軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第49話

健康診断という名の国家規模の怪異性能評価試験が終わったあと、私は政府施設の地下にある、やたら天井の高い食堂へ通された。

食堂。

そう、食堂である。

少なくとも看板にはそう書いてあった。けれど実態は、食堂というより、補給基地だった。

長机が十本。

その上に、米俵。肉塊。鍋。寸胴。焼き魚の山。果物の箱。パンの塔。業務用ケーキ。巨大な肉まん。ドラム缶みたいなスープ容器。あと、どう考えても食材ではない金属塊と、予備のタイヤと、なぜか分解済みの自動販売機。

「……龍兄」

「何かな」

「これ、本当にご飯?」

「本飯だよ」

「本飯、の定義が国家予算側に寄りすぎてないかしら」

「健康診断の結果を受けて、君に必要な補給量を試算したらこうなった」

「政府、理解が早いわね」

私は素直に感心した。

偉い。

とても偉い。

社会性のある人間は怖いけれど、こういうところの実行力だけは本当に偉い。

私は手を合わせた。

「いただきます」

そこから先は、かなり簡潔に言うわ。

食った。

米俵を三つ空にして、肉塊を四つ平らげ、寸胴を抱えてスープを飲み、焼き魚を骨ごと吸い込み、パンの塔を半分ほど崩し、業務用ケーキをフォークなどという文明の迂遠な道具を捨てて直接いった。

途中で、自動販売機の中に残っていた缶コーヒーを缶ごと噛み砕いたら、研究員の一人が「缶も含めて飲料判定なんですね」と遠い目をしていた。

違うわよ。

缶は缶。

中身は中身。

でも、まとめて食べた方が早いというだけの話だわ。

「んむっ……うん。やっぱり補給って大事ね。社会との関係も、まず胃袋からだわ」

「紬がそう言うと、比喩に聞こえないね」

「比喩じゃないもの」

私が肉を咀嚼しながら答えると、龍兄は少しだけ嬉しそうに笑った。

それが、腹立たしかった。

「……何よ」

「いや。ちゃんと食べられているなら、まだ大丈夫だと思って」

「人が緊張で食っているところを見て安心するの、だいぶ歪んだ兄妹愛じゃない?」

「君の場合、食べられなくなった時の方が危険だからね」

「まあ、それはそう」

認めざるを得なかった。

私は食う。

食えるなら、まだ生きている。

食えなくなったら、たぶんだいぶ終わりだ。

このあと、総理と話さなければならない。

総理大臣。

この国で一番社会性が濃い位置にいる人間である。

責任と調整と根回しと権力と記者会見と支持率と答弁を煮込んで、人間の形へ押し固めたような存在でしょう。私みたいな、面接で落ち続けた社会不適合者が近づいていい生き物ではない。

