軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六十話 まだ口にせぬ名

天文十六年(一五四七年)九月。

豊後の秋は、まだ暑さを引きずっていた。

山から下りる風はたしかに軽くなっている。だが、昼の日差しはなお強く、館の板敷きにも、庭の白砂にも、夏の名残がじりじりと照り返していた。

そういう日ほど、人は苛立つ。

義鑑は、広間ではなく奥寄りの一間を使わせた。

座に呼んだのは多くない。

入田親誠。

その父、親廉。

あとは文を持つ近習が一人、少し離れて控えるだけである。

吉弘鑑理 臼杵鑑続といった重臣は呼んでいない。

呼べば必ず、話が大きくなる。

まだその時ではなかった。

障子の外で風が鳴る。

だが、その音もこの座には届きにくい。

義鑑は、しばらく何も言わなかった。

もともと口の軽い男ではない。

だが今日の沈黙は、ただ慎重なだけではなかった。

胸の内にあるものへ、自分でまだきれいな名をつけきれていない沈黙だった。

ようやく口を開いた時、その声は低かった。

「阿蘇は、また太ったそうだな」

親誠が頭を下げる。

「はい」

「筑後を呑み、城を下し、そのうえで荒らしておらぬ」

「左様にございます」

義鑑は前を見たまま続けた。

「勝つだけなら、まだよい」

誰も口を挟まない。

「勝ったあとに痩せぬのが厄介だ」

親廉が、そこで初めて静かに言った。

「まことに」

老人の声だった。

だが、その短い二文字の中に、軽く聞いていない重みがある。

義鑑は膝に置いた手をわずかに動かした。

「龍造寺を抱え、島津と縁を結び、今度は筑後を食うのではなく太らせようとしておる」

言葉にするほど、苛立ちが形になる。

「あれは、ただの肥後の一勢力では済まぬ」

親誠がそこで、義鑑の顔色を測るように少し間を置いた。

「阿蘇の若君にございますか」

「ほかにおるまい」

義鑑は吐き捨てるようには言わなかった。

だが、その名を軽く扱う気もなかった。

「兵を見ておる」

「市を見ておる」

「民まで見ておる」

義鑑の目は遠くに向いている。

「しかも、先を急ぎすぎぬ」

それが腹立たしかった。

勢いに乗った若造なら、どこかで踏み外す。

だが、阿蘇の鬼童は違う。勝ったあとほど歩みを緩め、国の骨から太らせようとしている。

親誠が、静かに言った。

「そのような相手と、これから先の九州で向き合うことになります」

「分かっておる」

義鑑の返しは早かった。

親誠は少しもひるまない。

「ゆえに、次代が重うございますな」

その一言で、座の空気が変わった。

親廉は目を伏せたまま黙っている。

だが、その沈黙自体が、もうこの話を拒んではいない。

義鑑はすぐには答えなかった。

次代。

その言葉を、ここしばらく胸の内で何度転がしたか分からぬ。

国は大きい。

豊後、豊前、筑前、筑後にまで手を及ぼし、外から見れば大友の威はなお重い。

だが、大きい家ほど、次を違えた時の崩れは深い。

義鑑はぽつりと言った。

「義鎮では、重い」

親誠は頭を下げたまま聞いている。

親廉もまた、顔を上げない。

だが、その場にいる誰もが、その言葉の重さを知っていた。

嫡子を評する言葉ではない。

まして、当主が内々とはいえ口にしてよい軽さのものでもない。

それでも義鑑は続けた。

「勇はある」

そこは否定しなかった。

「だが、それだけでは足りぬ」

障子の外で、風が一つ強く鳴った。

「今のような時に、粗いだけの手では国は守れぬ」

親誠が、そこで初めて顔を上げた。

「殿」

「何だ」

「若殿は今で十七、まだ若うございます」

義鑑の目がわずかに細くなる。

「若さはいずれ抜けましょう」

「若さで済めばよい」

義鑑は言った。

「済まぬから言うておる」

その声には、怒りだけではない疲れがあった。

義鎮が嫌いだからではない。

むしろ逆だった。

嫡子である。

家を継がせねばならぬと思ってきた。

そう思って見てきたからこそ、粗さも、短慮も、胸の内に溜める苛烈さも、余計によく見えてしまう。

「あれは、勝つ時は派手に勝とう」

義鑑は低く言った。

「だが、勝ったあとにどれだけ国が痩せるかまでは見ぬ」

親誠も、そこは否定しなかった。

「阿蘇の若君のように、民を見て、道を見て、市を見て、国を太らせる手があるかと言えば――」

義鑑はそこで言葉を切った。

その先は、口にしなくても十分だった。

親廉が、静かに息を吐いた。

「殿」

「何だ」

「次代を案ずるは、もっともにございます」

老臣の言葉は慎重だった。

「されど、嫡流を動かす話は軽くは済みませぬ」

