軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第59話

タコ足うんめえ!

……いやね、そこだけ切り取ると、私が夜道で突然タコ足に感動している女みたいになるでしょう。違うのよ。違わないかもしれないけれど、少なくとも順番というものがあるのだわ。

だから、時間を三時間くらい巻き戻してもらえるかしら。

■■■■

ショゴス?

あのあと三秒で胃袋の中ね。

前回の引きで、か弱いレディが神話生物じみたコズミックホラーへ襲われていたでしょう。なのに私じゃなくて向こうの心配をしていた連中は、あとで全員ケツバットよ。被害者への寄り添いって言葉を知らないのかしら。まあ、結果だけ見れば、寄り添うべき相手がだいぶ間違っていたのは認めるけれど。

だって、向こうは確かに恐ろしかったのよ。

夜道の側溝から、ざり、ざり、とザリガニの脚が擦れる音がしていた。街灯は妙に黄色く、アスファルトは少し濡れていて、排水溝の奥からはテケリ・リ、テケリ・リと、喉のないものが無理やり鳴いているような声が漏れていた。覗き込むと、即席麺みたいに詰まっていたザリガニたちが、ぶるぶる震えながら黒いタール状の粘体へ取り込まれている最中だった。

その粘体の表面へ、目が浮いた。

口も浮いた。

どれもが私を見ていた。

飢餓と食欲しかない目だった。哀れで、浅ましくて、救いようがない。まるで鏡を見ているようで、かなり不愉快だったわね。

暴食粘体は、私へ襲いかかってきた。

か弱い玉織紬ちゃん二十六歳へ、である。

「……失礼ね」

私はそう呟いて、顎を外した。

所詮は旧支配者の奴隷種族にして奉仕種族。ドラゴンなのかグールなのか、もはや私にもよく分からない今の私の敵ではなかったのだわ。側溝のザリガニごと、ずるるるるるるるっ、と啜ってやった。黒い粘体も、殻も、目玉も、ぬめりも、そこに染み込んだ神話的な嫌な気配も、まとめて胃袋へ落とし、そのまま【存在捕食】で私のステータスへ変換する。

「テケリ…リリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ…タベナイデエエエエエエエエエエエエエエ!タベ…」

ごっくん。

味は、三年前に朔からパクった友チョコくらい美味かったわね。そういえばあの時、朔から「友チョコをもらったことのないテメエに、その大事さは分かんねえんだな」と言われて血を吐いたのよね。物理的にも吐いた。朔のボディーブローで臓器もいくつか出た。あれはとても教育的な出来事だったと思うわ。二度とやらないとは言わないけれど。

しっかし、あの子たち、ザリガニ一匹食うのにもあんなに手間取っていたのよね。貧相な食欲で、少食で、ちょっと可哀想だったわ。

そしてショゴスを食った瞬間、身体の奥で何かが引っかかった。

================== 【■■■■】が反応しました 【能力ラーニング】発動 【異界適性】を取得しました 【神話生物知覚】が可能になりました ==================

「……へえ」

私は少し黙った。

良いことを思いついたのよね。

どうやらこの【■■■■】は、ただ何でも雑に盗める便利能力ではないらしい。食った相手の核に近い部分、存在情報の濃い器官、あるいは深く食い合ってこちらの肉体や魂にまで味が染みた相手ほど、ラーニングの引っかかりが強くなる。そんな感触が、胃袋の奥から伝わってきた。要するに、ちゃんと味わって、ちゃんと飲み込んで、ちゃんと私の一部にする必要があるのだわ。

食事としても、能力としても、実に正しい。

それに私は、やる相手は一人もいなかったくせに、クトゥルフのルールブックだけは山ほど持っていた女である。高校の頃なんて、一人でGMとプレイヤーAとプレイヤーBとプレイヤーCとプレイヤーDを兼任していたもの。暗い部屋でお布団へ潜り、カップラーメン片手に、サイコロと鉛筆とルールブックをいじっている時間だけは、なかなか幸せだったのよね。

