軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

後編

その夜、彼方は帰ってこなかった。

蓮は鍋の前で何度も火を入れ直した。彼方の好物のカレーは、温め直すたびに少しずつ水気を失って、最初に味見した時よりも重たい匂いを台所に満たしていた。スマホの画面には、蓮が送ったメッセージが残っている。

今日はカレー。遅くなるなら温めておく。

既読はつかない。

時計の針が日付を越えた頃、ようやく短い返信が来た。

今日は友達の家に泊まる。ごめんね。

友達の名前はなかった。

蓮は返事を打とうとして、やめた。二十歳を過ぎた妹に、兄が細かく詮索するのは違う。そう自分に言い聞かせた。けれど胸の奥には、嫌な泥のようなものが沈んでいた。

彼方が帰らない夜は、家が広すぎた。

いつもなら、廊下の向こうから足音がする。冷蔵庫を開ける音。風呂上がりにドライヤーをかける音。蓮の部屋の前で少し迷ってから、「おにいちゃん、まだ起きてる?」と声をかける音。

その全部がない。

蓮は冷めていくカレーを見つめながら、彼方が少しずつ自分の知らない場所へ行ってしまっていることを、ようやく認めかけていた。

同じ頃、彼方は都心のホテルの一室にいた。

窓の外には、夜のビルの明かりが滲んでいる。高輪レオンはソファに座り、片手でスマホを操作しながら、もう片方の手でいろはの髪を弄んでいた。いろはは膝を抱え、ぼんやりと床を見ている。彼方は少し離れた椅子に座り、検査薬の入った袋を鞄の中で握りしめていた。

「そんな顔すんなよ」

レオンが言った。

「二人とも俺に捨てられると思ってる?」

いろはが顔を上げた。

「違うの?」

「違うって。面倒は見るよ。俺、そこまでクズじゃないし」

彼方はその言葉を信じたかった。

信じなければ、自分がここにいる理由がなくなる。

蓮を守るためだった。最初は確かにそうだった。けれど今、彼方の中には別の感情が混じっている。レオンに名前を呼ばれるたび、胸が痛む。蓮の優しさを思い出すたび、息が詰まる。どちらも本物で、どちらも自分を責める。

「蓮くんには黙っておけよ」

レオンが軽く言った。

「今言ったって、誰も得しないだろ」

「でも」

彼方は唇を噛んだ。

「おにいちゃんは、私のことを」

「だから黙るんだよ」

レオンは彼方を見た。

「彼方が黙ってれば、蓮くんは平和なままだ。あいつは何も知らない方が幸せなんだよ」

その言葉は、ひどく甘かった。

知らなければ傷つかない。黙っていれば守れる。嘘をつくことが優しさになる。

彼方はそれが間違いだとわかっていた。けれど、正しさを選ぶには、もう遅すぎた。

翌朝、彼方が帰ると、蓮は台所で眠っていた。テーブルにはラップをかけた皿と、少し焦げついた鍋がある。彼方はその光景を見た瞬間、胸を潰されたような顔になった。

「おにいちゃん」

声をかけると、蓮ははっと目を覚ました。

「ああ、帰ったのか」

「ごめんね。連絡遅くなって」

「いいよ。カレー、食べるか?」

彼方は首を横に振りかけて、蓮の目を見た。眠れていない目だった。それでも怒ってはいない。心配しているだけだった。

「少しだけ」

蓮は温め直してくれた。皿に盛られたカレーを前に、彼方はスプーンを持つ。湯気が上がった瞬間、胃がひっくり返るような感覚が来た。

「ごめん」

彼方は口を押さえて立ち上がった。

洗面所へ駆け込む背中を、蓮は呆然と見送った。

「彼方、本当に病院行った方がいいんじゃないか」

扉の向こうで、彼方は水を流した。

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」

嘘がまた増えた。

蓮はその嘘に気づいていた。けれど、嘘の中身まではわからなかった。

それから数日、彼方は家にいる時間がさらに減った。いろはも学校でほとんど蓮と話さなくなった。レオンは妙に機嫌がよく、廊下ですれ違うたびに蓮へ笑いかけた。

「大崎、最近元気ないじゃん」

「お前に関係ない」

「冷たいな。せっかく平和にしてやってるのに」

その言い方が引っかかった。

平和にしてやってる。

まるで、蓮の毎日を握っているのが自分だと言わんばかりだった。

その日の夕方、蓮は学校近くの編集スタジオでアルバイトをしていた。急な納品で終電近くまで作業し、外へ出ると細かい雨が降っていた。傘を差して駅へ向かう途中、通りの向こうのホテルの入口に見覚えのある車が止まった。

