軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六十九話 いま打つ理由

天文十七年(一五四八年)三月。

春は来ていた。

だが、まだ柔らかくはなかった。

阿蘇の朝は冷える。

空は晴れていても、山から下りる風は痩せており、庭の土も、館の板敷きも、夜の冷たさを少し残している。春はたしかに来る。けれど、それが人を緩ませるほど深く根を下ろすには、まだ少し早かった。

その朝の評定もまた、春らしい浮きはなかった。

上座に惟豊。

その少し下に惟種。

横に宗運。

さらに北里政久、田代宗傳、龍造寺家宗、鍋島清房、石井兼清、小河信安らが列している。

広間に人は多くない。

だが、そこにいる顔ぶれは、いずれも今の阿蘇がどこまで進み、どこで次の手を打つべきかを決めるために要る者ばかりであった。

惟豊が短く言った。

「始める」

それだけで、座の空気は十分に締まった。

最初に口を開いたのは宗運だった。

「筑後は、ひとまず落ち着きました」

言葉は淡々としていた。

だが、その一言の重さは軽くない。

「柳川筋にはまだ戦の傷が残ります。されど城番は安定し、国衆もおおむね従っております。起請文もほぼ揃い、押領や私闘も抑え込めております」

北里が続ける。

「村の戻りも、見込みより早うございます。兵に村を荒らさせぬようきつく締めたことが利いております」

「港の方は」

惟豊が問う。

田代宗傳が答えた。

「矢部川河口の外港は、いまのところ順調にございます。材木も入り、人足も足りております。船台も形になり始めました」

それで、座にいる者の目つきが少しだけ変わる。

港。

船。

それは阿蘇にとって、新しい急所でもあった。

惟種が静かに言った。

「急所でもある」

誰も口を挟まない。

「いま筑後へ逆に打ち込まれれば、外港建築は痛む。港が崩れれば、船も遅れる。遅れれば、その先に欲しておるものもまた遅れる」

宗運が頷いた。

「はい」

「ゆえに」

惟種は続ける。

「こちらから先に動く方がよい」

それは、この座の本題だった。

いま打つべきか。

来年まで待つべきか。

少弐をなお残しておくべきか。

そこにいる者らは皆、答えをほぼ胸の内に持っていた。

だが、こういう時ほど、理を一つずつ言葉にして確認せねばならぬ。

惟豊が言った。

「少弐を残しておく利は」

広間が静まる。

龍造寺家宗が、深く頭を下げたまま答えた。

「もはや、ございませぬ」

短い。

だが、それで十分だった。

家宗は顔を上げずに続ける。

「昨年は少弐がこちらへ大きく出ぬ、という見立てはたしかにございました。ですが、それは少弐がこちらを恐れておるからではございませぬ」

「何だ」

惟豊が問う。

「準備のためにございます」

家宗の声は低かった。

「旗が折れておらぬことを内外へ示し、来年へ賭けるためにございます」

石井兼清が、横から太い声で言った。

「少弐はもう、残っておれば残っておるほど厄介にございます」

惟種が目を向ける。

「ほう、何故だ」

「阿蘇の内にある龍造寺を、肥前の国衆は見ております」

石井は言う。

「まだ再興はしておりませぬ。されど、阿蘇の手の内にあって、こちらが生きておることは皆知っております」

鍋島清房が、そのあとを継いだ。

「ゆえに、肥前の者どもは今、二つの先を見ております」

「ふむ」

「ひとつは、なお少弐が残る道」

清房の目は細い。

「もうひとつは、阿蘇の手で龍造寺が戻る道にございます」

その言葉は、広間の空気を静かに重くした。

少弐が残っていれば、肥前の国衆はなお迷える。

だが、少弐の旗が折れれば、迷いの多くは一気に消える。

「つまり」

宗運が低く言った。

「今ここで少弐を半端に残せば、来年もう一度、同じ迷いと同じ火種を抱えることになります」

「それだけではございませぬ」

家宗が言う。

「我ら龍造寺もまた、宙に浮いたままになります」

その声に、私情はあった。

だが、それだけではない。

「若君の御手にあるからこそ、いまは旧縁もこちらへ寄り始めております。されど、少弐を討ち切れねば、皆また『待つ』方へ戻りましょう」

惟種は、それを黙って聞いていた。

待つ、というのは厄介だ。

裏切るよりも厄介である。

裏切る者は敵に回る。

だが、待つ者は敵にも味方にもならぬまま、戦の行方だけを見ている。そういう者が増えれば、肥前はいつまでもこちらへ寄ってこない。

「調略は」

惟豊が問う。

宗運が文を一つ開いた。

「進んでおります」

「どこまでだ」

「明らかに応ずる者はまだ少のうございます。されど、文を返してくる者は増えました。協力を求めてくる者も出ております」

北里が低く言う。

「揺れておる、ということですな」

「はい」

宗運は頷いた。

「こちらの強さを見せれば寄る者。まだ少弐へ残る者。様子を見ておる者――いま肥前は、その三つに分かれつつあります」

惟種が言った。

「ならば、見せるしかない」

「何を」

惟豊の問いは、分かっていてなお問う響きだった。

「阿蘇の強さです」

惟種は答えた。

「肥前国衆に、どちらへ寄れば生きるかを、もう迷わせぬ形で見せます」

それは、戦の宣言でもあった。

