作品タイトル不明
第四十三話 大評定
冬の評定とは、空気が違った。
春の種まき前に道を定める評定でもなく、戦の直後に血の匂いを引きずって開かれる評定でもない。
今度のそれは、阿蘇家そのものがどこまで膨らんだかを、家の内外へ見せつける座だった。
広間には、主だった家臣がほぼすべて詰めていた。
惟豊が上座に座し、その近くに宗運、宗傳。
一門衆、在地の有力どころ、山と市と兵を預かる者、鍛冶場と火薬場に関わる者、若手では高森、北里、光永まで、列の内にきちんと置かれている。
そしてその末に、龍造寺家兼、鍋島清房、龍造寺家宗、石井兼清、小河信安、納富信景、福地信重、百武賢兼ら、預かり衆として列した龍造寺側の面々もいた。譜代と同座ではあるが、同格ではない。置かれた位置だけで、それは十分に知れた。
惟種は父の近くに座し、その横には鍋島孫四郎が控えていた。まだ若い顔だが、目だけは落ち着いている。阿蘇の若侍たちの列へ、外から若木が一本差し込まれたようだった。
座が静まる。
惟豊が短く言った。
「始める」
それだけで十分だった。
「此度は大評定とする」
惟豊の声は低い。
「戦ののち、阿蘇がどこまで膨らんだか。田、市、山、兵、銭、民、外との縁。すべてをあらためて見直し、次の年の筋を定める」
宗運が板と帳面を進める。
「では、まず石高より」
板が広げられる。
宗傳が記した数と流れを、宗運が一つずつ読み上げていった。
「去年の見立てでは、阿蘇家の石高は十一万石ほど」
そこまでは、座の者もすでに知っている。
問題はその先だった。
「今季の見立てでは――」
宗運は一拍置いた。
「一・五倍を超えました」
座がざわりと動く。
小さなざわめきではない。
息が漏れ、視線が行き交い、板の上の数字を確かめようと首がわずかに動く。あからさまに騒ぐ者はいない。だが、誰もがそれを軽くは受け取れない。
「超えた、だと」
一門の一人が低く言った。
「はい」
宗運は平らに答える。
「試し田だけの増収ではございませぬ。荒れ地の立て直し、流民への田の割り振り、用水と農具の改め、収穫後の取りこぼしの減り、それに市の伸びが人と物を呼んでおります」
宗傳が板を指す。
「帳面の上だけの飾りではございませぬ。兵も食えます。民も増えております。見立てでは、二十万石に届く勢いにございます」
今度のざわめきは、先ほどよりさらに深かった。
預かり衆として列していた龍造寺側の顔にも、はっきりとした色が出る。
家兼は黙っていた。
だが、その老いた目は板の上ではなく、惟豊と宗運、そして惟種の並ぶ上座を見ていた。
(これほどか)
そう思う。
戦の場で、阿蘇がただの国衆ではなくなっていることは見た。
だが、これはまた別の恐ろしさだった。勝った勢いで大きく見せているのではない。帳面の上で、民と田と銭が膨らんでいる。
負けて下った相手に、そこまで見せるのか。
見せるということは、使う気なのだ。
そのことが、家兼にはよくわかった。
鍋島清房も、目を細めたまま板を見ていた。
(勝った家ではない)
(勝ちを太らせる家だ)
それが清房の感想だった。
宗運は、ざわめきが少し落ちるのを待ってから続けた。
「石高が増えたのは、取るものを増したからではありませぬ」
「何」
年嵩の家臣が問う。
そこへ今度は宗傳が答えた。
「軽くしたからです」
座の何人かが顔を上げる。
「税を軽くし、雑多な取り立てを減らし、村ごとの差をいくらかならし、逃げた者より来る者を受ける。田を与えれば、人は根を下ろします」
別の者が言う。
「軽く取りすぎではないか」
「軽いから人が来るのです」
宗傳は言った。
「三公七民にも近い軽さにしたところでは、流民の根付きが目に見えて違います」
また空気が動いた。
それは大胆すぎる、と感じる者がいるのがわかる。
惟豊は黙ったまま聞いている。
今ここで先に答えを置かないのは、家中にまず違和を出させ、そのうえで筋を定めるためだと、惟種にはわかった。
「流民に田を与え、税を軽くし、しかも新しく来た者にまで手をかける」
武辺寄りの者が言う。
「古くからおる百姓は、面白く思わぬのではないか」
惟種が口を開いた。
「だから、古くからおる者にも軽くする」
視線が集まる。
「来た者だけが得をするようにすれば、古い民は怒る。古い民だけを守れば、新しい民は根付かぬ。ならば全部を軽くする。軽くすれば人が来る。人が来れば田が増える。田が増えれば総量で勝つ」