黒い車。

運転席から降りてきたのはレオンだった。

蓮は足を止めた。

後部座席のドアが開く。最初に降りたのは、いろはだった。続いて、彼方が降りてきた。彼方はレオンの上着を肩にかけていた。いろははレオンの腕に触れ、何かを言って笑った。彼方は笑っていなかったが、逃げる様子もなかった。

三人はホテルの中へ入っていった。

蓮はその場に立ち尽くした。

雨の音だけが耳に残った。

頭の中では、いくつもの言い訳が勝手に生まれては消えていった。相談しているだけ。何か事情がある。彼方は騙されている。いろはが巻き込まれている。レオンに脅されている。

でも、彼方はレオンの上着を羽織っていた。

いろはは笑っていた。

蓮はホテルの向かいの軒下で待った。待つ理由は自分でもわからなかった。確認したいのか、確認したくないのかもわからない。ただ、足が動かなかった。

二時間ほど経った頃、三人が出てきた。

蓮は無意識にスマホの録音を入れていた。何かあった時のため。そう思ったのではない。指が勝手に動いていた。

「彼方」

声をかけると、三人が一斉にこちらを見た。

彼方の顔から血の気が引いた。いろはは目を伏せた。レオンだけが笑った。

「蓮くん、偶然だね」

蓮はレオンを無視して彼方を見た。

「何してるんだ」

「おにいちゃん、これは」

「何してるんだって聞いてる」

彼方は答えられなかった。

いろはが小さく言った。

「ごめん、蓮」

その言葉で、蓮の中にあった最後の言い訳が死んだ。

「いつから」

蓮の声は自分でも驚くほど低かった。

「いつから、高輪と」

彼方が震えた。

「最初は、おにいちゃんを守るためだったの」

「守る?」

「レオンさんが、おにいちゃんをいじめるのをやめるって言ったから」

蓮の視界が揺れた。

いろはも口を開いた。

「私も同じ。蓮を守りたくて、最初は」

「最初は?」

蓮が聞き返すと、いろはは唇を噛んだ。

レオンがそこで笑った。

「優しいよなあ、二人とも。蓮くんのために俺のところへ来たんだってさ」

「黙れ」

「でも今は違うよな?」

レオンは彼方といろはを見る。

「なあ、いろは」

いろはの肩が震えた。

「蓮との、昔からの約束とか、好きだったとか、そういうおままごとじゃなくてさ」

いろはは苦しそうに言った。

「レオンくんは、今の私を見てくれるの」

蓮は何も言えなかった。

次にレオンは彼方を見た。

「彼方は?」

彼方は泣きそうな顔で蓮を見た。

「おにいちゃんとの、優しいだけの家族ごっこには、もう戻れない」

「彼方」

「レオンさんに、女として見られて、嬉しかった」

その言葉は、刃物よりも深く入った。

彼方はそこで一度目を閉じ、壊れたように笑った。

「ごめんね、おにいちゃん」

蓮は息を吸うことを忘れた。

いろはが追い打ちのように呟いた。

「蓮とのおままごとじゃなくて、レオンくんのかっこよさに惹かれちゃった。ごめんね」

二人の声は震えていた。けれど、言った。自分たちを守るために、蓮を突き落とす方を選んだ。

レオンは満足そうだった。

「それとさ、蓮くん」

レオンは二人の肩に手を置いた。

「たぶん、二人とも俺の子ができた」

雨の音が消えた。

世界が遠くなった。

彼方が泣いている。いろはが目を伏せている。レオンが笑っている。ホテルの明かりが眩しい。道路を走るタクシーの水しぶきが足元にかかる。

蓮はその全部を見ていた。

見ているのに、何も感じない瞬間があった。

「そうか」

やっと出た声は、それだけだった。

彼方が一歩近づく。

「おにいちゃん」

「呼ぶな」

彼方の足が止まった。

「その呼び方で、俺を刺すな」

彼方は声を失った。

蓮は踵を返した。背後でいろはが「蓮」と呼んだ。レオンが何か笑いながら言った。彼方が泣く声がした。

振り返らなかった。

家に帰ると、カレーの鍋はまだ冷蔵庫に入っていた。蓮はそれを流しに捨てた。どろりとした茶色の塊が排水口へ落ちていくのを見ながら、胃の奥が痙攣した。

スマホを取り出す。

録音は残っていた。

再生すると、雨音の向こうから彼方の声がした。

優しいだけの家族ごっこには、もう戻れない。

いろはの声が続く。

