軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第54話

龍兄埋設事件の後、私は妙に気分が良かった。

社会の歯車にもなり始めている。家族にも少し喜ばれた。龍兄も埋めた。報酬もある。今日はなかなか悪くない日だわ、と思っていたら、居間の棚に朔の少女漫画が置かれているのが目に入った。

表紙には、やたら目の大きい男女が、夕焼けの教室で向かい合っていた。帯には「君の初恋が、世界を変える」みたいなことが書いてある。私はそれを手に取り、何となくぱらぱらめくった。

数ページで、だいぶ口元が歪んだ。

悪い意味ではない。いや、悪い意味かもしれない。分からない。とにかく、読んでいると胸の奥がむず痒くなるのだ。すれ違い。初恋。手が触れただけで赤面。雨の日の相合傘。体育祭のリレーで転んだヒロインを、普段は無口な男子が助ける。文化祭の後夜祭で告白しかけて、花火に遮られる。

童貞臭い。

あまりにも、童貞臭い。

いや、少女漫画へ童貞臭いという言い方が正しいのかは知らないわよ。でも、読んだ瞬間に出てきた感想がそれだったのだから仕方ない。恋愛への夢と幻想と、手を繋ぐまでに人類史をまたぐほどの慎重さと、現実には存在しないであろう都合のいい清潔感が、紙面からぷんぷん漂ってくるのだもの。

「……朔」

「あ?」

「あなた、こういうの読むのね」

私は表紙を掲げ、にやりと笑った。

「へえ。ふうん。なるほど。いつも人を害獣だのゴミだの言っている朔ちゃん、実はこういう、童貞臭い純愛キラキラ初恋漫画で胸をきゅんきゅんさせてるんだ。へええええええ」

朔の目が、すっと細くなった。

ここで止まればよかった。

分かっている。人生には、ここで止まれば助かる、という瞬間がある。そして私は、だいたいそこで止まれない。社会不適合というより、生存判断が下手なのよね。

「いや、可愛い趣味だと思うわよ? 普段あれだけ殺意で人の首を飛ばす女が、心の奥では『先輩、好きです……でも言えない……!』みたいなの読んでるなんて。ギャップ萌えじゃない。童貞臭いけど」

「おい」

「というか、これ主人公の男もだいぶ童貞臭いわね。手が触れただけで顔真っ赤って何よ。龍兄なら初対面三秒で連絡先を聞いて家族会議行きよ」

「龍兄を基準にすんな。汚れる」

「それはそう。でも朔がこれを大事にしていると思うと、何だか味わい深いわねぇ。あなたにもこんな湿度低めの初恋細胞が残っていたのね」

朔は、ゆっくり立ち上がった。

あっ、と思った。

でも、ここで私はさらに間違えた。逃げるでも謝るでもなく、漫画の裏表紙を見てしまったのだ。そこには市場価格を思わせる初版特典の情報が書かれていた。私の脳内で、報酬明細と牛丼とラーメンと、社会参画のための資金調達という都合のいい言葉が一瞬でつながった。

いや、待ちなさい。

今日の私は、ついさっきまで社会の歯車になったと誇っていた女ではなかったかしら。その女が、妹の初版帯付き少女漫画を勝手に売ろうとしている。かなり駄目。非常に駄目。善悪判定としては完全に黒。

でも、売れる。

最低のひらめきだった。

そして私は、その最低のひらめきを、行動に移した。

メルカリを開く。

写真を撮る。

説明文を書く。

『大切に保管していました。初版、帯付き。状態良好です』

入力した瞬間だけ、さすがに少し胸が痛んだ。大切に保管していたのは朔であって私ではない。私は今まさにそれを勝手に現金化しようとしている側の害獣だ。でも、そこで止まれるなら私は玉織紬をやっていないのだわ。

出品ボタンを押した。

十秒後、背後に朔がいた。

気配がなかった。

私は振り返るより先に、あ、死んだわね、と思った。

「テメエ」

そこから先は、ほとんど反射と物理法則の暴力だった。

朔のビンタが飛んだ。ビンタ、と言っていいのかしら、あれ。少なくとも私の知っているビンタは、人間の首を三百六十度回転させたりしない。頬へ衝撃が入った瞬間、視界がぐるんと回り、首の骨がありえない角度で悲鳴を上げ、次の瞬間には私の頭部が胴体から離れていた。