誰かが言う。
「取るものを減らして、どうして勝てる」
「逃げぬからだ」
惟種は答えた。
「飢えれば逃げる。重ければ逃げる。逃げた民は戻りにくい。ならば最初から逃がさぬ方が早い」
宗運が、その言葉を受けた。
「いま、商人も流民も阿蘇へ向いております」
板がもう一枚出される。
「門前市の伸びは今季も止まりませぬ。飴と玻璃が銭を呼び、鍛冶物が人を呼ぶ。さらに、税の軽さを聞いて、周辺より人が動いております」
「周辺、とは」
「蒲池、相良、そのほか肥後の縁辺より」
宗運の言葉に、座の空気がまた一つ変わった。
「それほどにか」
「はい」
「田を失った者、年貢に苦しんだ者、山仕事や荷運びに活路を求める者。そうした者が、こちらへ流れております」
惟種は、そこで初めて少しだけ笑った。
「人は、腹の減らぬ方へ流れる」
誰も、それを否定しなかった。
龍造寺側の末に座していた百武賢兼でさえ、思わず眉を寄せるしかなかった。
戦で負けた阿蘇の恐ろしさは知っていた。
だが、戦をしていない時の恐ろしさまで、こうして見せつけられると、別の意味で口を閉ざすしかない。
家兼は静かに思う。
(これなら、あるいは)
龍造寺の家を、ただ昔通りに戻すのではない。
阿蘇の大きな流れの中で、いずれ旗を立て直す。
それなら、再興も夢ではないやもしれぬ。
それは敗者の願いというより、現実を見た老将の計算だった。
宗運は次の板へ移った。
「次に、外向きのことにございます」
ここで座の空気が、少しだけまた締まる。
「大友の威はなお重い。ゆえに阿蘇は、地だけでなく名分もまた育てねばなりませぬ」
惟豊が、そこで一つだけうなずいた。
宗運が続ける。
「朝廷筋、幕府筋への銭は細くとも絶やしませぬ。今すぐ何かが動くわけではございませぬが、いずれ大友の守護に対し、阿蘇の名分で対するための布石にございます」
一門の一人が低く言う。
「守護まで、か」
惟豊がそこで初めて口を開いた。
「すぐに取るとは言わぬ」
声は低いが、きっぱりしている。
「だが、見ぬふりもせぬ。肥後を誰が守り、誰が食わせ、誰が鎮めておるか。その実を積めば、名はあとから付いてくる」
宗運がそのあとを継いだ。
「加えて、南の糸も切らぬ」
島津のことだと、誰もがわかる。
「今すぐ旗に掲げる縁ではございませぬ。されど絶やすべきでもない。南との結びは、来年にはさらに深まる見込みにございます」
惟種は何も言わなかった。
島津は“見せ札”ではない。
背後の縁だ。
それはもう、家中でも共通の認識になりつつある。
広間の空気が少し落ち着いたところで、また別の話題が持ち出された。
「鉄砲のことにございます」
宗運がそう言うと、何人かが姿勢をわずかに正した。
「此度の戦にて、試製の鉄砲はよく効きました」
「よく効きすぎた、のではないか」
誰かが、ぽつりと言う。
惟種は顔を上げた。
その言葉を待っていたような気もした。
「若君は、鉄砲で兵を強くするおつもりは薄いと申された」
武辺の一人が、率直に言った。
「だが此度の戦、まさしく鉄砲で勝ったようにも見えます」
別の者も頷く。
「ならば、これより先は鉄砲を主に据えるのですか」
座が静まる。
怪訝さ、と言うほど露骨ではない。
だが違和感は確かにある。
「森羅衆は、ただの鉄砲隊ではない」
惟種が言った。
「戦に勝つために、鉄砲は要る。そこは偽らぬ」
座が静まる。
惟種は、これまで鉄砲そのものに酔うような言い方を避けてきた。
だからこそ、その言葉はまっすぐに響いた。
「では、若君」
武辺の一人が問う。
「此度の戦も、これより先も、鉄砲で兵を強くなさるおつもりか」
惟種は、すぐには答えなかった。
ふと、日新斎と向き合った日のことが胸をよぎる。
あの老人の前で、自分は言った。
鉄砲は、ただ兵を強くするためだけに欲しいのではない、と。
それは嘘ではなかった。
だが、全部でもなかった。
「日新斎殿には」
惟種が静かに言った。
「兵を強くするためではない、と申しました」
座の空気がわずかに動く。
「ですが、それは半ばです」
惟種は続けた。
「戦に勝つために、鉄砲は要る。これから先、火を持たぬ家は滅びるでしょう」
誰も口を挟まない。