蓮とのおままごとじゃなくて、レオンくんのかっこよさに惹かれちゃった。

レオンの声。

二人とも俺の子ができた。

蓮はスマホを壁に投げつけそうになった。

けれど、投げなかった。

壊してはいけない。

これは証拠だ。

そう思った瞬間、自分の中で何かが冷たく整った。

翌週、高輪レオンは学校に来なくなった。

表向きは家庭の事情。彼方といろはも休学届を出した。蓮は講師から「大崎くん、何か知っているか」と聞かれたが、何も言わなかった。言えば、その場で崩れそうだった。

けれど、レオンは去る前に種を撒いていた。

学校中に噂が広がった。

大崎蓮が妹と幼馴染に執着して、レオンに逆恨みしたらしい。

彼方ちゃんといろはちゃんは、蓮から逃げるためにレオンくんに助けを求めたらしい。

レオンくんは悪くない。大崎が騒いだから学校を辞めざるを得なくなった。

最初は小さな囁きだった。

それはすぐに、蓮へ向けられる露骨な敵意になった。

レオンの周りにいた女子たちは、蓮を見るたびに聞こえるように言った。

「レオンくんを返してよ」

「シスコンのくせに」

「幼馴染にも妹にも捨てられた男って惨め」

ロッカーには紙が貼られた。

おままごと失敗おめでとう。

課題データの共有フォルダには、蓮の作品だけ低評価のコメントが並んだ。

被害者ぶるの上手いですね。

妹を束縛する人の作る映像って気持ち悪いです。

ある日は、食堂で買ったコーヒーをぶつけられた。相手はわざとらしく「あ、ごめん」と笑った。別の日には、女子更衣室の近くを通っただけで「覗き」と騒がれかけた。蓮は偶然その時、講師から借りた機材の受け取りメールを開いていたため、時間と用件を証明できた。

もし証明できなければ、どうなっていたかわからない。

蓮は一つずつ記録した。

貼り紙は剥がす前に撮影した。悪意あるコメントはスクリーンショットを残した。廊下での罵声は録音した。コーヒーをかけられた服は洗わず袋に入れた。更衣室の件は、その場で講師にメールを送って記録を残した。

泣く暇はなかった。

泣いたら、彼方の声が聞こえる。

おにいちゃんとの家族ごっこには戻れない。

怒鳴る暇もなかった。

怒鳴ったら、いろはの声が聞こえる。

レオンくんのかっこよさに惹かれちゃった。

だから蓮は黙って集めた。

ある日の放課後、蓮が空き教室で機材を片づけていると、一人の女子学生が入ってきた。

泉岳寺真央という学生だった。レオンの取り巻きではあったが、最近は目立たない。蓮に嫌がらせをしている場面も見たことがなかった。

「大崎くん」

真央は周囲を確認し、USBメモリを差し出した。

「これ、渡しておく」

「何」

「レオンくんのグループチャットのスクショ。あと、音声。私も入ってたから」

蓮は受け取らなかった。

「どういうつもり」

「謝罪じゃないよ。謝って済むと思ってない」

真央は笑わなかった。

「私も昔、レオンくんに同じようなことされた。好きだった人を馬鹿にされて、離れろって言われて、従った。あの時は自分が選ばれたと思った。でも違った」

蓮は黙って聞いた。

「今、みんな大崎くんを責めてる。でも本当は、レオンくんがいなくなった理由を認めたくないだけ。自分たちが都合よく使われたって認めたら、惨めだから」

真央はUSBを机に置いた。

「これを渡したら、私も終わるかもしれない。でも、終わるべきなんだと思う」

蓮はようやく手を伸ばした。

「ありがとう」

「感謝しないで。私も加害者側にいた」

真央はそう言って教室を出ていった。

USBの中には、蓮が想像していたよりもひどいものが入っていた。

レオンの指示。

大崎を学校にいづらくして。

直接やると面倒だから、女子から言った方が効く。

彼方といろはのことを嗅ぎ回ったら、妹束縛男って流せ。

蓮が提出した課題への組織的な低評価。

廊下での待ち伏せの相談。

嘘の目撃情報を作る話。

女子たちの笑い声。

レオンがそれにスタンプを押している履歴。

証拠は山になった。

蓮はその夜、無料法律相談を予約した。紹介された弁護士の三田梓は、若いが目つきの鋭い人だった。蓮が録音、スクリーンショット、写真、時系列表を並べると、三田はしばらく黙って確認した。