いや、待ってほしい。

首が飛ぶのはまだ分かる。玉織家では、まあ、稀によくある。よくあってはいけない気もするけれど、そこはもう諦めている。でも、回る必要はあったかしら。私の生首、いま完全にタケコプターみたいな挙動をしているのだけれど。

私は空中で回転しながら、妙に冷静に天井を見た。

畳。照明。朔の殺意。庭の縦穴。地下五百メートルに埋まっている龍兄の気配。全部がぐるぐる回る。

「ぎゃあああああっ!? 私の首が未来のひみつ道具みたいになってるぅぅぅっ!」

悲鳴だけは出た。生首でも声が出るのは便利ね。便利なのかしら。分からないわ。少なくとも普通ではない。

その頃、首より下の私の身体は、朔の追撃を受けていた。あの女、本当に容赦がない。ヒノカミ神楽みたいな勢いで、炎と斬撃と蹴りと肘と殺意をまとめて叩き込み、私の胴体を見事なまでにミンチへ変えていく。家庭内制裁の火力ではない。鬼舞辻無惨でももう少し引くのではないかしら。

けれど、今の私の身体もまた、だいぶおかしかった。

ミンチになった肉片が、床の上でぐじゅりと蠢いた。血と肉と骨片が混ざり合い、捕食性のスライムみたいに形を取り始める。そこかしこに小さな口が開き、歯が生え、舌が伸びた。私の肉体のくせに、私の命令を待たずに「食う」方向へ再構成されていくのだ。

主人への忠誠心が低すぎないかしら。

そして、その捕食性スライムと化した私の胴体は、よりによって空中から落ちてきた私の生首へ襲いかかってきた。

「ちょっと待ちなさい! 私の身体でしょう!? 主人へ反逆するんじゃないわよ!」

肉塊は返事の代わりに、口を開いた。

「ごはん」

「私じゃない!」

そこからは、もう最低だった。

生首の私と、首から下の私による、自己捕食バトルである。普通の家庭なら、姉妹喧嘩の後には謝罪とか仲直りとか、せいぜい親の説教があるのでしょうけれど、玉織家では生首が自分の胴体を食い返す。情緒も倫理も迷子なのよね。

私は舌を伸ばし、床を転がり、胴体スライムの口を避けながら噛みついた。肉を食う。骨を食う。自分の胃袋だったものを食う。とても変な気分だったけれど、味は悪くなかった。腹立つことに、私の肉はかなり美味しいのだわ。

「んむっ……紬ちゃん肉、うっま……じゃなくて! 戻りなさいよ、私!」

食い返すたびに、肉が私へ戻ってくる。首の下から新しい喉が生え、肩が生え、胸が戻り、腕が伸び、腹が整い、脚が再構成される。最後に残った肉片まで飲み込んだ時には、私は畳の上でぜえぜえ言いながら、ほぼ元通りになっていた。

朔はそれを見下ろし、冷たい声で言った。

「次やったら、少女漫画じゃなくてお前を出品する」

「……はい」

私は素直に頷いた。ここで反抗できるほど、私は勇敢ではない。食屍姫としてはかなり強いけれど、朔の前ではだいたいヘタレなのだわ。

ちなみに出品は取り消された。

当然でしょうね。

その直後、政府から通知が来た。

高位迷宮対応要請。

場所、都内近郊の新規迷宮。危険度暫定A。低位探索者の侵入防止済み。内部から怪異反応と魔石反応あり。補給あり。報酬あり。魔石回収あり。任務後食事支給あり。

私は、さっきまで生首だったことを一瞬で忘れかけた。

食事支給あり。

この六文字には、人を動かす力がある。少なくとも私を動かす力は、国家権力より強い。報酬も偉い。魔石も偉い。職歴も偉い。でも食事支給は、もっと直接的に偉いのだわ。

朔が呆れた顔でこちらを見る。

「首飛ばされた直後に仕事行くな」

「職歴に穴を空けたくないのよ」

「首には穴空いてただろ」

「もう塞がったわ」

「そういう問題じゃねえ」

分かっている。分かっているけれど、私は行くべきだと思った。

だって、仕事なのだ。私に来てほしいと言っている場所がある。食べるべきものがある。処理すべき迷宮がある。持って帰れば感謝される魔石がある。報酬が出て、ご飯が出て、記録に残る。こんなの、行かない理由が一つもないじゃない。

