作品タイトル不明
第014話 謝罪ではない謝罪
王太子ユリウス殿下が名簿院へ来たのは、翌々日の午後だった。
事前連絡はあった。王太子府からの公式訪問。用件は、妃候補名簿の修復相談および王宮名簿不具合への対応協議。
ノア様は応接室を用意した。
わたしは同席を求められたが、すぐには承諾しなかった。会いたくない、という感情は当然あった。けれど、逃げ続ける相手ではないとも分かっていた。
だから、条件を出した。
旧名照会をしないこと。身柄移送を求めないこと。妃候補名簿への登録変更は本人同意を前提とすること。会話はすべて記録すること。
ユリウス殿下は不満そうだったが、最終的に署名した。
署名があるなら、会える。
応接室へ入ると、殿下は立ち上がった。
彼の目がわたしを追う。
まだ思い出していない。けれど、何かを感じている。その視線に、昔なら期待したかもしれない。やっと気づいてくれるのではないか、と。
今は違う。
気づかれなくても、わたしは存在している。
「名簿院職員リネアです」
わたしは礼を取った。
「本日は業務上の協議として同席します」
ユリウス殿下は、わずかに顔を歪めた。
「君は、私を知っているように話す」
「王太子殿下を知らない国民は少ないかと」
「そういう意味ではない」
彼は椅子に座り、両手を組んだ。
「私は君に、何かをしたのか」
部屋が静かになる。
マルタの筆が止まりそうになったが、すぐに動き出した。
わたしは少し考えた。
この問いに、どう答えるべきか。
彼はわたしを覚えていない。だから、自分の罪の輪郭も曖昧だ。けれど、記憶がないから責任がないわけではない。
「殿下は、ある女性に名前を譲れと求めました」
わたしは言った。
「婚約者の座だけでなく、その人が生まれてから持っていた名を、別の女性へ渡せと」
ユリウス殿下の眉間に皺が寄る。
「それは、リリアのために」
「はい。リリア様のためと仰いました」
「私は彼女を愛している」
「愛している人に、他人の名前を着せようとしたのですか」
殿下は口を閉じた。
ノア様が静かに見ている。止めるつもりはないらしい。
「王太子妃には聖女名が必要だった」
「必須ではありませんでした」
「古例がある」
「古例を理由に、本人同意のない名譲りはできません」
「本人は署名しなかったのだろう」
「はい。署名しませんでした」
「なら、結果的に奪われてはいない」
その瞬間、胸の奥で何かが冷えた。
ああ、と思った。
これが、彼の謝罪の限界なのだ。
未遂だから。結果的に奪っていないから。署名しなかったから。だから、自分の罪は軽い。
わたしは静かに言った。
「殿下。誰かを崖から突き落とそうとして、相手が自力で逃げた場合、落ちなかったのだから問題ないとお考えですか」
「極端な例えだ」
「名前を奪われることは、わたしにとって崖から落ちることと同じでした」
ユリウス殿下の目が揺れた。
わたし、と言ってしまった。
けれど、もう構わない。
旧名を明かしていない。今ここにいるのはリネアだ。そのリネアが、自分の被害を語っている。
「君は……」
殿下が立ち上がりかける。
ノア様が書類を指で叩いた。
「旧名照会禁止条項」
殿下は悔しそうに座り直した。
「では、どうすればいい」
「何をですか」
「謝罪だ。私は何をすれば許される」
その問いに、わたしは疲れを感じた。
許されるために謝る。
それは、謝罪ではなく手続きだ。
「殿下は、誰に許されたいのですか」
「被害を受けた者に決まっている」
「その人は、許す義務を持ちません」
「だが、私は王太子だ。いつまでもこの問題に足を取られるわけにはいかない」
マルタの筆がものすごい音を立てた。
ノア様の目が冷える。
わたしは、むしろ落ち着いた。
「殿下。今の発言も記録されています」
ユリウス殿下は、そこでようやく失言に気づいたようだった。
「違う。私が言いたいのは」
「謝罪が必要なのは、殿下の政治的な不利益を解消するためではありません。名前を軽く扱った価値観を改めるためです」
「価値観」
「はい。名は器だと仰いましたね」
殿下の顔色が変わった。
思い出していないはずなのに、その言葉には覚えがあるのだろう。
「名は器ではありません。人が自分を自分として保つための線です。殿下がそれを理解しない限り、どんな謝罪文を書いても、同じことを繰り返します」
ユリウス殿下は黙った。
長い沈黙だった。
やがて、彼は低い声で言った。
「君は、私を許さないのか」
「今は、許しません」
はっきり言うと、彼は息を呑んだ。
「ですが、殿下が名を学ぶことはできます。リリア様をリリア様として扱うこともできます。王宮名簿を本人同意を前提に見直すこともできます」
「それをすれば、許すのか」
「それは、許しを得るためにすることではありません。王太子として必要だからすることです」
ユリウス殿下は、初めて視線を落とした。
彼が本当に反省したのかは分からない。たぶん、まだ怒りも屈辱もある。わたしに言い負かされたと思っているかもしれない。
それでも、彼の中で何かがひび割れたことは分かった。
応接室を出る前、殿下は足を止めた。
「リリアは、昨夜泣いていた」
わたしは返事をしなかった。
「自分の名前で殿下の隣に立てないなら、隣に立つ意味がないと言った」
胸が少し痛んだ。
「彼女は、私を拒んでいるのか」
「リリア様にお聞きください」
「君なら分かると思った」
「わたしはリリア様ではありません」
殿下は苦い顔をした。
「そうだな。人は代わりにならないのだったな」
それだけ言って、彼は出ていった。
扉が閉まる。
わたしは大きく息を吐いた。
ノア様が静かに言う。
「よく言った」
「手が震えています」
「震えても、言えた」
そう言われて、少しだけ力が抜けた。
許すかどうかは、まだ先の話だ。
けれど、少なくとも今日、わたしは自分の傷を小さく見積もらなかった。
それだけで、リネアという名前は昨日より強くなった気がした。