「感情で動かなかったのは正解です」

「正解だったんですかね」

「少なくとも、相手を潰す準備としては」

三田は淡々と言った。

「学校への正式な申立て。加害学生への慰謝料請求。高輪レオン本人への請求。場合によっては警察相談。メディアに出すなら順番を間違えないこと。あなたが先に暴露魔に見えたら負けます」

「俺は、どうしたら勝てますか」

三田は蓮を見た。

「勝つ目的を決めてください。謝らせたいのか、金を取りたいのか、学校から処分を引き出したいのか、相手の信用を壊したいのか」

蓮はしばらく考えた。

彼方の泣き顔が浮かんだ。

いろはの震える声が浮かんだ。

レオンの笑顔が浮かんだ。

学校で蓮を笑った女子たちの顔が浮かんだ。

「全部です」

三田は少しだけ口元を緩めた。

「なら、全部に届く形にしましょう」

蓮は映像の学生だった。

なら、映像で返す。

ただし、感情をそのままぶつけるのではない。証拠を並べる。声を切らない。笑い声を残す。誰が何を言ったか、逃げられない形で積み上げる。

蓮は作品を作り始めた。

公開用の映像では、顔と名前を伏せた。妊娠に関わる部分も入れなかった。子どもに罪はない。彼方といろはの体に関わることを、晒し物にするつもりはなかった。

けれど学校と弁護士へ提出する証拠には、必要なものをすべて添えた。

ホテル前の録音。

レオンが脅迫めいた条件を出していたこと。

彼方といろはが「最初は蓮を守るためだった」と認めたこと。

レオンがそれを笑っていたこと。

女子学生たちの嫌がらせが、レオンの指示と連動していたこと。

蓮は何度も吐きそうになりながら編集した。自分が傷つく瞬間を、何度も巻き戻し、音量を調整し、ノイズを取り、字幕をつけた。彼方の声を聞くたび指が止まった。いろはの声を聞くたび、幼い頃の記憶が邪魔をした。

それでも消さなかった。

優しさで消してやる時期は、もう終わっていた。

学内の公開講評会の日、蓮の作品は最後に上映された。

会場には学生、講師、外部審査員、協賛企業の担当者がいた。レオンの取り巻きだった女子たちも、後ろの席に固まって座っていた。彼女たちは蓮を見るなり笑った。

「まだ学校いたんだ」

「メンタル強すぎ」

「どうせ被害者アピール作品でしょ」

蓮は何も言わなかった。

照明が落ちた。

映像は、真っ黒な画面から始まった。

最初に流れたのは、女子たちの笑い声だった。

「レオンくんを返してよ」

「シスコンのくせに」

「幼馴染にも妹にも捨てられた男って惨め」

客席の空気が変わった。

画面には、日付と場所だけが表示される。続いて、ロッカーに貼られた紙。共有フォルダのコメント。コーヒーをかけられた服。廊下での待ち伏せ。すべて顔は伏せられている。けれど本人たちにはわかる。自分の声だ。自分の言葉だ。自分の笑い方だ。