そして、ただ城を取る戦ではないことも、そこにいる者らには分かった。

これは示す戦だ。

肥前の人心を切り分ける戦でもあり、家兼殿との約束である。

「兵は」

惟豊が問う。

北里が答えた。

「四千二百にございます」

「常備兵は」

「千五百」

「筑後は持つか」

「持たせます」

北里の声に迷いはなかった。

「守りの兵は抜きすぎませぬ。筑後の城筋も、港も、いまは最低限で足ります」

田代宗傳がさらに言う。

「兵糧は十分にございます。筑後の戻りが早かったことが利いております。名和筋もまた、背の補いにはなりましょう」

惟豊が少しだけ目を細める。

「名和は」

「問題なく回っております」

田代は答えた。

「阿蘇のやり方を、あそこは素直に呑み込んでおります。小さき家ゆえ、手も回りやすい」

「筑後は」

「なお立て直しの途中にございます」

そこは宗傳がはっきり言った。

「されど、それで十分にございます。今の筑後は“守れる筑後”です」

守れる。

その言葉が、この評定では重かった。

以前の筑後なら、取ったばかりで出兵など危うかった。

だが今は違う。

完全に呑み切ったわけではない。

それでも、阿蘇が主導して外へ兵を出せる程度には落ち着いた。

惟豊が、そこで少し声を低くした。

「少弐の兵は」

宗運が答える。

「三千百ほど」

「大友の裏は」

「感じられます」

宗運は言う。

「兵ではなく、米、銭、武具。火を絶やさせぬ程度の手が後ろより入っておるように見受けられます」

惟豊が鼻を鳴らす。

「大友らしい」

「はい」

「大内は」

「今は関わらずにございます」

宗運は続ける。

「少弐は大内へも使者を出しておる様子。されど、助けを乞うというより、まだ少弐は死んでおらぬと見せるための布石かと」

「大友と大内へ文を出せ」

惟豊が言った。

「はい」

「大友も大内も、関与させぬ」

その一言で、座の筋ははっきりした。

今回の戦は、阿蘇と少弐、そして肥前国衆の心をどう切り分けるかの戦である。そこへ余計な大名を主役として引きずり込む必要はない。

「大村、有馬、松浦には」

惟種が言った。

「文を出せ」

「どういう筋にて」

宗運が問う。

「理はこちらにあり、と」

惟種は答えた。

「少弐は、もはや肥前を保つ理を失った。龍造寺旧縁を立て、国を正すための出兵である。無用な加勢は要らぬ、と伝えよ」

それは、敵対を避ける文であると同時に、こちらの名分を先に置く文でもあった。

宗運が深く頷いた。

「承りました」

惟豊はしばらく黙っていた。

広間にいる者らもまた、皆黙っている。

もはや論は尽きつつあった。

いま打つべき理由はそろっている。

筑後は持つ。

名和も回る。

港建築を抱えた今、逆に待つ方が危うい。

少弐は来年へ賭けようとしている。

調略は進み、肥前の国衆も揺れている。

龍造寺をここで再び地へ返すには、少弐の旗を最後まで折るしかない。

惟豊が、ようやく言った。

「よい」

低い声だった。

「打つ」

それだけで、座の空気は決した。

誰も大きくは動かない。

だが、その一言で、いまここにあるすべての用意が、戦へ向かうものへ変わった。

「三月のうちに兵をまとめる」

惟豊は続ける。

「四月に入れば、もう迷うな」

「はっ」

声が揃う。

「これは筑後を取るための戦ではない。肥前の筋を定める戦だ」

「はっ」

「少弐を残せば、また迷いが残る。迷いを残せば、龍造寺もまた宙に浮く」

家宗が、深く頭を下げた。

「御意にございます」

「ならば」

惟豊の声が、一段深くなる。

「最後まで行く」

「はっ」

その一言は、龍造寺旧臣へ向けたものでもあり、阿蘇家中へ向けたものでもあった。

惟種は、その横顔を見ていた。

父はやはり、肝のところで一番重い言葉を置く。

打つと決めることより、どこまで打つかを言い切る方が難しい。

だが、いまそれを言い切らねば、この戦はまたどこかで半端になる。

宗運が、静かに文を畳んだ。

「では、最後の文を走らせます」

「うむ」

「応ずる者、迷う者、なお残る者――そこで最後の切り分けを」

「頼む」

北里が言った。

「兵は三月下旬には動けます」

「よい」

田代宗傳も言った。

「背の荷は崩れませぬ。筑後も守ります」

惟豊が、それに短く頷く。

「よし」

それで評定は終わった。

人が立ち、板が下がり、文が巻かれる。

だが、それは片づいたのではない。

むしろ、ここからすべてが動き始める。

家宗は、ようやく来たと思っていた。

清房は、ここで折れねばまた宙に浮くと知っていた。

北里は、筑後を守りながら前へ出る重さを思い、

宗運は、肥前の人心がどう裂け、どう寄るかを思っていた。

惟種は最後に一人、広間の端に残った。

三月の風は、もう冬ではない。

だが、春と呼ぶにはまだ少し硬い。

少弐を残せぬ。

龍造寺を戻すには、今しかない。

そして、港を守るにも、筑後を太らせ続けるにも、こちらから主導して叩くほかない。

理はそろった。

あとは、打つだけだ。

惟種は、静かに目を閉じてから、ふたたび開いた。

四月が来る。

そこから先は、もう言葉より兵が前へ出る。

だが、その兵を前へ出す理は、いまこの三月の座でたしかに定まっていた。