軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

ファーストキスってどんな味なのかしら?

「ファーストキスってどんな味なのかしら?」

婚約者である王太子のディルニアスと母親のマリーベルの三人でお茶をしている時に、ヴァイオレットはふと疑問に思っていたことを呟いた。

「この間までオムツをしていたと思っていたのに、そんなことを考える年齢になったのか。月日が経つのは早いものだね……」

「殿下、母親のわたくしが思った台詞をわたくしよりも先に言わないでください」

マリーベルはきっぱりと口にした。

産まれるのを手ぐすね引いて待ち構え、産まれてから即座に婚約式を行い、自ら進んでオムツを交換して、泣けばあやし、添い寝をし、風呂に入れ、散歩に連れて行き、絵本を読み聞かせ……「母乳を与える」以外は全てやり遂げたと言える 婚約者(ディルニアス) であった。こちらが親であると主張しておかなければ、存在を無視されかねない。

「いや、何だか感慨深くてね……」

「それは、分かります」

二人は暫し、親目線で頷き合った。

「それはそれとして、どうしてそんな事を思ったんだい? 何かあったのかな?」

「昨日、お友達が言っていたのよ。ファーストキスはレモンの味、って本に書いてあったって」

「ああ、そう書いてある本はありますね」

マリーベルは頷いた。そのお友達は恋愛小説を読んだのだろうと想像する。

「でも、どうしてレモンなの? って聞いたら、分からないって言われて」

それは分からないだろう、とマリーベルは苦笑した。

「酸っぱいのは嫌よね、という話になって、どんな味だったら良いかしらって話をしていたんだけど、実際はどうなのかしらと思ったの」

ヴァイオレットはじっと、母親のマリーベルと自分の婚約者のディルニアスを見つめた。

マリーベルは、淑女の微笑みを浮かべつつ、どう返事をすれば良いのか困惑した。女同士、母と娘としてならば言いたいことはある。そういう味とかではなく、好きな人とのときめく瞬間なのだとじっくりと話すことは出来る。

だが、隣にヴァイオレットのファーストキスの相手となるであろう、婚約者のディルニアス殿下がいるのだ。下手なことは言えない。少しの隙でも見せては、何を言われるか分からない。下手をすれば、結婚式を早めてファーストキスの味を確かめようなどと言い出しかねない、とマリーベルは口を開くことが出来なかった。

「そうだねえ。実際はべつに味なんかしなかったよ」

さらりと、ディルニアスは言った。

「口と口をくっつけるだけなんだから、味なんかする訳ないよね。その前に食べてた食事の味がするくらいじゃない?」

さらりさらりと、ディルニアスは言った。

ディルニアスは二十五歳、婚約者のヴァイオレットは十二歳だ。年齢差を考えて、ディルニアスに愛妾を与えようとする人たちがいるとは、マリーベルの耳にも聞こえてはいた。聞こえてはいたが、あの殿下が? 産まれる前から色々と画策して婚約者にヴァイオレットを据え置いたあの殿下が、愛妾など待つはずがないだろうと信じて疑ってなどいなかった。

母親であるマリーベルですら、裏切られた気分でディルニアスを凝視した。

「…………ディー、ファーストキスしたことあるの?」

ヴァイオレットのこんな地の底から出てくるような低い声を初めて聞いたわ! とマリーベルは驚いた。

だが。

「うん、勿論」

ディルニアスはあっさりと頷いた。

どうしましょう。裏切られた気分だわ。いえ、裏切られたのよね。余りにも執着溺愛常軌を逸した行動が多いから、そこまでこの娘を大事にしてくれるならって婚約を了承していたけれども、やはり今からでも解消するべきかしら? いざとなったら国を出れば良いんだし。ああ、でも、ヴィオラがこんなに怒ってるなんて、やはりこの子は殿下のことが好きなのね……。だけど完璧な王太子と呼ばれているのに、まさかヴィオラが怒っていることに気が付いていないの? とマリーベルは一瞬の間に考えた。

