軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第41話

王都へ着いて、最初にやったことは、当然、食事だった。

なにしろ、あの【万膳楼】である。

王都の料理系ギルド、その本拠地。名前だけは前々から掲示板で見ていたし、ケイゴから渡された“食べ放題チケット”の説明を読んだ時から、私はずっと、ずうっと、そこを人生の到達点みたいな目で見ていたのだわ。

だから、王都の石畳へ足を踏み入れた瞬間には、もう頭の中がご飯でいっぱいだった。

噴水。城壁。歴史ある街並み。行き交う人々。

そんなもの、今の私にとっては全部“背景”である。

重要なのは、その背景のどこから、どういう匂いで、どれだけ強そうなご飯が出てくるかだけだった。

そして【万膳楼】は、見事に私の期待を裏切らなかった。

店へ入った瞬間、鼻の奥へ広がった香りだけで、私はだいぶ駄目になっていた。

焼き上げた肉の脂。

澄んだ出汁。

焦がしバター。

炊きたての米。

香草。

焼きたてのパン。

果実を煮詰めた甘いソース。

魚の皮目がぱりっと裂ける寸前の、あのたまらない匂い。

ああ、駄目だわ。

これはもう、戦闘前の高揚ではない。

極上の幸福の気配を嗅ぎ取った、完全なる捕食者のそれだわ。

「っしゃあああああああっ! いっただっきまああああああすっ!!」

私は、ほとんど全力疾走の勢いで席へ着くなり、運ばれてきた一皿目へ理性を投げ捨てて飛びついた。

焼きたてのロースト。

香草を利かせた白身魚。

肉汁を閉じ込めたパイ包み。

出汁の香りが立つ澄んだスープ。

ふかふかのパン。

バター。

果実のソース。

焼き目のついた野菜。

炊き加減の完璧な米。

「ああああっ、うまっ!! ちょっと待って、こっちも美味しい、いやそっちも! 米! 肉! 脂! 糖分! 全部必要! 全部正しい!!」

口へ入れて、飲み込んで、次を掴んで、また食う。

食うたびに、脳の奥がぱぁっと明るくなる感じがした。

うまい。

いや、本当にうまい。

配信者の街で、あれだけプレイヤーを食って腹が膨れていたから、私は最初、わりと余裕だと思っていたのよね。

正直、軽い前菜を楽しむくらいのつもりでいた。

でも、違った。

【万膳楼】は、完全に別腹だった。

あれはもう、ただの“食事”じゃないのだわ。

料理へかけた途方もない手間と技術と執念の集合体が、一皿ごとに真正面から殴ってくる感じなのよね。

「うっっま! おかわり! 次! もっと! おっかっわっりぃぃっ!!」

私は空になった皿を積み上げ、パンを噛みちぎり、スープを飲み干し、ローストを裂き、魚をほぐし、米を掻き込んだ。

ソースの一滴まで残すのが惜しかった。

途中で一瞬だけ、ああ私いま、かなり幸せだわ、と思ったけれど、それを噛み締める暇があったら次の皿へ手を伸ばした方が有意義だったので、すぐやめた。

最初のうちは、周囲の客も、王都の一流店らしく品よく見て見ぬふりをしていた。

でも、皿の山が二段、三段と高くなり、私の手の速度が一向に落ちないと分かってからは、さすがに視線が激しく泳ぎ始めていたわね。

向かいの席の夫婦は途中から会話が止まり、給仕の青年は一度だけトレーを持ったまま石像のように固まり、厨房の奥の料理人は、たぶん誇りと困惑の両方でだいぶ複雑な顔をしていた。

まあ、そうでしょうね。

食べ放題の客へ料理人として腕を振るうのは誇らしいはずよ。

でも、その誇りを真正面からブラックホールみたいに食い尽くされると、話は少し変わってくるでしょうし。

うず高く積まれた皿の山の向こうでは、レイが割と本気で引いていた。

さっきこの比ではない量のプレイヤーを食ったのに、それはそれとして、【万膳楼】の旨さに私が目を輝かせているのがだいぶ意味不明だったのだろう。

でも、プレイヤーと一流料理は別腹なのよね。そこの整理がつかないなら、まだまだ侍としても人生としても浅いと言わざるを得ないわ。

そして澪はというと、聖女じみた穏やかな顔で、雀の餌みたいな量しか食べていなかった。

あの女、小学校の頃はカレーとラーメンとハンバーグをぐっちゃぐちゃに混ぜた“豚の餌丼”みたいなものを平然と笑顔で食べていたくせに、どうして今はそんな、絵本の中の深窓の令嬢みたいな上品な食べ方をしているのかしら。