「だが、筒さえ持てば勝てるわけでもない。火縄、玉薬、硝石、鍛冶、運ぶ道、支える銭、撃っても崩れぬ兵、撃たぬ時に乱れぬ列――それを全部持っておらねば、結局は火に使われるだけです」
宗運がその横で受ける。
「此度勝ったのは、筒の数ではございませぬ」
その声は落ち着いていた。
「二十を三つに分け、輪番に撃ち、槍列も別働隊も崩さずに回せたから勝ちました。ゆえに欲しいのは、鉄砲そのものではなく、鉄砲を置いてなお崩れぬ兵の形にございます」
惟種はうなずいた。
「森羅衆は、そのために作る」
その目は、もう目の前の戦だけを見てはいなかった。
「兵を勝たせるためでもある。だが、それだけではない」
「では、ほかに何のためにございます」
今度は年嵩の家臣が問う。
惟種は答えた。
「これからの世に負けぬためです」
広間が静まり返る。
「南蛮の火は、もう来ている。海の向こうから入る火と鉄と銭は、これから先、いやでもこの国へ深く入るでしょう」
惟種はゆっくりと言葉を置いた。
「いまのままの兵では足りぬ。いまのままの国の形でも足りぬ。ゆえに、阿蘇は先に備える」
「森羅衆は、兵を強くするだけのものではない」
惟種の声は低かった。
「火の世に負けぬ国を作るための兵です」
しばらくして、一門の年長者が小さくうなずいた。
「……なるほど」
惟種はさらに言った。
「島津と結ぶにも、大友に備えるにも、ただ槍と弓だけで足りる世ではなくなる」
「だから火を抱える。だが、火に溺れぬよう、国の形から変える」
高森惟房が、少しだけ胸を張った。
自分もその形の中にいるのだと、顔に出ている。
惟種は最後に言った。
「鉄砲で兵を強くする。それは否まぬ」
「だが本当に欲しいのは、鉄砲の強さではない。鉄砲の世に呑まれぬ阿蘇の形だ」
完全に腑に落ちた者ばかりではない。
だが、若君が鉄砲そのものに酔っているのではないことは、座の皆に伝わった。
龍造寺家兼は、そのやり取りを黙って聞いていた。
(この童、いや)
もう童ではない、と家兼は思う。
戦の場で首を取らず家を取った。
座の上では鉄砲そのものに酔わず、その先の世まで見ている。
惟豊は重しであり、宗運は現実に落とし、惟種はさらに先を見ている。
(これならば)
龍造寺の家は、阿蘇の内でしばらく伏してもよいのではないか。
伏して、力を蓄え、やがて再び立つ。
その道筋が、今日この座で初めて具体の形を持った気がした。
鍋島清房もまた、心の内では別のことを考えていた。
(宗運は厄介だ)
(だが若君の理を、ここまで家の筋にできるのはこの男だ)
そして、その若君のそばに自分の子――孫四郎がいる。
それは屈辱であり、機でもあった。
評定はさらに細かい割り振りへ移った。
どの村へ新たな流民を入れるか。
どこまで税を軽くし、どこを軽くしすぎぬか。
鍛冶場へ何を回し、山から何を先に下ろすか。
火薬場の見張りをどう増やすか。
島津へ返す文には何を含め、何を伏せるか。
大評定と呼ぶに足るだけの重さが、最後まであった。
日がだいぶ傾いた頃、ようやく惟豊が座を締めた。
「よい」
短い一声だった。
「此度、戦はあった。だが、それでも阿蘇は痩せず、かえって太った」
広間は静まる。
「これは偶然ではない。惟種の策、宗運の差配、宗傳らの帳面、家中の働き、百姓も商人も山の者も、すべてが噛んでおる」
惟種は顔を上げた。
父が自分だけを誉めぬのは、むしろよかった。
ひとりの手柄ではなく、家の形として固まってきた。
それが今の阿蘇の強さだ。
「ゆえに」
惟豊は言った。
「次もまた、ひとつずつ積め。急ぐな。だが止まるな」
「はっ」
広間の声がそろう。
人が立ち、板が下げられ、帳面が畳まれる。
龍造寺側の者たちも、静かに立ち上がった。
家兼は、座を去る前に一度だけ惟種を見た。
若い。
幼い。
だが、あの先を見る目のもとにいる限り、龍造寺の家にもまだ道はあるのかもしれぬ。そんなことを、老将はふと思った。
外へ出れば、風はもう冷えていた。
評定は終わった。
家の骨もまた、一段太くなった。
このまま何事もなく、秋から冬へ向かってゆけるようにも見えた。
だが、しばらく後に、宗運の脇差が盗まれる事件が起こった。
それは刀一本の話に見えて、そうではなかった。
勝ちを重ね、家を太らせ、ようやく形になり始めた阿蘇の内へ、見えぬ手が差し込まれたということだった。
それは、これから訪れるはずだった阿蘇の安寧に、一筋の亀裂を入れた。