……いや、幸せだけでもなかったかしら。

キャラが勝手に動き、プレイヤーAとBが結婚して出産し、Cが就職して、Dが引きこもり脱却しやがった時は、さすがに本気でキレたもの。奇声を上げながら壁へ頭を何度も叩きつけて、正気を取り戻さなければ、確実に発狂していたわ。あと、大学入りたての頃、澪はいない、龍兄は嫌い、柚姉は怖い、という消去法で俊くんへクトゥルフを付き合わせて、ゲロを吐くまで深夜三時のセッションに拘束したのは、まあ、悪かったと思っている。少しだけ。

ともかく。

今の私なら、知覚できる。

知覚できるなら、呼べるはずなのだわ。

鋭角がある。奴を知覚している。その二点で現れる怪物。ルールブックだけで知っていた、角度の奥に潜む犬。

私は路地の角を見て、にやりとした。

「来なさいよ、ティンダロスの猟犬」

次の瞬間、空間の角が黒く染みた。

直角の奥から、ぬるり、と何かが這い出してくる。煙みたいで、獣みたいで、時計の裏側みたいに気持ち悪い輪郭。犬と呼ぶには関節が多すぎるし、牙と呼ぶには角度が鋭すぎる。現実が見てはいけないものを見てしまった、みたいな顔で歪みながら、そいつは確かにそこへ出現した。

ティンダロスの猟犬。

角度から来るやつ。クトゥルフ知識がなければ、普通の人生ではまず遭遇しないはずの怪物。

でも、私は知っているし、今の私は異界適性まで持っている。だったら話は早いでしょう。

猟犬が咆哮を上げようと息を吸い込んだ、その瞬間。

「遅いわ」

私は【暴食咆哮】を叩きつけた。

頭部が爆ぜた。脳爆散ASMR、などという最低な言葉が一瞬よぎったけれど、さすがに口には出さなかったわ。私は今、定職持ちの社会の歯車だもの。品性の最低ラインくらいは守りたいじゃない。

そのまま【屍龍喰息】で焼いた。

神話的な肉がじゅうじゅう音を立てる。角度の臭みみたいなものがあったけれど、火を入れるとかなりマシになるのよね。外はぱりっと、中は異界の出汁がじわっと来る。犬肉というより、時間の裏側に棲んでいる珍味を炙った感じ。悪くないどころか、結構好きな味だったわ。

================== 【鋭角転移】をラーニングしました ==================

「やったじゃない」

私はすぐ試した。

空間の角を噛む。齧る。裂く。

物理的にやっているのか、概念的にやっているのか、自分でもよく分からなかったけれど、角度の向こう側へ口を開く感覚は確かにあった。そこから先は、世界というより、世界の裏面だったわね。距離がぬめっていて、奥行きが腐りかけた寒天みたいで、色も音も匂いも、現実の分類から少しずつ外れている。狂気の味が染みていた。ちょっと苦い。ソースをかけたくなる。

私は【嗅覚増強】を開き、【龍翼飛翔】、起動。翼を広げて飛んだ。

異界を食べ歩く、というとずいぶん優雅に聞こえるけれど、実態はだいぶひどかったと思うわ。空は液体みたいに重く、下を見れば都市の死骸みたいなものが斜めに沈んでいて、建物の窓は全部こちらを見ていた。遠くでは、名前のない星が骨みたいに光っていて、足元には現実で踏んだことのない角度の道が、ぐにゃぐにゃと伸びている。

普通なら、ここで正気度判定でも入るのでしょうね。

でも私は、鼻を鳴らして獲物を探した。

見つけて、噛んで、味を見て、悪くなければそのまま完食。なかなか悪くない連中が多かったのよね。特に、アトラック=ナチャとかいう大蜘蛛はかなり良かった。脚はぱきぱき、腹は濃厚、糸の部分に妙な甘みがあって、神話系のくせに全体のバランスがいい。高級な虫料理ってこういう方向なのかしら、と少し感心したくらいだわ。

それにしても、不思議だった。

「……んぐ。なんか、SAN値とか削られそうなシチュエーションなのに、全然狂わないわね?」

私がそう呟いた時、どこか遠くから、もうSAN値ゼロじゃねww、みたいな声が聞こえた気がした。

失礼しちゃう。

仮にそう言ったのなら、そいつの扶養家族へ強制的に私を突っ込むわよ。毎日三食と夜食とおやつと補給食を用意してもらうから覚悟しなさい。

「私は今、かなり正気だわ。社会の歯車となり、定職まで手に入れたのよ。SAN値なんて五百億くらいあるに決まっているでしょう。正気すぎて狂気が効かないだけなのだわ。たぶん」