後ろの席で誰かが立ち上がりかけた。

「ちょっと、これ」

しかし映像は止まらない。

次に流れたのは、グループチャットの文面だった。

大崎を学校にいづらくして。

女子から言った方が効く。

妹束縛男って流せ。

送信者の名前は伏せられていた。だが、添付された音声で誰の声かは明らかだった。

レオンの声が会場に響いた。

「直接やると面倒だからさ。お前らなら泣けば被害者に見えるだろ」

会場が凍った。

蓮はステージ袖で、客席を見ていた。

女子たちの顔が青ざめていく。さっきまで笑っていた口が閉じる。自分たちが外側からどう見えるのか、初めて見せられた顔だった。

映像の終盤、ホテル前の録音が流れた。

「最初は、おにいちゃんを守るためだったの」

彼方の声。

「私も同じ。蓮を守りたくて、最初は」

いろはの声。

続いて、レオンの笑い声。

「優しいよなあ、二人とも。蓮くんのために俺のところへ来たんだってさ」

蓮は歯を食いしばった。

公開版では、その先の妊娠に関わる発言は切っていた。だが、脅しと支配の構造は十分に伝わった。

最後に、蓮自身の声が入った。

「これは告発ではなく、記録です。消されなかった声です。笑いながら誰かを追い詰めた人間は、記録される側になった時、初めて自分の顔を見る」

照明が戻った時、会場は静まり返っていた。

最初に拍手したのは外部審査員だった。次に、別の審査員が立ち上がった。講師たちは顔を見合わせている。学校側の職員は青い顔でスマホを確認していた。

その時にはもう、三田弁護士が正式な申立書を学校本部へ送付していた。

同じ内容の証拠一式は、レオンの所属していた配信事務所、協賛企業、そして複数の被害学生の保護者にも届いていた。

学校は動かざるを得なかった。

レオンの取り巻きだった女子たちは、一斉に呼び出された。

最初はみんな同じことを言った。

「私は見ていただけです」

「みんながやっていたから」

「レオンくんに頼まれて」

「大崎くんも悪いと思って」

しかし、証拠の前では言葉が痩せた。

白金美優は、内定していたインフルエンサー事務所の研修を取り消された。企業側が、蓮への嫌がらせ投稿と裏アカウントの紐づけを確認したからだ。彼女は泣いて「将来が壊れた」と言ったが、三田は淡々と返した。

「壊したのは他人の学校生活です」

品川紗季は奨学金の継続審査で問題視された。彼女の親は学校に怒鳴り込んだが、グループチャットの文面を見せられると黙った。

五反田莉々は謝罪文を持って蓮の前に現れた。

「ごめんなさい。私、本当はそんなつもりじゃ」

蓮は受け取らなかった。

「代理人に送って」

「大崎くん、お願い。就職に響くのは困るの」

「俺の人生には響かせようとしたよな」

莉々は泣いた。

泣けば何とかなると思っている顔だった。

蓮はその顔を見て、レオンの言葉を思い出した。

女子から言った方が効く。

泣けば被害者に見える。

だから蓮は、泣き声に反応しなかった。

「謝罪は記録に残る形で。二度と俺に直接近づかないでくれ」

学校中の空気は、一週間で反転した。

蓮を見て笑っていた学生たちは、今度は蓮の視線を避けた。廊下ですれ違うと道を開ける。誰かが蓮の机に触れようとすれば、別の誰かが止める。昨日までの正義は、証拠の前でただの加害になった。

それは爽快だった。

同時に、ひどく空虚だった。

勝っても、彼方は帰らない。

勝っても、いろはの過去は戻らない。

勝っても、ホテル前の声は消えない。

それでも、勝たなければならなかった。

レオンの名前が表に出るまで、時間はかからなかった。

学内映像の存在を知った外部審査員の一人が、報道系のプロデューサーだった。もちろん、蓮は勝手な公開を許したわけではない。三田を通し、公開範囲と伏せるべき情報を整理した上で、記事は出た。

有名専門学校で発覚した組織的嫌がらせ。

人気配信者の男子学生が女子学生を使い、同級生を追い詰めた疑い。

恋愛関係を利用した支配と脅迫。

記事に、妊娠のことは書かれていない。

だが、レオンが「相手の大事な人間を攻撃材料にし、関係を迫っていた」ことは、複数の証言と共に載った。真央以外にも、過去に同じような目に遭った学生が名乗り出た。蓮の知らない名前がいくつも並んだ。

レオンは最初、配信で反論しようとした。

「俺、嵌められました。女の子たちとは普通に仲良くしてただけで、脅しとかないです」

コメント欄は荒れた。

だが、その配信中に、誰かが例の音声の文字起こしを貼った。

直接やると面倒だから、女子から言った方が効く。

お前らなら泣けば被害者に見えるだろ。

レオンは顔を歪めた。

「これ、切り抜きだから。文脈が」

その瞬間、さらに別の音声が拡散された。

彼方といろはに言った、あの言葉。

「優しいよなあ、二人とも。蓮くんのために俺のところへ来たんだってさ」

レオンは配信を切った。

それが最後だった。

事務所は契約解除を発表した。学校はレオンを懲戒処分にした。父親の会社は「個人の問題」として切り離しを図ったが、レオンが学校内で親の影響力をちらつかせていた証言まで出て、完全には逃げ切れなかった。

