季節の空気を噛み締めながら、こちらに歩いてきたアルノルトに言う。
「こんなに海が綺麗なら、水着を持ってくればよかった……」
「……」
「すごく可愛い水着を持っているんですよ。上下に分かれているのですが、上が綺麗な青色で、下がひらひらのスカートみたいな白で」
残念な気持ちでそう言うと、アルノルトが眉根を寄せた。
「殿下?」
「…………泳ぐのに良い時期は、まだ少し先だろう」
「まあ、確かにそうですよね。いまの時期のこの海域は、離岸流も起きやすいですし」
納得して頷いたあと、リーシェは波打ち際に行ってみた。
穏やかな波が打ち寄せて、裸足のつまさきが海に触れる。足首までが浸されたと思ったら、すぐにその波は引いていき、足裏の砂が崩れる感触がくすぐったい。
リーシェはワンピースの裾をつまんだまま、もう少し深いところまで進んで行く。
「ふふ、海面が眩しい!」
嬉しくなってそう言うと、浜辺に立ったアルノルトが静かに言った。
「……そんなに楽しいか」
「はい、とっても」
そう答えると、分からないものを見るようなまなざしを向けられる。
それを受け、リーシェは「たとえば」と海を指さした。
「あの辺り。周囲の海面はなだらかなのに、あそこだけ突然白波が立つでしょう?」
「……ああ、そうだな」
「恐らくあの下、海底には、何か大きくて重たいものがあります。どれくらいの大きさの物かも、波の高さで分かるんですよ」
それは、商人人生で旅をする際、船乗りに教わったことである。
「海底が一部だけ盛り上がっているのかもしれないし、何か大きなものが沈んでいるのかも。……深い海の底に何があるのか、想像するだけで神秘的ではありませんか?」
ちゃぷちゃぷと海面を揺らしながら、リーシェはアルノルトを振り返った。
「もしかしたら、海賊の落とした宝箱が沈んでいたりして」
「……だとしたら、相当面倒なことになるな。宝の所有権をめぐって、権利者となりうる人間を集めなくてはならない」
「ううっ、現実的な未来予想……!!」
それでもアルノルトは、リーシェの突飛な想像に付き合ってくれる。
そう思うと、なんだか嬉しくなった。
「……私は幼い頃、自室で勉強をしながら、教本に出てくる広い世界の欠片を必死で集めていました」
話しながら、懐かしくて目を細める。
「例文に出てくる『海』とはなんだろう。刺繍に入れるよう指示された絵の花は、本物ならどんな香りがするんだろうって、想像するとなんだか励まされたのです」
「……」
「だから、あの時は空想するしかなかったものに触れられるのが、とても嬉しくて」
実際のところ、これまで繰り返した人生において、海には何度も来たことがある。
それでもいつも、こうして目にする度、とても新鮮に美しい。
部屋に閉じ込められ、寂しくて泣きそうになりながら描いていた景色よりも、とても綺麗でたまらなかった。
「私が海に行きたいと言ったから、砂浜まで連れて来てくださったんですか?」
「……まあ、それもあるな」
この言い方では、他にも理由があるらしい。
けれども教えてくれそうにない雰囲気なので、聞き出すことは諦めた。
それよりも、出立前のリーシェの言葉を覚えていて、こうして案内してくれたことが嬉しい。
けれどもリーシェには、もうひとつ気になることがある。
(殿下はただ、見ているだけだわ)
彼にとって、この海はどんな風に映っているのだろうか。
アルノルトはいつもの無表情で、心が動かされたような様子はない。
美しい海も、彼にとっては、なんの感慨も湧かない場所なのだろうか。
(それだけなら、まだしも)
アルノルトは、自分には縁のないものを眺めるかのように、海の中に立つリーシェを眺めていた。
まるで一線を引いているような、最初から縁遠いものだと決めつけているような、そんな表情だ。
リーシェには、それがどうにも寂しかった。
確かめてみて、それでアルノルトの琴線に触れなかったのであれば仕方がない。
けれどもいまのアルノルトは、そういう判断をする以前に、美しい景色を遠ざけているように見える。
「アルノルト殿下」
「……」
名前を呼んで、浜辺にいるアルノルトへと手を伸ばす。
すると、アルノルトは怪訝そうに顔を顰めた。
「なんだ、その手は」
「こちらへ。……殿下も」
そう言うと、ますます眉根が寄せられる。
けれどもそれは、不快に感じたというわけではなさそうだ。
どちらかといえば、思いも寄らない提案を受けたという表情だった。なので、リーシェは思い切ってこう告げる。
「これは私の我が儘なので、聞いてくださらないと駄目です」
「……」