考えただけで胃が痛い。

胃が痛いと、腹が減る。

だから食う。

「総理と、これからのこと、ねぇ……」

私は寸胴を傾けながら呟いた。

「嫌だわ。とても嫌。政府会議だけでも五分で吐いたのに、今度は総理と個別対話? 何それ。私の社会性へ対する殺意が高すぎるでしょう」

「大丈夫。総理は思っているより柔軟な人だよ」

「柔軟な人間ほど怖いのよ。こっちの変なところに合わせてきた上で、逃げ道を塞いでくるもの」

「よく分かっているじゃないか」

「褒めてないわよね、それ」

龍兄は笑った。

本当に腹が立つくらい、綺麗に笑う男だった。

玉織龍。

顔が良い。

声が良い。

頭が良い。

運動能力が高い。

戦闘能力も高い。

公安最高戦力。

社会性もある。

善性の向き方も、少なくとも私よりはずっとまとも。

そして、下半身が終わっている。

総合すると、だいぶ最悪な兄だわ。

「ずっと思っていたんだ」

龍兄が、ふとそんなことを言った。

「何よ。怖い切り出しね」

「玉織紬はクズだ」

「本当に怖い切り出しだったわね」

私は肉を噛む手を止めなかった。

止めるほどのことではない。

だって、その通りだからだ。

「これは間違いない」

「念押ししなくても分かってるわよ」

「暴食は言うまでもない。嫉妬も強い。怠惰もある。強欲もある。傲慢もある。憤怒もある。色欲に関しても、僕のことを笑えない程度にはあるだろう?」

「黙れ殺すぞ」

「ツムニーは日課だったね」

「黙れ殺すぞ」

二回言った。

大事なことだから二回言った。

私はパンを一つ掴み、龍兄の顔へ投げつけようとして、直前でやめた。

もったいないからだ。

パンに罪はない。

代わりに自分で食った。

「まあ、そうよね。クズ中のクズであることに疑いようはないわ。私の人格は、悪性と食欲と怠惰と被害妄想と、ほんの少しの見栄で構成されているもの」

「そこまで言ってはいないよ」

「だいたい言ったでしょうが」

「でも、それに関して、母さんや朔、君に迷惑を被った人たちが悪いわけではない」

「そこは当然でしょう」

私は即答した。

「私が冷蔵庫を襲撃したら怒られる。漫画を勝手に売ったらボコられる。金を勝手に使ったら沈められる。人の食べ物を奪ったら嫌われる。当たり前よ。立場が逆なら、私だって東京湾に沈めるもの」

「だろうね」

「改善するとは言ってないけど」

「そこが問題なんだよ」

「知ってるわよ」

知ってはいる。

知っているのと、直るのは別だ。

この世界には、知っているだけではどうにもならないことが多すぎる。

空腹。性格。社会性。コミュ力。善性。

あと、お布団から出る難しさ。

それでも龍兄は、穏やかな顔のまま続けた。

「それと同時に、紬。君だって、そこまで悪くない」

「……は?」

私は思わず、肉から顔を上げた。

「いや、悪いでしょう。かなり」

「悪い部分はある。かなりある。迷惑をかけた相手が被害者であることも間違いない。君が自業自得で痛い目を見ることも、因果応報で、自縄自縛で、まあだいたい当然だ」

「すごい勢いで殴ってくるじゃない」

「でも、全部が君の責任かと言えば違う」

龍兄は、やけに真面目な声で言った。

「生まれついての特性。異常な食欲。社会性の噛み合わなさ。人間関係の精密機械に、最初から形の合わない歯車として放り込まれたこと。そういうものまで、全部まとめて君だけの罪にするのは違う」