レオンの周りにいた人間は、潮が引くように消えた。

女の子たちは彼を王子様のように見ていた。けれど王子様の台詞が全部録音され、手口として並べられた時、そこに残るのはただの幼稚な支配欲だった。

かっこよさは、照明が消えると立っていられない。

レオンはそれを知らなかった。

彼方といろはは、レオンが用意したマンスリーマンションにいた。

最初の数日は、レオンは優しかった。病院に付き添うと言った。今後のことも考えると言った。二人を不安にさせないと言った。

だが、記事が出た日から、すべてが変わった。

レオンは部屋に戻るなり、スマホを壁に投げた。

「ふざけんなよ」

彼方はソファから立ち上がった。

「レオンさん、大丈夫ですか」

「大丈夫なわけないだろ。全部終わった」

いろはが震える声で言った。

「でも、私たちも一緒に」

「一緒?」

レオンは笑った。

「あのさ、勘違いすんなよ。俺の人生が終わったんだよ。お前らがどうこうじゃなくて、俺が終わったの」

彼方の顔が強張る。

「子どものことは」

「今それ言う?」

「大事なことです」

「俺の子って証拠あんの?」

その一言で、部屋の空気が凍った。

いろはが立ち上がった。

「レオンくん」

「いや、普通の確認だろ。二人とも俺以外と絶対なかったって、俺がどうやって証明すんの?」

彼方の唇が震えた。

「そんな言い方」

「じゃあ何? 二人とも俺に責任取れって言うわけ? 同時に? 笑わせんなよ」

いろはの目から涙が落ちた。

「逃げないって言ったじゃん」

「状況が変わったんだよ」

「私たち、蓮を裏切ってまで」

「それはお前らが選んだんだろ」

レオンの声は冷たかった。

「俺は命令なんかしてない。来たのはお前ら。蓮を守るとか言って勝手に悲劇ぶって、途中から俺に惚れたのもお前ら。俺のせいにすんな」

その言葉は、正しさの形をした逃げだった。

彼方は膝から崩れた。

いろはは泣きながら笑った。

「蓮も、きっと同じこと思ってる」

「は?」

「私たちが選んだんだって。だから許されないんだって」

レオンは舌打ちした。

その夜、レオンは部屋を出て行った。

数日後、彼方といろはのスマホから、レオンへの連絡はほとんど通じなくなった。

ブロックはされていない。けれど返事は来ない。たまに来るのは、弁護士を通せ、今は無理、俺も被害者だ、という短い言葉だけだった。

二人はようやく理解した。

蓮を裏切ってまで選んだ男は、自分たちの前から逃げた。

しかも、蓮は記事で妊娠のことを出さなかった。

晒そうと思えば晒せたはずだった。ホテル前の録音も、詳細な証拠も、蓮の手元にあった。けれど彼はそこだけを伏せた。彼方といろはのためではない。生まれるかもしれない子どものためだ。