求婚の際、叶えられる望みは全部聞いてくれると言っていた。
言外にそうねだると、アルノルトは静かに溜め息をつく。
「分かった」
観念したようにそう言って、身を屈めて靴を脱ぐ。スラックスの裾を折り、やっぱり顰めっ面のまま、アルノルトが海に入ってきた。
ざぶざぶと水音を立てたあと、リーシェの傍で立ち止まる。
素足で砂を踏むのに違和感があるのか、なんともいえない表情で足元を見下ろした。
「ご感想は?」
「…………特に、何も」
「でしたら、殿下」
リーシェはアルノルトの傍に立つと、つまんでいたワンピースの裾を離した。
海面ぎりぎりで裾が濡れるも、気にしないことにする。
代わりにアルノルトの手を取って、その手首を軽く掴んだ。
「私のこと、あとでいっぱい叱ってくださいね」
「?」
アルノルトを見上げ、にこーっと笑う。
次の瞬間、リーシェが何をするつもりなのか、アルノルトはしっかりと察したらしい。
「おい。待て、まさか……」
「えい!」
「!」
アルノルトの両手をぐっと引くようにして、リーシェは後ろに倒れ込んだ。
「っ、くそ……!」
それなりに深さがある場所なので、このまま倒れても怪我はしない。
そしてアルノルトは、自分のことだけ考えていれば、ここでもバランスを保てていたはずだ。
けれども彼は、恐らくリーシェを支えようとして、結果としてふたりで海へと倒れ込んだ。
「――っ」
ざぶん! と大きな飛沫が上がる。
ぎゅうっと目を瞑って息を止め、その衝撃に耐えたリーシェは、アルノルトの腕に引き起こされた。
「ぷはっ!」
「……」
結果として、海の中に座り込むような体勢になる。
おへその辺りまでが海水に浸かり、ワンピースの裾が膨らんで、クラゲのようにふわふわと揺蕩った。
目の前のアルノルトだって、もちろんずぶ濡れになっている。
先ほど雨に降られたあと、着替えて乾かした意味がまったく無い。
「…………リーシェ」
「泳ぐのがまだ早いなら、こうやって遊んでみませんか?」
アルノルトが罠に引っ掛かってくれたのが新鮮で、リーシェはにこにこ笑いながら言う。
リーシェの腰を抱き留めていたアルノルトは、そんなリーシェを見下ろすと、じとりと目を細めてから言った。
「お前、随分と嬉しそうだな」
「はい。殿下に悪戯が出来たので、大満足です」
「そうか」
ふうっとひとつ息をついたあと、アルノルトの手がリーシェの頬に伸びてくる。
「いいだろう。……受けて立つ」
「え!?」
突然の宣言を受け、リーシェは心底びっくりした。
確かに仕掛けたのはこちらだが、いきなり本気になるとは思わない。
慌てるリーシェをよそに、アルノルトが反撃の手段を撃ってくる。
「あっ、ちょっ、殿下!! 待ってください、そんなのずる……っ、ひぎゃあ!!」
ばしゃん! と大きな水音を皮切りに、そこからは大変な騒動が始まった。
アルノルトは意外にも容赦がない。リーシェも必死に悪戯の応戦をするのだが、どう足掻いても負けてしまう。
こんな光景、他の誰かに見られていたら、恐らくは絶句されていただろう。
しばらくのあいだ、波打ち際で攻防を繰り広げた結果、あっというまに時間が経ってしまった。
「……ぜ、全力で遊んでしまいましたね……」
「……そうだな……」
お互いに濡れた服を纏ったまま、浜辺に腰を下ろして休憩する。
リーシェの体力は尽きているが、アルノルトはまだまだ平気そうな顔だ。とはいえ、そもそも慣れない行為のためか、体力的なものとは違う疲労の色が見える。
リーシェは、岩陰に置いていたバスケットに手を伸ばすと、中に入っていた瓶を取り出す。
「殿下、お茶をどうぞ」
「ああ」
「といっても、もうぬるいですが……」
城の氷室で冷やされていたはずの瓶は、ほとんど体温に近い温度になっていた。だが、アルノルトはちゃんと口を付けてくれる。
それを見守りつつ、尋ねてみた。
「海への感想は、先ほどからは少しでも変わりましたか?」
「……分からない」
「ふふ」
嬉しくなって笑ったら、アルノルトがこちらを見る。
「きちんと考えてくださるんだなあと思って。だって、『変わっていない』ではなくて、『分からない』と仰っていただけたから」
「……」
アルノルトはふっと目を細めると、リーシェの横髪を梳くように撫で、耳に掛けてくれた。
そして、バスケットの傍に置いていた帽子を手に取ると、リーシェの頭にぽすんと被せる。その手つきがやっぱりやさしいので、リーシェは言った。
「お叱りをどうぞ、アルノルト殿下」
婚約者を海の中で転ばせた、そのお咎めを受けなければならない。
そう思っていたのだが、アルノルトは口を開く。