私は名状しがたき眼球触手へかぶりつきながら、もっちゃもっちゃとそう結論づけた。

実際、【神話生物知覚】を得てから、世界の見え方は少し変わっていた。路地の隅、部屋の角、ビルの窓枠、テーブルの端。そういう“角度”が、ただの形ではなく入口として見える。閉じた扉ではなく、噛めば開く薄い皮みたいに感じるのだわ。怖いかどうかで言えば、まあ、怖い。でもそれ以上に便利そうで、美味しそうだった。

そのまま食べ歩いていると。

見つけたのよね。

クトゥルフを。

……めっっっっっっっちゃくちゃ、うっっっっっっっっまそうだったわ。

いや、分かっているのよ。分かっている。ガチの神。ちゃんと上澄み。普通に触ったら駄目なやつ。見るだけでも人類が終わる類の存在だってことくらいは、クトゥルフルールブックを山ほど読んだ私には分かるのだわ。朔と龍兄は化け物だから除外するとして、普通の人間なら視界へ入れた時点で人生のジャンルが変わる相手でしょうね。

でも。

食欲に負けた。

それに、ほんの一瞬、本気で思ってしまったのだ。

今の私なら、少しはいけるのではないか、と。

食屍龍姫になり、異界適性を得て、神話生物を知覚し、ラーニングまで発動している。進化した直後の私の感覚は、たぶんかなり狂っていたのだわ。上位存在に対する畏怖より、「あれは食えるかもしれない」という錯覚の方が先に来た。社会の歯車としては最悪の判断だけれど、食屍龍姫としては、たぶん自然な反応だったのでしょうね。

「いただきます!」

私は突っ込んだ。

【屍龍喰息】を吐き、【暴食咆哮】を叩きつけ、【界滅爪牙】で裂き、【龍翼飛翔】で軌道を変えながら何度も噛みつこうとした。やれることは全部やったわ。おニューのスキルも、だいぶ気前よくぶっ放した。でも、ワンサイドゲームだったのよね。

向こうの遊びみたいな攻撃で、私は細胞単位に削られた。

肉片にされる。再生する。また突っ込む。また削られる。また再生する。

その繰り返しだった。普通なら一度目で心が折れるのでしょうけれど、私の心は、そういう大層なものではなく、ただメシ! メシ! メシ! で埋まっていた。涎を撒き散らし、手だけで這いずってでも特攻する。やっていることだけ切り取ると完全に害獣だったけれど、私としてはかなり真剣だったのよ。だって、あんなに美味しそうな神話生物、そうそういないでしょう。

そのうち、相手が少し真顔になったのが分かった。

なんでかしら?

まあ、いいわ。

私は【喰界領域】を展開した。

魅了効果はオミットされている。でも、空間を私の胃袋に近いものとして再定義し、領域内の対象と思考を薄く接続するくらいのことはできたのよね。だから、私はやった。何か高度な交渉とか、魂のぶつかり合いとか、神と怪物の精神戦とか、そういう格好いいものではないわ。

ただ、共有しただけ。

私の思考を。

高尚な狂気ではない。深淵の叡智でもない。世界の真理でも、生命の悲哀でも、神への反逆でもない。ただひたすら、美味しそう、食べたい、今すぐ食べたい、どこから食べれば柔らかいかしら、丸焼きか刺身か、出汁は取れるか、吸盤っぽいところはあるか、噛み切れなかったら煮込むべきか、という下劣で濁った欲求だけ。

善性も、社会性も、職歴も、その瞬間は全部後ろへ下がっていた。脳内CPUの五百億パーセントが「食いたい」で埋まっていたのだわ。私としては普通なのだけれど、どうやら普通ではなかったらしい。

クトゥルフが止まった。

ぴたり、と。

「トウキョウ、ユウラクチョウ、シンバシ、ハママツチョウ、タマチ、タカナワゲートウェイ、シナガワ、オオサキ、ゴタンダ、メグロ、エビス、シブヤ、ハラジュク、ヨヨギ、シンジュク、シンオオクボ、タカダノババ、メジロ、イケブクロ、オオツカ、スガモ、コマゴメ、タバタ、ニシニッポリ、ニッポリ、ウグイスダニ、ウエノ、オカチマチ、アキハバラ、カンダ、トウキョウ、ユウラクチョウ、シンバシ、ハママツチョウ、タマチ、タカナワゲートウェイ……」