その事実が、二人をさらに苦しめた。

レオンより、蓮の方が最後まで人間だった。

だからこそ、もう戻れない。

彼方が家に戻ってきたのは、騒動から一か月後だった。

頬は痩せ、目の下に濃い影があった。玄関で出迎えた母親は泣き崩れた。父は何も言えず、ただ彼方を見ていた。蓮はリビングの奥に座っていた。

彼方は蓮を見るなり、膝をついた。

「おにいちゃん」

蓮は静かに言った。

「その呼び方はやめろ」

彼方は顔を上げた。

「お願い。話を聞いて」

「聞くために座ってる」

「私、最初は本当に、おにいちゃんを守りたかったの」

「知ってる」

「でも、途中からわからなくなって。レオンさんに呼ばれると、怖いのに安心して。おにいちゃんに優しくされると、苦しくて」

「知ってる」

「私、最低だった」

「それも知ってる」

彼方は泣いた。

「どうしたら許してくれる?」

蓮はスマホをテーブルに置いた。

再生ボタンを押す。

彼方自身の声が流れた。

「おにいちゃんとの、優しいだけの家族ごっこには、もう戻れない」

続けて、あの日の彼方の壊れた笑い。

「ごめんね、おにいちゃん」

彼方は耳を塞いだ。

「やめて」

蓮は止めなかった。

「俺はこれを何度も聞いた。証拠にするために。編集するために。お前が言った言葉を、一文字も逃がさないために」

「やめて、お願い」

「俺が一番聞きたくなかった言葉を、お前はレオンの隣で言った」

彼方は床に額をつけた。

「ごめんなさい」

「謝罪は聞いた」

「じゃあ」

「許すとは言ってない」

彼方の肩が震えた。

蓮は立ち上がった。

「お前が妊娠していることは、俺から外には出さない。子どもには関係ないからだ。そこだけは守る」

彼方は泣きながら顔を上げた。

「おにいちゃん」

「でも、それはお前を許すって意味じゃない」

蓮の声は冷たかった。

「俺はもう、お前の兄でいることをやめる。戸籍がどうだろうと、家族がどう言おうと、俺の中では終わった」

彼方の表情が崩れた。

「嫌だ」

「嫌でも終わった」

「私、何でもするから」

「俺のために何かしようとするな。また俺を言い訳にするな」

彼方は息を呑んだ。

「これからお前が向き合う相手は、俺じゃない。自分が選んだ現実と、自分の子どもだ」

彼方は声にならない声で泣いた。

その姿を見ても、蓮の心は動かなかった。

いや、動いていた。

痛かった。

でも、その痛みで彼方を許してしまうほど、蓮はもう優しくなれなかった。

いろはが蓮に会いに来たのは、その三日後だった。

二人は昔よく行った公園で向かい合った。滑り台は小さく見えた。ブランコの鎖は錆びていた。子どもの頃は、ここが世界の中心みたいに思えていた。

いろははベンチに座り、膝の上で手を握っていた。

「蓮」

「何」

「私、本当は蓮が好きだった」

蓮は空を見た。

「本当は、じゃない」

いろはが顔を上げる。

「昔は、だ」

その言葉に、いろはの目が潤んだ。

「そうだね」

「昔のお前は、俺を守ろうとしてくれた」

「うん」

「でも今のお前は、俺を刺した」

いろはは頷いた。

「うん」

「レオンに言わされたのか」

「違う」

いろはは首を横に振った。

「言わされた部分もある。でも、言ったのは私。蓮とのおままごとじゃないって言えば、自分がもう戻れないことを正当化できると思った。蓮を傷つければ、蓮の方から私を捨ててくれると思った」

「望み通りだな」

いろはは泣いた。

「そんなふうに言わないで」

「じゃあどう言えばいい」

「私、馬鹿だった。レオンくんに選ばれたと思ってた。蓮を守るためだったって言ってれば、自分が汚くなっていくのも許せる気がした。でも、違った。私は途中から蓮を守ってなかった。自分を守ってただけだった」

「そうだな」

「蓮、私を恨んでる?」

「恨んでる」

即答だった。

いろはは小さく頷いた。

「だよね」

「でも、ずっと恨むために生きるつもりはない」

いろはの目が少しだけ揺れた。

「それって」

「お前を許すって意味じゃない」

蓮は言った。

「俺の人生から、お前を追い出すって意味だ」

いろはは黙った。

風が吹き、ブランコが小さく揺れた。

「子どものことは晒さない」

蓮は続けた。

「彼方にも言った。そこは俺の復讐に使わない」

「ありがとう」

「礼を言うな。お前たちのためじゃない」

「うん」

「レオンから逃げられなかったことも、同情はする。でも、俺を踏み台にしたことは別だ」

いろはは深く頭を下げた。

「ごめんなさい」

蓮は返事をしなかった。

いろはは顔を上げないまま、震える声で言った。

「蓮が幸せになるところ、見たかったな」

「俺は見るよ」

「え?」

「俺が幸せになるところは、俺が見る」

いろはは泣き笑いのような顔になった。

「そっか」

蓮は立ち上がった。

公園を出る前に、一度だけ振り返った。

いろははベンチに座ったまま、顔を覆って泣いていた。

昔の蓮なら、戻ったかもしれない。

今の蓮は、戻らなかった。

レオンへの制裁は、そこからさらに進んだ。

三田弁護士は複数の被害者をまとめ、レオンに対して慰謝料請求を行った。学校内での嫌がらせ指示、脅迫めいた関係の強要、名誉毀損。レオン側は最初、親の顧問弁護士を立てて強気に出たが、証拠の数が多すぎた。

しかも、レオン自身の発言はいつも軽かった。

「俺は命令してない」

「女の子たちが勝手にやった」

「大崎が大げさにしてる」

その言い訳は、女子たちにも刺さった。

レオンのために蓮を攻撃した彼女たちは、レオンから「勝手にやった」と切り捨てられた。自分たちは選ばれた味方ではなく、使い捨ての道具だったと知った。

一部は泣きながら追加証言を出した。

一部は最後まで被害者ぶった。

だが、結果は変わらなかった。

学校は公式に謝罪文を出した。加害学生たちには停学、厳重注意、推薦取り消し、外部実習停止などの処分が下された。講師の一部も対応不備を問われ、レオンの親の影響力を恐れて見て見ぬふりをしていた職員は異動になった。

蓮には、授業料の一部返還と、外部制作会社での実習機会が提示された。

学内で蓮に直接謝ろうとする者は、まだいた。

だが蓮は、全員に同じ返事をした。

「代理人へ」

それだけでよかった。

謝罪は感情ではなく、記録に残すものになった。

レオンは最後に一度だけ、蓮の前に現れた。

場所は弁護士事務所の入ったビルの前だった。打ち合わせを終えて出てきた蓮の前に、帽子を目深に被ったレオンが立っていた。以前のような華やかさはない。無精ひげが伸び、目の下には隈がある。