成長って本当に理不尽だわ。

私だけが取り残されて、ただひたすらに食欲方面へ変異していった気がするのだけれど。

そんな感じで、私だけがめちゃくちゃに幸せな時間を過ごしていた、その時だった。

給仕が来た。

ものすごく、申し訳なさそうな顔で。

「その……お客様」

「はい、次のお皿!」

「いえ、その……誠に申し上げにくいのですが、本日のご提供は、こちらで終了と……」

「え? 終了? 何が? 前菜の時間が?」

私は皿を持ったまま、一切の冗談抜きで真顔で聞き返した。

「聞こえているでしょう!? 私はまだ一切諦めていないわよ!」

だって、まだ食べられるもの。

まだ全然いけるもの。

それなのに“本日のご提供は終了です”みたいな顔をされても困るのよ。

【万膳楼】の、せっせと私の一部になろうとしている愛おしいご飯ちゃんたちを、あんな中途半端なところで止めるなんて許せないじゃない。

そもそも、一週間使えるって聞いていたのだわ。

なのに、どうして一日も持たずに“今日はここまでです”みたいな空気になっているのかしら。

だいぶ不服だわ。

私のクソな部分は、店の前でメガホンを持って“詐欺だー!”と大演説したいと囁いていた。

でも、ほんの僅かに残った善の部分は、常識的に考えてそりゃあかんだろ、と必死に引き止めていた。

ほら。

私はこう見えて、善悪判定そのものが完全に死んでいるわけではないのよ。

完全に死んでいたら、もっと生きやすかったのかもしれないけれど。

「……だいぶ不服だわ」

「でも、美味しかったでしょう?」

澪がくすくす笑いながら言った。

「それはそれとして、絶品だったわ」

「でしょうねぇ」

「だから余計に腹が立つのよ。あんなの、絶対続きが食べたくなるに決まっているじゃない」

そう言ったら、澪は何を思ったのか、ぽんぽんと子供をあやすように私の頭を撫でてきた。

やめてほしい。

不服さが子供扱いで処理されるの、妙に心に効くのよね。

「ちょっと、何なのよ」

「いえ、紬さんってば分かりやすくて可愛いなぁと思いまして」

「ただ食べ足りないだけよ」

「その“だけ”が、お店にとっては重いんですよねぇ」

レイはその横で、微妙に視線を彷徨わせていた。

たぶん、王都へ着いて最初に目にした光景が、“黒歴史の塊みたいな女が一流レストランを食い尽くして、だいぶ気まずい空気を作るところ”だったのが、だいぶ可哀想だったのだと思うわ。

でも、そのへんは侍として懐深く受け入れてほしいところよね。

「さて。それで、次はどこで稼ごうかしら」

私は店を出てすぐ、きっぱりと現実的な話へ戻した。

ご飯は偉い。

でも、ご飯は無限じゃない。

つまり次のご飯のために稼ぐ必要がある。

これは揺るぎない真理なのだわ。

すると、そこで澪が、妙に明るい声を出した。

「王都で、普通に遊びませんか?」

「……は?」

「どうせ紬さん、基本、食事と、食事のための稼ぎと、ソシャゲと、ゲームと、お布団の中で生活が完結しているのでしょう?」

「否定しづらい真実を真正面から突きつけるの、やめてもらえるかしら」

「たまには他の色々なこともやって、好きなことしましょうよ。視野を広げましょう! この星には、楽しいことも輝かしいこともいっぱいあるのですよ! ただ一回の命、せっかくだから楽しみ尽くさないともったいないです!」