「……」

「要は、あれだ。世界が悪い」

「出たわね」

私は顔をしかめた。

龍兄は、昔から時々それを言う。

紬はあんまり悪くない。

世界が悪い。

君が生きづらいシステムの世界が悪い。

あまりにも甘い。

あまりにも身内贔屓。

あまりにもクソJPOPの歌詞みたいな、聞いているだけで背中が痒くなる言葉。

でも、この男は本気で言う。

澪もそうだ。

あの善意の怪物も、本気で私を肯定する。

私が悪いと分かった上で。私がクズだと理解した上で。私の迷惑を無かったことにせず、それでも「生きている価値はある」と言う。

狂っている。

どう考えても、こいつらは狂人だ。

「君は必死に足掻いてきた」

「一般人以下の努力量で?」

「それでもだよ」

「結果も出ていないのに?」

「実を結ばなかった努力が、最初から無かったことにされていいはずがない」

「……ずるいわね、本当に」

私は吐き捨てた。

そして、腹が立ったので肉をさらに食った。

龍兄は、少し嬉しそうだった。

「嬉しいんだよ、僕は」

「何が」

「君が今、ちゃんと願いを叶え始めていることが」

「願い?」

「社会の歯車になりたい。食べることを役割にしたい。必要とされたい。ご飯を食べて、眠って、少しだけ許されたい」

「……」

「健康診断も、政府との協力も、そのための入口だ。君は今、自分の身体の異常さを、社会の運用項目に変えようとしている。だから嬉しい」

嫌いだ。

私は、この男が嫌いだ。

朔ではない。

ママでもない。

柚姉でもない。

一番嫌いな家族は、たぶん龍兄だ。

朔は怖い。ママも怖い。柚姉は別方向で気持ち悪い。

でも、あいつらの私への対応は、客観的に見ればだいたい当然だ。私が逆の立場でも同じことをする。たぶんもう少し悪辣にやる。

でも龍兄は違う。

こいつは、私と同じ泥の側にいる。

玉織家の恥部。

歩く性欲。

公安の顔をした放送禁止物体。

下半身の不祥事だけで、玉織家の謝罪行脚リストを何度も更新した男。

某庁舎のトイレ周りで何度か最悪の不審者ムーブをかまし、証拠品保管庫のサキュバス系押収物を私物化しかけ、任務対象の未亡人へ口説き文句を吐いて村山君に本気で殴られ、女関係の報復で何度もICUへ行き、家族会議で朔に「今度やったら臓器から順に売る」と宣告された男。

私も私で、朔の少女漫画を無許可で売り払ったり、柚姉のカードで豪遊したり、龍兄の部屋にあった多機能マネキンを質に出してキング牛丼を食ったりした結果、まとめてコンクリ詰めで東京湾へ沈められたことがある。

要するに、私たちはどちらも玉織家の恥だ。

なのに。

龍兄だけは、社会に溶け込める。

クズなのに。

壊れているのに。

泥の歯車なのに。

何でもない顔で社会の機構に噛み合って、公安最高戦力として回っている。

他者の痛みに泣ける。

他者の幸福を願える。

善性を、ちゃんと外へ向けられる。

それが妬ましい。

心底、妬ましい。

「大嫌いだわ」

私は小さく言った。

「知ってるよ」

「本当に嫌い。龍兄が一番嫌い。朔より嫌い」

「それは少し嬉しいな」

「嬉しがるな、気持ち悪い」

龍兄は笑った。

その笑顔がまた、嫌だった。

「多分、君は自分が他者のために何かしたことなんて無いと思っている」

「事実でしょう」

「意外とあるよ」

「ないわよ」

「家族に、血の涙を流しながらケーキを買ってきてくれたことがある」

「あれは気まぐれよ。あと、半分くらい自分も食べるつもりだった」

「おばあちゃんのために、必死で電化製品を直そうとしたこともある」

「直せてないわ。最終的に食べたし」

「それでも、やろうとはした」

「善判定が甘すぎるのよ」

「致命的な悪にまでは、まだ落ち切っていない」

「悪事をしないことなんて、死体にもできるわ。善ではないでしょう」

「あと」

龍兄は、そこで少しだけ黙った。

「廃人だった時の僕の救いになったこともある」

私は、咀嚼を止めた。

それは、あまり触れたくない話だった。

龍兄が壊れていた時期がある。

近隣国が核を撃ちかけ、世界を本当に滅ぼしかけた独裁者が、人外じみた何者かに殺された事件。

その事件と同じ頃、龍兄は壊れた。

家族は、だいたい察していた。

何があったのか。

何をしたのか。

けれど本人は何も語らなかった。

一人暮らしの部屋で、龍兄は生ける屍みたいになっていた。

食事もほとんど取らない。眠らない。あれだけ迷惑をかけ続けていた性欲すら消えていた。

心が死んでいた。

家族は通った。

ママも、パパも、柚姉も、朔も。

朔ですら泣いていた。

私も行った。

大学が近かったから。

寄り道できる距離だったから。

頻度も、家族の中では多分一番少なかった。

私は何もしなかった。

ただ、龍兄の部屋の隅に座って、スマホでソシャゲを周回していた。

たまに持ってきた食べ物を勝手に食った。

龍兄の分まで食いかけた。

眠くなったら布団で寝た。

会話らしい会話なんて、ほとんど無かった。

「……あれが何よ」

「救いだった」

「何もしてないわ」

「そこにいただろう」

「いただけよ」

「それが救いだったんだよ、紬」

龍兄は静かに言った。

「世界を壊しかけた部屋に、君がいつも通りいた。スマホをいじって、腹を鳴らして、僕のプリンを食べて、文句を言って、寝落ちしていた。僕が何をしたか知らないまま、何も変わらない日常の音を置いていった」

