作品タイトル不明
590.魔法だから一度だけよ
墨自体に髪を黒く染める効果はほとんどない。墨汁のように練った汁を作ってもらい、それを塗って乾かすのがせいぜいね。そのため、洗うと落ちてしまうのよ。
作ってもらった墨汁もどきを見せ、ローズによく説明する。
「いい? ローズ、これは絵本にあった魔法なの。だけど、一度しか使えないわ。黒くしても、夜には落ちてしまうのよ。あと、触ると魔法が解けちゃうから手で触らないこと」
「……んっ」
元気よく頷いた。熱が下がったばかりなので、昨日はお風呂に入れていない。温めたタオルで綺麗に拭いてもらって就寝した。つまり、今夜はお風呂に入るの。その時に髪を洗って、元に戻せばいいわ。
「触ったらダメ、一度だけ……いいわね?」
「うん」
今度はしっかり頷いた。隣でレオンも頷いている。軽く首を傾げるランドルフだけど、ローズと目が合えば笑顔になった。ヘンリック様、さりげなく視線を遮る位置に移動しないでください。大人げないわ。
「では、お外でやりましょう」
重々しく伝え、皆で一緒に外へ向かう。なぜかヘンリック様がお休みだと主張して、仕事に行かないのよ。絶対に休みじゃないはずよ。朝食の席で言われたベルントが、慌てて伝令を出していたもの。早くしないと王宮からの迎えが到着してしまうから。途中で会って、Uターンできていたらいいけれど……。
無理を通して休んだヘンリック様は、ローズの金髪を何度も手で触れた。
「やぁ! とったうの!」
やっぱり女の子のほうが口達者なのかしら? それとも発育や環境の差かもしれないわ。出会った頃のレオンは言葉を多く知らなかった。耳にした言葉を少しだけ操るだけ。僕の一人称も、侍従の誰かから覚えたみたい。ローズはヘンリック様の手を堂々と払った。
「まだ魔法は使っていないから、触ってもいいはずだが」
娘に冷たくされて、ちょっと肩を落とすヘンリック様が可愛い。いえ、私よりかなり年上なのよ。相応の外見をしているのに、やっぱり可愛いと思ってしまう。ふと、ユーリア様の言葉を思い出した。殿方はいくつになっても可愛いのよ、狡いわね……と。こういう意味だったのね。
納得しながら、庭でケープ代わりの帆布を被せる。ローズはごわごわした帆布が珍しいのか、手で何度も触っていた。
「お母様が魔法を使う間、絶対に動いたらダメよ。目も閉じてね」
「ぁい!」
元気に右手を上げたので、そっと下ろさせた。それから椅子に座らせて……近くに用意した台の上に倒す。ローズは椅子ごと台へ横たわった。解いた髪がさらりと流れる。私と違ってさらさらなのは、レオンやヘンリック様と同じみたい。
用意した墨汁もどきの入ったバケツに髪を浸す。刷毛を使って、生え際まで色を付けた。流れる墨を何度かかけ直す。天気のいい庭で、何をしているのかしらね。おかしくなったけれど、笑ったら台無しだわ。ふと、思いついて鼻歌を歌った。
小さく零れる歌詞は日本語で、きっとこの世界の人には意味が分からない。耳慣れない響きは、魔法っぽさを後押ししてくれると思う。魔女役が楽しくなってきたわ!