いや、自己啓発本みてえな事を言わないで欲しいわ。

私は露骨に顔をしかめたけれど、澪はまったく気にした様子もなかった。

こういうところが怖いのよ、この女は。

善意が真正面すぎる。

しかも、自分が善意の怪物だという自覚が恐ろしく薄い。

すると、その横でレイが小さく咳払いした。

「その……自分、ちょっと別行動でもいいですか」

「何よ」

「百合の間に挟まる男とかいう、最高に居た堪れないポジションになりそうなので」

「やめてよそういうの」

「冗談です。たぶん」

たぶんって何なのよ、たぶんって。

でも、レイは妙に察しのいい顔をして、すっと一歩引いた。

ほんの少しだけ気を利かせているのが分かった。

「一旦ログアウトします。何かあったら連絡ください」

「ええ、分かったわ」

「お二人とも、楽しんできてください」

「……そう言われると、急に気まずいのだけれど」

私がぼそっと言うと、レイは苦笑して、そのまま人混みの方へ消えていった。

そして、残されたのは私と澪。

「さあ、遊びましょう!」

「いや、テンションどうなってるのよ」

「今日は紬さんが一日付き合ってくださるので、私、かなり上機嫌なのです!」

「その言い方、若干怖いのよねぇ……」

でも。

この時点で、私はもう少しだけ分かっていたのよね。

たぶん、ここで断ったらもったいない、と。

ご飯以外のことへ時間を割くのは面倒くさい。

お金もかかる。

疲れる。

知らないことは気を張る。

でも、それでも。

今日の私は、ちょっとだけ、やってみてもいいかもしれないと思っていた。

食べること以外へ、丸ごと時間を使うなんて馬鹿みたいだと思っていたのに。

それでも、今は少しだけ、別の幸福の匂いがしていたのだわ。

で。

結論から言うと、かなり楽しかった。

腹立たしいことに。

最初に連れていかれたのは、王都の広場でやっていた大道芸だった。

火を吹く芸人。

空中で輪を回す子。

変な仮面をつけた道化。

あと、観客を巻き込んで剣を投げる、だいぶ怖い演目。

私は最初、「こういうのって見るだけでしょう」と思っていたのだけれど、気づいたら巻き込まれていた。

「ちょ、待ちなさいよ、何で私が投げる側なの!?」

「紬さん、こういう体験したこと無いでしょう?」

「ヤダヤダ失敗したくないいいいい!」

「はい、じゃあ行きますよー!」

「人の話を聞きなさいよぉぉぉっ!」

結果。

妙に上手く刺さった。

投げた木剣が、的のど真ん中へ綺麗に決まった瞬間、観客がわっと沸いた。

「っしゃあ! 勝った! 見た!? 今の私、かなり主人公してたでしょう!」

「してましたしてました! えらい!」

「でしょう!? 私、こういうの、やればできるのよ!」

気づいた時には、私はだいぶテンションが上がっていた。

いや、だって褒められたのだもの。

しかも、人前で、ちゃんと、分かりやすく。

そりゃあ少しは嬉しくなるでしょう。

その次は、魔道具で動く小舟を競走させる遊びだった。

澪が「紬さんこっちです!」と子供みたいな顔で手を引くから、仕方なく付き合ったのだけれど、これも妙に楽しかったのよね。

「うひゃあああ! これ楽しい!」

「でしょう!? 右です右! そこ曲がるんですよぉ!」

「分かってるわよ、やかましいわねぇ! うわっ、何その加速ずるい!」

「技術です!」

「絶対違うでしょう!」

私は船をぶつけて、澪は笑って、店員さんが困っていた。

実に良い遊びだったわね。

それから、観覧用の幻灯劇にも入った。

貴族向けらしい、綺麗な音楽と絵と物語が流れるやつ。

最初は「眠くなりそうね」とか思っていたのだけれど、途中から普通に見入ってしまった。

だって、あれ。

お姫様が、塔から飛び降りて竜へ頭突きをかます話だったのよ。

王道なのか狂っているのか、判断に困る構成だったけれど、少なくとも私の好みではあった。

「……あら、あのお姫様、わりと好きかもしれないわ」

「分かります! 暴力で道を切り開くお姫様、いいですよねぇ」

「そこだけ抜くと、だいぶ語弊があるわよ」

他にも、細工物の市場を歩いた。

ガラスの小瓶を見た。

変な香を嗅いだ。

占い小屋で「あなた、近々、世界を揺るがす選択をします」とか言われて、いや、せいぜい実家の冷蔵庫を脅かす程度なのだけれど、と思った。

澪はそれを聞いて、何故か妙に嬉しそうだった。

怖いわね。

しまいには、子供向けの輪投げまでやった。

「ちょっと、これ距離おかしくない?」