「分かっておる」

義鑑の返しは短い。

「だからまだ、大きな座では言わぬ」

それで親廉も黙った。

親誠が、その間を埋めるように言った。

「まだ替えるとは申しておりませぬ」

義鑑の視線が動く。

「ですが」

親誠の声は低く、よく通った。

「備えなき家に、次はございませぬ」

この男は、こういう時に言葉の置き方を違えない。

義鑑の胸にあるものを、あまりにきれいな理へ変えて差し出してくる。

「阿蘇を見れば分かります」

親誠は続けた。

「次の代に要るのは、ただ荒く強い者ではございませぬ」

「……うむ」

「兵を回し、家中を割らず、文を持ち、外を見て、国を痩せさせぬ手にございます」

義鑑は黙って聞いていた。

「ならば今のうちより、備えておかねばなりませぬ」

「備え、か」

「はい」

親誠は頭を下げたまま言った。

「塩市丸様の周りを、まず整えるべきにございます」

その名が出た瞬間、座の空気がさらに重くなった。

塩市丸。

まだ幼い。

だが幼いからこそ、今から作れる。

義鎮のように、すでに出来上がりつつある粗さに手を焼くより、白いところへ筋を通した方が早い――そういう理が、親誠の言葉の下にある。

親廉は、すぐには賛同しなかった。

だが、強く否んでもいない。

「親誠」

「は」

「其方の言いたきことは分かる」

老臣の声は深い。

「だが、それはすなわち」

「まだ、そこまでは申しておりませぬ」

親誠は遮らぬ程度に言った。

「ただ、備えを急ぐべきと申し上げております」

義鑑はそのやり取りを聞きながら、胸の内にあるものへようやく形がつき始めるのを感じていた。

替える。

まだそこまでは口にしない。

だが、備える。

それならば言える。

義鎮では重い。

塩市丸を、いつでも立てられるように整えておく。

それはまだ決定ではない。

決定ではないが、後戻りできぬ一歩ではある。

義鑑はゆっくりと言った。

「塩市丸の傅役は、より慎重に選べ」

親誠が頭を下げる。

「は」

「近習も軽い者を混ぜるな。礼法、書札、家中作法、すべて早めに整えよ」

「承りました」

「まだ表へは出すな」

義鑑の声はさらに低くなる。

「だが、いつでも立てられるようにしておけ」

それで十分だった。

親誠は深く頭を下げた。

親廉もまた、目を伏せたままわずかに頷く。

この座で何かが決した、とまでは言えぬ。

だが、何かが始まったことだけは確かだった。

義鑑はそのまま、しばらく外を見ていた。

阿蘇。

鬼童。

肥後の山家が、九州の形をじわじわと変え始めている。

それを見た時、自分の家の次代に、ただ荒いだけの手を置くことが、どれほど危ういかを嫌でも思い知らされた。

「義鎮は」

義鑑がぽつりと言った。

「よい時に生まれなんだな」

親誠も、親廉も、何も答えなかった。

同情してよい言葉ではない。

だが、ただ憎んでいるのでもないことは分かる。

義鑑は息を吐いた。

「こちらが守るべき国が、大きくなりすぎた」

それは誇りでもあった。

同時に、嫡子へ求めるものを過酷にしすぎる呪いでもあった。

親誠が静かに言う。

「殿」

「何だ」

「いまはまだ、備えにございます」

「うむ」

「されど、備えは早いほどよろしゅうございます」

義鑑は頷いた。

「分かっておる」

そこでようやく、座は少しだけ息をついた。

文を持つ近習が、必要な名だけを控える。

誰を塩市丸の近くへ置くか。

誰を遠ざけるか。

何を学ばせるか。

どこまで表へ出すか。

それらはまだ家督相続の話ではない。

だが、家督を違えることになった時のための準備であった。

日が傾くころ、ようやく座は解かれた。

親廉は無言で下がった。

老いた肩には、軽くないものが乗っているように見えた。

親誠は退出の前に、ほんのわずかだけ義鑑を見た。

その目には、ためらいよりも手応えがあった。

義鑑は一人残った。

障子の外の空は、ようやく夕色へ寄り始めている。

暑さはまだ残る。

だが、昼の苛立ちとは少し違う熱だった。

阿蘇が太る。

島津が結ぶ。

肥後も筑後も、鬼童の手で形を変えてゆく。

その流れの先で、大友だけが古いままで立っていられるはずがなかった。

「義鎮では、重い」

義鑑はもう一度、誰に聞かせるでもなく呟いた。

その言葉は、先ほどよりも少しだけ乾いていた。

迷いが消えたわけではない。

だが、迷いのままでも、手だけは打ち始めねばならぬと腹が決まった声だった。

塩市丸の名は、まだ表へは出さぬ。

だが、館の奥ではもう、その周りを固める手が静かに動き始めている。

秋はまだ浅い。

それでも大友の館には、すでに次の嵐の気配が差し込んでいた。