首が飛んだことより、仕事を休んだ扱いになる方が怖かった。

もちろん、怖くないわけではない。迷宮そのものより、報告書とか、現場責任者への挨拶とか、作戦説明を理解しているふりをしないようにすることとか、そういう社会性方面の方がよほど怖い。けれど、今の私はただの無職ではない。特別協力探索者、玉織紬。泥でできた歯車。燃費最悪の胃袋インフラ。社会の中へ、やっとこさ仮で差し込まれた不格好な部品。

なら、回るしかない。

私は黒パーカーを羽織り直し、首の角度を確認し、念のため口元を拭った。少女漫画の件で朔から受けた制裁の痕は、もうほとんど消えている。消えているけれど、心にはしっかり恐怖が残っていた。良い躾ね。嫌だけれど。

庭の穴からは、まだかすかに龍兄の気配がした。

「紬、行ってらっしゃい。無理はしないように」

「地下五百メートルから兄面しないで」

「帰ったら、今日のことを聞かせてほしいな」

「帰ってくるまでに掘り出されてるといいわね」

そう言ってから、私は少しだけ足を止めた。

ママが玄関まで見送りに来ていた。朔は腕を組んで壁にもたれ、いかにも不機嫌そうな顔をしている。でも、その目はいつもより少しだけ柔らかかった。いや、柔らかいというより、ギリギリ殺意がない程度かもしれない。それでも十分だわ。

「……本当に行くの?」

ママが言った。

「仕事だもの」

自分で言って、少しだけ胸が熱くなった。

ママはほんの一瞬、驚いたように目を細め、それから苦笑した。

「そう言われる日が来るとはね」

「私だって、社会の歯車として自覚が芽生え始めているのよ」

「その歯車、さっき妹に首を飛ばされていたけど」

「首が飛んでも回る歯車って、かなり頑丈でしょう」

「頑丈の方向が間違ってる」

否定はできない。

でも、それでも私は、玄関で靴を履いた。いつもの黒スニーカー。スーツでも革靴でもない。たぶん、社会性のある人間ならもう少しちゃんとするのでしょうけれど、迷宮へ行くのに歩きづらい靴を履くのも違うと思うのよね。そういう実用性だけは、私はわりと正しいはずだわ。

「行ってきます」

私がそう言うと、ママは小さく頷いた。

「行ってらっしゃい。ちゃんと食べて、ちゃんと帰っておいで」

ちゃんと食べて、ちゃんと帰る。

なんて私向けの送り出しなのかしら。

普通の家なら「気をつけて」とか「頑張って」とか言うところを、私の場合はまず食べることが業務であり、生存であり、社会貢献なのだ。かなり終わっているけれど、かなり私らしい。

朔は最後に、ぼそっと言った。

「仕事先で人のもん売るなよ」

「売らないわよ。たぶん」

「たぶんを外せ」

「売りません」

「よし」

私は少しだけ笑った。

そして玄関を出た。

夜の空気は冷たかった。けれど胃袋の奥は、もう次の迷宮の匂いを想像して熱くなり始めている。魔物。魔石。迷宮残骸。高カロリー補給食。報酬。職歴。誰かの役に立つかもしれないという、まだ慣れない期待。

その全部をごちゃ混ぜにして、私は歩き出した。

社会の歯車としては、きっと最低品質だ。

泥でできていて、歪んでいて、たまに勝手に人の少女漫画を売り、妹に首を飛ばされ、自分の胴体に食われかけ、兄を地下五百メートルへ撃ち込んでシャベルで埋めるような、どうしようもない部品。

でも、それでも。

必要だと言われた場所へ行くのだ。

食べれば、少しは回れる。

そういう歯車が一つくらい、この国にあってもいいでしょう。

「……さて」

私は口元を少しだけ緩めた。

「社会のために、本飯をいただきに行きましょうか」