「言い訳は見苦しいですよ、紬さん」

「見苦しくて何が悪いのよ! 私はそういう生き物でしょうが!」

「開き直りが早いですねぇ」

「黙りなさいよ、次は絶対入れるわ!」

入った。

しかもかなり綺麗に。

「見た!? 入った! ほら見た!?」

「はいはい、すごいすごい」

「今の“すごい”は雑でしょう!? もっとこう、心を込めなさいよ!」

「きゃーっ、紬さんすごーい!」

「それはそれで腹立つわねぇ!」

気づけば、私はかなり大きな声で騒いでいた。

普段の私なら、知らない人の多い場所で、こんなに感情を表へ出すなんて無理だったでしょうね。

でも澪が隣にいると、不思議とできてしまうのよ。

やっぱりこの女、怖いわ。

人の距離感のバグを平気で踏み越えてくるもの。

服も変えた。

風呂にも入った。

伝統工芸まで作った。

あと最後に、噴水前でやっていた玉乗りみたいなやつへ乗せられて、普通に尻もちをついた。

「痛ぁっ!」

「大丈夫ですか、紬さん!」

「だ、大丈夫じゃないけど、でもちょっと楽しかったのが腹立つのよねぇ!」

「分かります!」

「いや、分かるの!?」

その直後。

「あっ、紬さん! 向こうにカブトムシさんいます!」

「え?タンパク質?どこ!?」

「ほら、あそこ!」

そして澪は、カブトムシへ向かって猛ダッシュしていった。

小学生男子みたいだった。

私も澪も。

精神年齢小学生の二十六歳児が二匹もいるの、終わっているわね。

本当に。

途中で、私はふと、昔を思い出した。

小学校。

幼稚園。

あの頃は、澪もこんな感じだったのよね。

今みたいな、妙に整った聖女じみた顔じゃなかった。

もっとシンプルに馬鹿だったわ。

泥だらけで笑って、転んで、また笑って。

私がひねくれたことを言うと、「何それ変ですね!」と真正面から返してくるような、雑で、眩しくて、うるさい存在だった。

それが、中学へ入る頃。

澪の両親は火災事故で、澪を庇って死んだ。

あの子は引っ越した。

最後の挨拶に来た時の目を、私はまだ覚えている。

光の届かない洞窟みたいだった。

絶望と地獄を濃縮して、そのまま眼球へ詰め込んだみたいな目をしていた。

その癖、口だけは必死に笑顔を作っていた。

怖かった。

あの時の澪は、子供の顔をしていたくせに、どこか、もう戻ってこない場所まで行ってしまった感じがしたのだわ。

でも、今。

隣にいる澪の目には、ちゃんと生気があった。

もちろん普通ではない。

あの女は今でもだいぶ異常者だし、善意の向け方が狂っているし、何なら私へぐいぐい来すぎて怖い。

でも、それでも。

あの頃みたいな、あの洞窟の底からこっちを見ているだけの目では、もうなかった。

ちゃんと、今ここにいる目をしていた。

それが少しだけ安心で、少しだけ気持ち悪かった。

「……何ですか?」

私が黙って見ていたことに気づいたのか、澪が首を傾げた。

「別に」

「嘘ですねぇ」

「うるさいわね。ただ、昔よりはマシな顔をするようになったと思っただけよ」

「おや」

「何よ、その反応」

「いえ。紬さんなりに褒めてくださっているのかなぁと」

「半分くらいはね」

「残り半分は?」

「気持ち悪い」

「ひどい!」

澪は声を上げて笑った。

私もつられて少し笑った。

なんだかんだで、遊んだ。

遊んで、遊んで、遊び尽くした。

飯のためでもなく、稼ぎのためでもなく、強くなるためだけでもない時間を、こんなに使ったのは久しぶりだった。

そして、そのこと自体が少し悔しいくらい、ちゃんと楽しかった。

「あー楽しかった!」

最後にそう言ったのは、澪だった。

でも、その時の私は、わりと同じことを思っていた。

夕暮れの王都近郊。

イベント開始まで、あと少し。

ダンジョンの入口近くには、もうプレイヤーがかなり集まり始めていた。

私は少し疲れた足を引きずりながら、小さく息を吐いた。

「……まあ、悪くなかったわね」

「悪くなかった、ですかぁ?」

「かなり、よ」

「ふふっ、よかったです」

澪は嬉しそうに笑った。

その顔が、あまりにも嬉しそうだったので、私はちょっと気恥ずかしくなって視線を逸らした。

「……リアルに戻ったら、海外旅行とかボランティア行きましょうよ!」

「私、就職すらしてないのだけれど?」

「いいじゃないですか。紬さんのお母様……結さんが、私に紬さんのこと相談に来た時に、冗談で“もううちの紬をもらってくれるのは澪さんしかいなさそうね”とか言ってましたし!」