「……」

「それで、僕は少しだけ戻れた」

何も言えなかった。

嫌いだ。

大嫌いだ。

私と同じくらい壊れているくせに、こいつはそういう言葉を吐く。

私が自分で無価値だと切り捨てたものを、勝手に拾い上げて、救いだったなどと言う。

気持ち悪い。

妬ましい。

腹が立つ。

でも、少しだけ泣きそうになる。

私はそれが嫌で、寸胴を持ち上げて中身を一気に飲み干した。

「……黙れ」

「うん」

「そういうの、本当に嫌い」

「知ってる」

「大嫌い」

「うん」

「死ね」

「それは困るかな」

その時だった。

食堂の扉が、勢いよく開いた。

「玉織龍補佐官!!」

村山君の声だった。

その後ろから、公安らしき人たちが何人も駆け込んでくる。顔色が悪い。目が本気。完全に緊急事態の空気だった。

私は反射的に身構えた。

敵襲か。

怪異か。

それとも総理が倒れたのか。

村山君は、龍兄を睨みつけながら叫んだ。

「庁舎内トイレに盗撮用カメラを仕掛けた疑いで、事情聴取です!」

沈黙。

私はゆっくりと龍兄を見た。

龍兄は、ほんの少しだけ視線を逸らした。

「……龍兄?」

「誤解がある」

「死ね! クソ兄!」

考えるより早く、胃の奥で熱が膨れた。

総理との対話前。

社会性の残量はすでに限界。

兄から湿っぽい話を聞かされ、ちょっと泣きそうになった直後にこれ。

私の中の憤怒が、かなり正当な理由を得た。

「【飢餓咆哮】!」

「紬、待――」

どォッ!!

白黒どちらとも言えない飢餓の奔流が、龍兄を真正面から撃ち抜いた。

ただし、龍兄は龍兄である。

普通なら消し飛ぶ威力を、咄嗟に身を捻って受け流し、なぜか生きていた。

でも、吹っ飛んだ。

天井を突き破り、施設の上層を貫き、さらにその上へ。

ごう、と風が巻き込まれる。

龍兄の姿は、空のかなたへ消えていった。

「玉織龍補佐官が飛んだぞ!」

「追え!」

「回収しろ!」

「村山、行け!」

「なんで自分まで!?」

村山君が叫んだ瞬間、公安の数人が彼を抱え、というより半ば巻き添えにしながら、龍兄が開けた穴へ向かって飛び出していった。

何か対怪異用の跳躍装備でも使ったのだろう。

村山君の悲鳴が、だんだん遠くなる。

「ノアさあああああん!? これ、自分、何の任務ですかあああああ!?」

公安と村山君は、空のかなたに吹っ飛んだ龍兄を追いかけて退場した。

食堂には、私だけが残った。

穴の開いた天井。

半壊した机。

まだ残っている米俵。

呆然とした研究員たち。

遠くから聞こえる警報。

そして。

このあと、私は総理大臣と話さなければならない。

「……」

私はしばらく黙った。

それから、残っていた肉塊を一つ掴み、無言で齧った。

「……待って」

もぐ。

「これ、私一人で総理の前に行くの?」

誰も答えなかった。

そりゃそうだ。

答えたくないでしょうね。

私は口元を拭い、胃の奥がきゅうっと縮むのを感じた。

心配で、余計に腹が減る。

「……本飯、追加で」

研究員の一人が、震えながら端末を操作した。

「ど、どの程度……」

「総理大臣と一対一で話す前の量よ」

「基準が分かりません」

「私も分からないわよ!」

私は叫んだ。

そして、もう一度肉へかぶりついた。

兄が嫌いだ。

大嫌いだ。

私と同じくらい壊れているくせに、社会の歯車みたいな顔で回っているあの男が、本当に嫌いだ。

なのに。

その兄がいなくなった瞬間、私はこの国で一番社会性の濃い人間の前へ、一人で放り出されようとしている。

「……これ、私が一番苦手なタイプのボス戦じゃない?」

胃が鳴った。

ぐううううううううううう。

私は泣きそうになりながら、次の皿へ手を伸ばした。