作品タイトル不明
742.先に退店しましょうか
「クラネルト子爵令嬢をご案内しました」
聞こえた店員の言葉に、ゆっくりと息を吐きだした。ふんわりと膨らんだ蒸しパンを割り、甘い香りの湯気に口元を緩める。私が手を伸ばしたのを見て、ヘンリック様もスコーンにクリームとジャムを塗った。そうなれば、ティール侯爵が動く。
「ハンナ、頂こう。冷めてしまうよ」
この世界では氷が貴重品ということもあり、冷たい飲み物は少ない。夏でも温かい紅茶や珈琲で、子供のジュースも常温が一般的だった。ケンプフェルト公爵邸には小川が流れており、そこで野菜や果物を冷やすらしい。
大きな屋敷を持つ貴族ならそれでいいけれど、平民には出回らないわね。こういうとき、氷を作る魔法があれば便利なのに。冷凍庫でもいいわ。
アイスコーヒーを懐かしみながら、苦みの強い珈琲で喉を潤した。迷って、少しだけ砂糖を加える。この世界では紅茶や珈琲のミルクは、すべて牛乳なの。ほんのり甘くておいしいけれど、日持ちしないからこれまた貴重品だった。
街のカフェで出てくるはずもなく……砂糖で味の調整をするしかない。
衝立の向こうの声は、意外と聞こえなかった。貴族も使うカフェだから、何か工夫をしているのかもしれない。そう思って周囲を見回せば、天井から色とりどりの布が下がっているのに気づいた。もしかして、あれが声を遮っているのかも。
「聞こえないものだな」
ぼそっとヘンリック様が呟く。スコーンを口に入れ、まるで苦虫を嚙み潰したように眉根を寄せた。店の人が驚いちゃうから、ダメよ。くすくす笑いながら指先で眉間へ触れた。解してから正面を向くと、さっとティール侯爵夫妻の視線が逸らされる。
これは、凝視されちゃった?
「落ち着いてお茶を頂いて、先に退店しませんか? 問題なく話が出来ているみたいです」
怒って叫ぶ声も、泣いている様子もない。食器がぶつかる音がしないなら、喧嘩はしていないのよ。そう提案し、蒸しパンを味わった。ふわふわで甘いけれど、砂糖やジャムとは違う感じ……この干した果実の甘さみたい。
「ヘンリック様、このパンを持ち帰れるか確認してくださいな」
「あなたと呼ばないのか? いつものように……」
むっとした様子でぼそぼそと抗議されて目を丸くする。
「ここではダメです。人目がありますもの」
人差し指を唇に当てて「黙って」の仕草で話を切る。ぱっと表情が明るくなったヘンリック様は「そうだな」と同意して満足そう。レオンと一緒で可愛い人。
顔を上げれば、ティール侯爵がぱたぱたと手で仰いでいた。隣のハンナ様は身を乗り出しており……笑顔で席に戻る。
「仲が良くて素敵ですわ。私も見倣いたいです」
ふふっと笑って誤魔化した。だって、なんと答えたらいいのかわからないもの。