「お前、満足かよ」

レオンの声は掠れていた。

蓮は足を止めた。

「何が」

「俺の人生、めちゃくちゃだ。事務所も切られた。親にも見放された。学校にも戻れない。ネットじゃ一生ネタにされる」

「そうか」

「そうかじゃねえよ。お前がやったんだろ」

蓮はレオンを見た。

「俺は録音を消さなかっただけだ」

「お前が出さなきゃ」

「お前が言わなきゃよかった」

レオンの顔が歪んだ。

「彼方もいろはも、自分で来たんだよ」

「知ってる」

「なら俺だけ悪者にすんな」

「お前だけじゃない。全員、自分の分だけ地獄に落ちてる」

レオンは拳を握った。

「俺は終わらない」

「終わってるよ」

蓮は静かに言った。

「お前の言葉はもう誰にも届かない。優しくしても手口に見える。笑っても録音を思い出される。女の子が泣けば、お前が泣かせたと思われる。誰かを口説こうとしても、その前に検索される」

レオンは黙った。

「お前のかっこよさは、人に見上げられている時だけ成立してた。今はもう、誰も見上げない」

「黙れ」

「地面に落ちた王冠を、自分で拾って被ればいい。笑われるだけだ」

レオンが一歩近づいた。

だが、ビルの入口には防犯カメラがあった。三田弁護士の事務所の職員も、ガラス越しにこちらを見ている。

レオンは殴れなかった。

蓮はそれを見て、初めて少し笑った。

「最後まで人任せなんだな」

「何?」

「女を使って俺を潰そうとして、親の名前で学校を黙らせようとして、今は俺が悪いことにしようとしてる」

蓮は通り過ぎた。

「自分で選んだことくらい、自分で背負えよ」

背後でレオンが何か叫んだ。

蓮は振り返らなかった。

数か月後、蓮は学校を去ることにした。

処分は出た。謝罪もあった。蓮の作品は外部で評価され、ドキュメンタリー制作会社から研修の誘いも来た。学校に残って卒業する道もあった。

けれど、あの廊下を歩き続ける必要はもうないと思った。

逃げではない。

自分の足で、別の場所へ行くのだ。

引っ越しの日、家の前には彼方が立っていた。

彼方は少しふっくらした体をゆったりした服で隠していた。顔色は以前より落ち着いているが、目はずっと暗い。蓮を見ると、両手を握りしめた。

「蓮さん」

おにいちゃんとは呼ばなかった。

それだけで、彼方が何度も練習したのだとわかった。

「何」

「行くんだね」

「うん」

「私、まだ謝りたいことがいっぱいある」

「知ってる」

「でも、言っても蓮さんを困らせるだけだから、今日は言わない」

蓮は少しだけ彼方を見た。

「そうした方がいい」

彼方は小さく頷いた。

「私、あの子のことはちゃんと考える。レオンさんから逃げられなかった自分の弱さも、蓮さんを裏切ったことも、一生忘れない」

「忘れない方がいい」

「うん」

彼方は泣きそうになったが、泣かなかった。

「蓮さんは、幸せになって」

「お前に言われなくてもなる」

彼方の顔が歪んだ。

それでも彼女は頷いた。

「うん。それでいい」

駅へ向かう途中、いろはが待っていた。

昔と同じ公園の前だった。いろはもまた、以前より落ち着いた服装をしていた。派手な口紅はしていない。レオンが似合うと言った色ではなかった。

「見送りだけ」

いろはは言った。

「邪魔はしない」

「そう」

「私、蓮に好きだったって言われたこと、一度もなかったね」

「言う前に終わったからな」

いろはは寂しそうに笑った。

「ほんと、馬鹿だね。私」

蓮は答えなかった。

「蓮、幸せになって」

「なる」

「うん」

いろはは道を開けた。

蓮は歩き出した。

背中で、いろはが小さく泣く気配がした。彼方も、いろはも、レオンも、学校で蓮を笑った女子たちも、それぞれの場所で自分の選んだ結果を抱えて生きていく。

それを見届ける義務は、蓮にはない。

駅のホームに立つと、朝の光が線路に反射していた。

スマホには、制作会社からのメッセージが届いている。次の現場の集合時間。撮影予定。必要な機材。そこには蓮を嘲笑う声も、レオンの名前も、彼方の呼び声も、いろはの謝罪もない。

ただ、次にやるべきことだけがあった。

電車が来る。

蓮は鞄を持ち直した。

誰かを守るふりで裏切らなければ、誰もここまで不幸にならなかったのに。

けれど蓮はもう、その不幸の真ん中に座ってやらない。

ドアが開いた。

蓮は前を向いて乗り込んだ。

自分の人生を、ここから始めるために。