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作品タイトル不明

第八十九話 風の報せ

「まず、有馬方にございます」

その名が出た時、惟種はわずかに目を細めた。

有明海で有馬晴純の目は見ている。

あの男が阿蘇をただ黙って見過ごすはずはなく、何らかの形で動くであろうことも、惟種には半ば見えていた。

寿貞は、静かに続ける。

「有馬殿は、阿蘇を危うい家として、あちこちへ申して回っておる様子にございます」

惟豊は何も言わぬ。

その先を促すように、ただ寿貞を見ている。

「大村、松浦、西郷などへも折に触れて声を掛けておるとか」

寿貞は言った。

「阿蘇をこのまま肥前へ根づかせ、海口まで押さえさせれば、いずれ皆の首へ縄が掛かる――おおよそ、そのような言い様にございます」

宗運の目がわずかに細くなる。

「己が恐れを、周りへ配って歩いておるか」

「さように見えます」

寿貞は答えた。

「今すぐ、どこも有馬へ与して立つほどではございませぬ。されど、繰り返しそのように申されれば、耳には残りましょう」

惟種がそこで、静かに口を開いた。

「恐れておるのです」

座がそちらを向く。

「恐れておらぬなら、自分一人で受ける。わざわざ大村や松浦へ危うさを説いて回る必要はありませぬ」

低い声であった。

だが、その言葉で足りた。

惟豊が短く頷いた。

「有馬が先に動く、ということだな」

寿貞は、深く頷き返しただけであった。

「大友は――表向きは静かにございます」

次にそう言った時、座の空気は少しだけ変わった。

静か。

だが、その静けさが善い意味でないことは、寿貞の声の置き方で分かる。

「表向き、か」

惟豊が低く問う。

「はい」

寿貞は答えた。

「されど内は、どうも穏やかではございませぬ。近ごろ、嫡男の話が前へ出てきておるとかで、家中もいささか不穏にございます」

宗運が問う。

「どのようにだ」

「確かな文を見たわけではございませぬ」

寿貞はまずそう断ってから、なお続けた。

「されど豊後筋の商人らは皆、そのように申しております。加えて――なぜか戸次鑑連殿、吉弘鑑理殿が、あれこれ詰問されておる由」

座の空気が、そこで少しだけ締まった。

惟種は黙って聞いていた。

以前、大友義鑑と入田親誠が来た時に感じた匂いが、ここでも裏打ちされていく。

「お家騒動、にございますな」

宗運が低く言う。

寿貞は、余計な言葉を重ねず、軽く頭を下げるに留めた。

惟豊が重く言った。

「ならば、いまの大友に阿蘇へ手を出す余裕はあるまい」

寿貞はそこで、ようやく短く答えた。

「そのように見えます」

そこへ惟種が、静かに言葉を差した。

「ただ」

寿貞が目を向ける。

「嫡男――義鎮殿は、阿蘇を深く恨んでおるやもしれませぬ」

宗運は、その続きを待った。

「比べられておるのだろう」

惟種は言う。

「自分で言うのもなんだが、家中の誰かが、阿蘇の若君はどうだ、惟種はどうだ、と一度でも口にすれば、それだけで胸のうちに棘が立つ」

惟豊は何も言わぬ。

だが、その理はよく分かっていた。

名家の嫡男である。

しかも家中は揺れている。

その身で、年端もいかぬ他家の若君が戦でも政でも名を上げておれば、気に食わぬと思うて不思議はない。

「今すぐ動けぬ相手ほど、後に面倒なこともある」

惟種は続けた。

「動けぬうちに、恨みだけ育つからです」

宗運が静かに頷いた。

「肝付、伊東もまた、落ち着かぬ様子にございます」

寿貞は次に南の話を持ち出した。

「何を見ておる」

惟豊が問う。

「島津と阿蘇の筋にございます」

寿貞は答える。

「南を島津が押さえ、北を阿蘇が押さえる。そのような形になれば、九州のありようそのものが変わる――そのように警戒しておる者が、南には少なからずおります」

惟種はその言葉に、小さく頷いた。

見られている。

それでよい。

阿蘇が島津へ筋を流し、島津が南を固めている以上、肝付も伊東も、それを別々の動きとは見まい。むしろ一つの流れとして受け取るであろう。

惟豊が低く言った。

「勝手に重く見てくれるなら、それもまたよい」

寿貞は「は」とだけ応じた。

「また、大内にございますが――」

寿貞は、最後にその名を出した。

「ご存知の通り、義隆殿は政務のすべてを家臣へ任せきっておられます」

惟豊は黙っている。

そこはもはや承知していることである。

「されど、阿蘇への友好の使者を絶やしておらぬ点は、悪くございませぬ」

寿貞は言う。

「加えて、隆房殿を抑えておるうちは、まだ筋が立っております」

惟種が、その名にわずかに目を動かした。

「今はむしろ、隆房殿が筆頭となって取り仕切っておるように見えます。兵も、人も、銭も、あのお方のところへ集まりやすい」

宗運が問う。

「商人の目には、どう映る」

「話は早うございます」

寿貞は答えた。

「少なくとも、義隆殿の御心一つを待つよりは、隆房殿のところを通した方が、物事は前へ進みます」

それから一拍置いて、さらに続けた。

「ただし――武断の者どもと、文治の者どもの対立が、かなり深うございます」

座が静まる。

「今はまだ一つの屋根の下におります。されど、このままゆけば、そう遠くないうちに割れるやもしれませぬ」

惟豊が低く言った。

「西が荒れるか」

寿貞は、静かに頭を下げた。

「その芽は、ございます」

大内はいま敵ではない。

むしろ友誼の筋を通している相手である。だが、その相手そのものが、内に割れ目を抱えている。遠いようでいて、九州にも響かぬ話ではなかった。

惟種が静かに言った。

「大内が割れれば、西は荒れます」

宗運が頷く。

「こちらにとっても、遠い話ではございませぬな」

惟豊が断じた。

「友誼は保て。されど、大内そのものが今のまま永く続くとは思うな」

寿貞は、ただ深く頭を下げた。

寿貞が一通りを語り終えると、座にはしばし沈黙が落ちた。

有馬は周りへ危機を説いて回っている。

大友は内が揺れ、阿蘇へ手を出せぬ。

肝付、伊東は島津と阿蘇の筋を警戒している。

大内は友誼を保ちながら、その内に割れ目を深くしている。

つまり、どこも阿蘇を見てはいる。

だが、どこもまだ思うままには動けぬ。

惟豊は座を見渡した。

「静かだな」

その一言は、軽い感想ではなかった。

「だが、静かなのは、皆がこちらを見ておるからだ」

重い声である。

「見ておるということは、いずれ何かするということでもある。今日動けぬ者は、明日動くやもしれぬ。明日動けぬ者は、来年動くやもしれぬ」

惟種は黙って聞いていた。

人が来る。

技が来る。

新しい作物が来る。

それと同じように、敵意も、警戒も、いずれ形を取って寄って来る。

ならばこちらは、寄って来たものに押し潰されぬだけの太さを、さらに先回りして備えるほかない。

もっとも、そのような重い話を、いつまでもそのまま座へ沈めておくつもりは、惟種にはなかった。

惟種が、ふと口を開いた。

「は」

「寿貞殿」

その声音は、先ほどまでの重さをそのまま引きずってはいなかった。

「せっかく阿蘇まで来られたのだ」

寿貞が顔を上げる。

惟種の口元が、ほんのわずかに緩んだ。

「阿蘇の神秘を、お見せしよう」