巨大な神話存在が、理解不能なものへ直面したみたいに、動きを止めたのだわ。そしてビクンビクンと痙攣しながら、山手線の駅名をループする鳴き声を上げるだけになった。発狂してるわね、これ。

「……なんで? 私はただ、思考が食いたい一色だっただけなのに?」

本当にそうなのよ。

美味しいものを見たら食べたい。それで脳内が埋まるなんて、普通でしょう? 普通じゃないのかしら。でも少なくとも、私の中ではかなり自然な感情なのだわ。

ともかく、止まったなら機会よね。

「いただきます!」

私は噛みついた。

固い。

ものすごく固い。歯が立たない。歯が立たないのだけれど、味はするのよ。表面の向こうに、とんでもなく濃い出汁みたいなものがある。深海と星と狂気と腐った神殿を何万年も煮込んだような、最低で最高の旨味。ああ、これ絶対うまいやつだわ、と確信できる程度には。

「クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ!」

私は罵倒しながら、何とか食えるところを探した。

出汁を取りたい。最低でも削りたい。どこか、どこか弱いところは――と思っていた時、私は異常に気づいた。

「……ん?」

深部に、未成熟の神話的な核があった。

幼体というか、分裂核というか、まだ外へ出ていない神話の子種みたいなもの。言い換えるなら、クトゥルフベビーだったわ。

私は一瞬だけ黙った。

そして次の瞬間には、もう噛んでいた。

ガブッ。

うんまーーーーーーーーーーーい!

そこで本当に世界が開けた感じがしたのよね。柔らかい。濃い。狂気が甘い。神話存在の本体はまだ固すぎて出汁しか取れないのに、その未成熟核は旨味の核そのものだった。高級魚の卵とか白子がだいたい美味いのと同じ理屈かしら。いや、同じにしていいスケールではないのだけれど。

表面はぷつりと弾けて、中から濃縮された神話の汁が舌へ広がる。狂気の味は、思っていたより甘かった。奥に苦みがあって、後味に深海の塩気が残る。噛むたびに、どこか遠くの星の配置とか、沈んだ都市の夢とか、人類が知ってはいけない音階みたいなものが流れ込んでくるのだけれど、全部まとめて「うまい」で処理できた。私の味覚、本当に便利ね。

================== 【狂気放出】をラーニングしました ==================

「やったじゃない!」

私はそのまま完食した。

食べ終えた瞬間、頭の中が少し静かになった気がした。静かというより、うるさい狂気が外へ漏らせるようになった感じ。私の中に元からあった、食欲と自己嫌悪と社会性コンプレックスと下品な妄想と職歴への執着が、妙な圧力を持って外へ放出できるようになったのだわ。嫌な能力ね。敵に浴びせたら効くかもしれないけれど、味方に浴びせたら苦情が来そうだわ。

山手線詠唱から「42、42」と連呼するようになった本体は、まだ固い。

今はまだ歯が通らない。

でも、通るようになったら、いつか絶対食う。

「丸焼きにして食うわ!」

私は息を荒げながら、きっぱり誓った。

「クトゥルフも食う! アザトースも食う! 刺身にもする! うへへ……夢が広がるわぁ……」

尻尾が、ぶんぶん揺れていた。

我ながら、だいぶ最悪な夢だったと思う。でも、仕方ないじゃない。強い神話生物が美味いと分かってしまったのだもの。知ってしまった以上、もう後戻りはできないのよね。

そして私は、その帰り道でもう一度だけ、角度の裏側を覗いた。

角が見える。入口が見える。異界の匂いがする。夜道の普通の曲がり角すら、今の私には少しだけ食卓に見える。

……ああ、これ、生活がまた面倒になるやつだわ。

私はそう思いながらも、口元を拭った。

涎が少しだけアスファルトを溶かした。

まあ、とりあえず言えるのは一つだけ。

クトゥルフうんめえ! ってこと。