その一瞬後に。

「君と」

そう言って、ディルニアスはヴァイオレットに笑いかけた。

「……わたし?」

ヴァイオレットは目を丸くした。

母親のマリーベルも目を丸くした。

「そりゃあ、君が産まれた時に直ぐにキスをしたに決まっているじゃないか!」

しない訳がない、と胸を反らせたディルニアスに、それはそうだとマリーベルは深く納得した。

ヴァイオレットは、何だか微妙な顔をしている。

「だから、ヴィのファーストキスは私が貰っているからね!」

「あら、それを言うなら」

マリーベルは少し意地悪を言いたくなった。

「絶対にわたくしの方が先にヴィオラにキスをしましたわ。だって、産まれて直ぐにしましたもの」

その後に、産湯に浸からせてからディルニアスはヴァイオレットを抱っこしたのだ。

「卑怯な……」

「何が卑怯ですか。だってわたくし、母親ですもの」

命がけで産んでいるのに、母親の自分よりも先にディルニアスがヴァイオレットにキスする方が卑怯ではないか、とマリーベルは思った。

「それって……」

ヴァイオレットは首を傾げた。ハーフアップにしている白金の髪がさらさらと揺れる。

「間接キスと言うものですか?」

「………………」

「………………」

ディルニアスもマリーベルも暫く何も言葉が出てこなかった。

「待ってくれ、ヴィ。これは不可抗力なんだ。知らなかったんだよ。私の君への愛は変わらない。だけど、穢れてしまった私は君にはもう相応しくないと思うだろうか?」

ディルニアスは椅子から飛び降りる勢いで立ち上がり、回り込んでヴァイオレットが座っている椅子の傍らに片膝をついて見上げた。

「穢れって何ですか、失礼ですね! そちらが断りもなくわたくしの娘にキスしてるからでしょう! ああ、でも待って。マックスに知られたらややこしいかも」

夫のマクシミリアンも妻のマリーベルを溺愛していた。

「あら、お父様はわたしにキスしてくれていないんですか?」

「勿論、してるわよ!」

「じゃあ、三人とも平等に間接キスをしてるということになるから良いんじゃないですか?」

ヴァイオレットの言葉に、ディルニアスが珍しく悲壮な顔をした。

「ああ、ヴィ! 私はもう君を愛する資格はないんだ! 私は完全に穢れてしまった! 清らかな君に触れることが畏れ多いよ」

そう言いながら、座っているヴィの膝に突っ伏した。

いえ、早速触れてますわよね? とマリーベルは心の中で突っ込んだ。

「……ファーストキスって難しいのね」

疲れたように、ヴァイオレットはしみじみと口にした。

「だって、わたし、今までにお父様やお母様と沢山キスしたわ。弟とだって偶にキスするし」

「……何だと?」

ディルニアスがむくりと顔を上げた。

「ディーはその後わたしにキスをしたの? わたしは口にされた記憶はないのだけれど」

口以外には瞼や額や頬や鼻の頭、掌、手の甲、等々様々な場所にキスはされている。

「その後は見張りが厳重で出来なかったよ」

ディルニアスは、残念そうに答えた。

壁際に控えているディルニアスの従者のジェフリーと、ヴァイオレットの侍女のジェインが頷いた。この二人は兄妹で王家の影として教育を受けてきており、護衛としてそれぞれに付けられていた。護衛と言うよりは、ディルニアスの暴走を止める事が仕事となっているが。

隙あらばキスどころか舐め回しそうな勢いのディルニアスを、二人は必死で見張ってきたのだ。

「ディーは私にファーストキスをしているって言うけど、わたしは覚えていないし。なのにどうして世間ではレモンの味とか言うの? 皆、赤ん坊の頃にファーストキスを済ますものじゃないの? 意味が分からないわ」

むうっと眉根を寄せて口を尖らせるヴァイオレットを、ディルニアスは愛しそうに微笑んで見上げている。

「そんなに難しく考えるものじゃないわ。自分の意思でこの人とキスをしたい、と思ってする初めてのキスがファーストキスになるのよ」

マリーベルの言葉に、ヴァイオレットは少し首を傾げるようにして考えた。

「では、わたしのファーストキスはまだということね?」

ヴァイオレットは何かに気が付いたように、楽しそうに紫水晶の瞳を輝かせる。

「ディーは赤ん坊のわたしに、ディーの意思でキスをしたのよね? じゃあ、ディーのファーストキスの相手はわたしで、もう済んでいるのよね?」

「その通りだよ」

ディルニアスは頷いた。

「ヴィのファーストキスも、勿論、私……だよね?」

不安になって、ディルニアスは恐る恐るとヴァイオレットに訊ねた。

「…………そうね」

少し考えるようにした後、ヴァイオレットはディルニアスの前に両手を揃えて差し出した。ディルニアスは反射的に、ヴァイオレットの小さな両掌の上に自分の手を乗せる。

そうして、ヴァイオレットはディルニアスの手首を掴んで掌を、ディルニアス自身の唇に押し付けた。

その後、ディルニアスの掌に口づける。

「ふふふ。これで、わたしもディーと間接キスね!」

小さく舌を出して笑うヴィに、ディルニアスは何も言えなくなり真っ赤になった。

「あら、ディー? 顔が赤いわよ?」

「いや、あの」

掴まれている腕を取り返して顔を隠したいのだが、ヴィは手首を放してくれなかった。ディルニアスは、自分でも何故顔が赤くなるのか分からなかった。

「ねえ、これはね、ファーストキスの予約、だからね?」

「…………私との?」

「ええ、勿論よ」

ヴァイオレットはにっこりと笑った。

「昨日お友達とも話していたのだけれどもね。ファーストキスは特別なものだから、特別な場所で行いたいわよね、と話していたの。だからね」

ディルニアスは、ヴィの言う事は何でも聞くつもりだった。ヴィがどのような希望をあげても、権力財力全てを使って叶えてみせる、と強く心に誓った。

「わたしやっぱり、結婚式の誓いのキスに憧れるわ」

「…………………分かった。絶対に、盛大な式を挙げよう!」

この部屋の中、唯一同じ性別のジェフリーだけが、初めて、深く、ディルニアスに同情した。

◇ ◇ ◇

そんな事も言ったわねえ、とヴァイオレットは思い出していた。

「────それでは、誓いのキスを」

そっとヴァイオレットが屈み、ディルニアスがヴェールを上げると、二人の視線が絡んだ。

再び金色の瞳を潤ませているディルニアスの表情に、ヴァイオレットは小さく口角を上げた。

『ファーストキスってどんな味なのかしら?』

あの頃のわたしに教えてあげたい。

────ちょっと、塩辛いわね。