「は?」

「いっそ籍、入れちゃいます?」

「は???」

「いいですよぉ、私が一生養いますよ! 私、お金持ちなので!」

「ドン引きだわ」

本当にドン引きした。

何を言い出しているの、この女。

「それと、結さんだけじゃなくて、兄姉さんたちからも色々聞いてますよ」

「は?」

「紬さんのこと、みんなわりと私に相談してくるのですよねぇ」

「……ちょっと待ちなさい。あの朔まで?」

「ええ。わりと」

「…………」

そこで私は、言葉に詰まった。

分かっているのだ。

そのくらい、分かっている。

周りに恵まれていることくらい、ちゃんと。

「ああああああ分かってんのよ! 分かってるわよ、そんなのぉぉぉっ!!」

思わず頭を抱えた私へ向かって、澪はへらりと笑った。

「紬さんって、自己中のカス女のくせに倫理観は真っ当だから、自分を客観視できちゃう故の自虐芸が十八番ですけど、私的には評価、全然低くないですよ」

「どうせ、みんな生きてるだけで素晴らしいとか、おてて繋いでみんなでゴール思想でしょ。頭おかしいわ」

「はい。その通りです。みんな大好きなので」

即答だった。

嫌な即答だった。

でも、いかにも澪らしい即答でもあった。

「紬さんが、道化になり、社会の有益な存在になり、人間に従う怪物として社会に受け入れられる方面に行っても、行かなくても、そんなの関係ありません」

「は?」

「紬さんが、たとえ誰の役にも立たずとも、社会の立派な歯車になれなくても、実家の畳のシミになるまで何も成せなかったとしても。紬さんが紬さんとして、足掻いて、努力して、喜んで、食べて、クソみたいなムーブをして、ただ生きてる。私にとっては、それだけで愛しいのです」

私は絶句した。

この女、本当に。

たまに平然と、心の守りをすり抜けるような恐ろしいことを言うのよね。

「この世には、生きる価値の無い命なんて……奪われていい命なんて、絶対に、絶対にありません。なので紬さん。あなたも、間違いなくその価値のある一つです」

「…………」

「そう思えた時点で、私は頭おかしく生まれてきて良かったです!」

「…ドン引きだわ」

「ドン引きしましたね! ギャハハハハ!」

やっぱりこいつ異常者だった。

でも、あの時みたいな目は、もうしていなかった。

そこにいるのは、ちゃんと生きていて、ちゃんと笑っている、狂った善意の女だった。

……まあ、結論としては気持ち悪いのだけれど。

やがて、澪も仕事があると言って別れた。

イベント開始まで、あと五分。

ダンジョン関係らしいと噂されていたそれは、王都周辺のプレイヤーたちをかなり広く集めていた。

私も、少し離れた場所からその入口を見ていた。

なんの変哲もないダンジョンだったのよね。

石でできた、古ぼけた入口。

薄暗い穴。

人が集まって、ざわついて、実況の声が飛び交って、それだけ。

でも、その時だった。

空気が、変わった。

音が変わるより先に。

光が変わるより先に。

世界の“手触り”みたいなものが、ぴたりと別物へ切り替わったのだわ。

ざわめきが、途中で切れた。

誰かの笑い声が、妙なところで止まった。

風が、変な方向へ吹いた。

空の色が、ほんの一瞬だけ深く沈んだ。

私は目を瞬いた。

次の瞬間、匂いが消えた。

あれほど濃かった人いきれも、食べ物も、土も、石も、汗も、全部。

世界から、匂いだけが一拍遅れてごっそり抜け落ちたみたいに、鼻の奥が真空になる。

「……え」

足元の石畳が、ふ、と重さを失った気がした。

立っているのに、立っていない。

踏んでいるのに、踏み返してこない。

空気が薄い。

音が遠い。

色だけが、輪郭だけが、やけにはっきりしていく。

私は息を呑んだ。

そして。

世界が、変わった。