軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第012話 名なき書記官

閉架書庫へ侵入した書記官の名前は、見つからなかった。

王宮書記官名簿には、該当する者がいない。徽章の番号も欠番。警備記録には、出入りした人影すら残っていなかった。

「名を消した者か、名を貸した者だな」

ノア様は記録を見ながら言った。

「名を貸す?」

「自分の名を一時的に他者の行動に使わせる裏契約だ。正規の手続きでは認められていないが、闇商人がよく使う。罪を犯すとき、別人の出入記録を残せる」

「そんなことをすれば、貸した本人にも影響が出るのでは」

「出る。記憶の欠落、体調不良、名札の劣化。長く続けば、本人の輪郭が薄くなる」

わたしはロアンの白い手袋を思い出した。

名を商品として扱う人々にとって、誰かの輪郭が薄くなることなど、単なる経費なのだろう。

調査の手がかりは、侵入者が落とした赤いインクだった。

聖女の言葉を塗りつぶしたあのインクは、王宮書記局で使われる訂正用のものではなかった。もっと粘りがあり、乾くと文字の祝福を弱める。名簿院の鑑定室で調べると、羊皮紙に残る署名の痕跡を隠すための薬品が混じっていた。

「名隠し墨」

マルタが眉をひそめた。

「違法品です。白鳩通りの倉庫街で流れていると聞いたことがあります」

「ロアンが言っていた三番倉庫ですね」

「罠でしょうね」

「罠でも、手がかりはそこにあります」

わたしが言うと、ノア様は即座に首を横に振った。

「君が行く必要はない」

「わたしを狙っている相手です。わたしが行かなければ、向こうは出てこないかもしれません」

「だから危険だ」

「危険なのは分かっています」

言い返してから、わたしは口を閉じた。

ノア様の表情は厳しかった。けれど、それは支配のための厳しさではない。わたしを閉じ込めたいのではなく、傷つけたくないのだと分かる。

分かるからこそ、きちんと話さなければならない。

「ノア様。わたしは守られたいだけではありません」

彼は黙ってわたしを見た。

「名前を奪われそうになったとき、誰もわたしに確認しませんでした。守るという言葉も、家のため、王宮のためという意味で使われました。だから今、わたしが危険なことをするかどうかは、わたしに決めさせてください」

「君が危険を選ぶのを、私はただ見ていればいいのか」

「いいえ。止める理由を説明して、代案を出してください」

マルタが小さく「おお」と呟いた。

ノア様はしばらく沈黙した。

やがて、深く息を吐く。

「代案を出す」

「はい」

「君は三番倉庫へ行かない。代わりに、名簿院の保護区でロアンへ偽の買い取り交渉を持ちかける。君が聖女名を売る意志を見せ、相手から契約書を出させる。契約書が出れば、署名元を追える」

「それでは、わたしが売る気があると思われます」

「思わせるだけだ。署名はしない」

「……できますか」

「君が署名しなければいい」

その単純な答えに、少し笑ってしまった。

そうだ。署名しなければ、契約は成立しない。

以前のわたしは、差し出された書類に署名するしかないと思っていた。けれど今は、読んで、考えて、拒否することができる。

「分かりました。その案で」

「交渉には私が同席する」

「ロアンは警戒するのでは」

「警戒させるために同席する」

マルタが帳簿を閉じた。

「では、私も記録係として同席します。あと、受付鈴の大きい版を持っていきます」

「大きい版?」

「鳴らすと警備が来ます」

「それは鈴というより警報では」

「受付用語では鈴です」

その準備をしていると、鑑定室から若い職員が駆け込んできた。

「院長代理、赤いインクの残留名を拾えました!」

差し出された小さな紙には、薄い文字が浮かんでいた。

完全な名前ではない。

けれど、最初の二音だけが読めた。

「セラ……?」

わたしは呟いた。

ノア様の顔が変わった。

それは、わたしが初めて見る表情だった。冷静な公爵でも、規定を盾にする院長代理でもない。痛みを必死に押し殺した人の顔。

「ノア様?」

彼は紙を受け取り、指先を震わせた。

「セラは、私の妹の名だ」

部屋の空気が止まった。

マルタが小さく息を呑む。

「でも、アステル公爵家に妹君がいらっしゃるとは」

「記録から消された」

ノア様の声は低かった。

「八年前、王宮の名簿実験で」

わたしは何も言えなかった。

名前を消される痛みを知っている。けれど、家族を記録から消される痛みは、別のものだろう。

「セラは死んだとされている。だが、名札は見つかっていない」

ノア様は紙を握りしめた。

「もし生きているなら」

その先は言葉にならなかった。

わたしは、彼の手にそっと触れた。

前なら、恐れ多いと思っただろう。公爵に触れるなど、と。

でも、今そこにいるのは、妹の名前を失った兄だった。

「探しましょう」

わたしは言った。

「セラ様の名前を」

ノア様はわたしを見た。

深い青の目に、わずかな光が戻る。

「君を巻き込む」

「もう巻き込まれています」

「危険だ」

「代案を出してください」

そう言うと、彼は一瞬だけ目を伏せた。

そして、かすかに笑った。

「君は、本当に強くなった」

「強くなりたいだけです」

「それで十分だ」

赤いインクに残ったセラという名。

白の名簿を狙う商人。

王宮の消された記録。

点と点が、少しずつ線になり始めていた。

リネアという名前を選んだとき、一本の線から始めたいと思った。

けれど、その線はわたし一人のものではなかった。

失われた名前を結び直すための線になっていくのだと、そのとき初めて感じた。