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作品タイトル不明

第百六十五話 大内の血

婚儀は、静かに終わった。

祝言の名はあった。

だが、そこに満ちていたのは、祝いの音ではなかった。

笛も太鼓もない。

歌舞もない。

酒の匂いも薄い。

ただ、香の煙が細く立ち、読経の声が館の奥へ低く染み込んでいた。

珠光姫は、阿蘇へ入った。

それは華やかな嫁入りではなかった。

大内義隆の菩提を弔う煙の中で、大内の血を阿蘇が預かる儀であった。

赤き色は控えられ、膳は整えられていた。

だが、祝いの膳というより、迎え入れの膳であった。

阿蘇家中の主だった者たちは礼を尽くした。

されど、騒がぬ。

笑い声を響かせぬ。

誰もが知っていた。

この婚儀は、大内義隆の死の上にある。

そして、陶隆房との冷たい友和の上にある。

盃は交わされた。

珠光姫は阿蘇の内へ入った。

だが、その盃に映る火は、どこか喪の色を帯びていた。

夜。

儀が終わり、外のざわめきが遠のいたころ、惟種は珠光姫の部屋を訪ねた。

部屋には、余計な者を入れていない。

近くに女房は控えている。

だが、声の届かぬところまで下がらせてあった。

これは、他の者に聞かせてよい話ではなかった。

灯は小さい。

香の匂いが、まだわずかに残っている。

珠光姫は、婚儀の装いをすべて解いたわけではなかった。

だが、昼の姿より少し楽な形になっている。

顔には疲れがあった。

当然である。

父を失い、故郷を離れ、阿蘇の内へ入り、弔いと婚儀を同じ日に受け止めたのだ。

それでも、珠光姫は乱れていなかった。

惟種が入ると、珠光姫は静かに頭を下げた。

「惟種様」

「珠光」

名を呼ぶと、珠光姫はわずかに目を伏せた。

もう、阿蘇の内の者である。

だが、そう呼ぶことには、まだ互いに慣れていなかった。

惟種は、向かいに座った。

しばらく、言葉が出なかった。

灯明の火が揺れる。

外で、遠く番の者の足音がした。

惟種は、ゆっくり頭を下げた。

「すまぬ」

珠光姫の肩が、わずかに動いた。

「惟種様」

「そなたの父君の仇を、今は討てぬ」

珠光姫は、何も言わなかった。

惟種は頭を下げたまま続けた。

「義隆殿は、そなたを阿蘇へ託された。わしは受けた。大内の血を預かると申した」

声が、少し低くなる。

「だが、その義隆殿が討たれた。婚姻の儀が済む前を狙われた。陶隆房は、そこを突いた」

珠光姫の指が、膝の上で少しだけ動いた。

「わしは、読まれた」

惟種は言った。

「山口へすぐ兵を入れられぬこと。九州を空けられぬこと。婚姻の儀が済む前なら、阿蘇の口が太くなりきらぬこと。珠光、博多の荷、大内の名。その線を越えぬ限り、阿蘇が動きにくいこと」

惟種は、顔を上げた。

「すべて読まれた」

珠光姫は、静かに惟種を見ていた。

その目には、涙があった。

だが、こぼれてはいなかった。

「惟種様が、父を見捨てたとは思っておりませぬ」

珠光姫は言った。

声は細い。

だが、乱れてはいない。

「父上は、申されました。阿蘇が軽々しく山口へ兵を入れてはならぬ、と」

惟種は何も言わなかった。

「父上は、大内の血と名を残すため、私を阿蘇へ託されました。父上の命を救うためではなく、後へ残すもののために」

珠光姫は、そこで一度だけ息を吸った。

「分かっております」

「分かっていても、苦しかろう」

「苦しくないはずがございません」

珠光姫は、初めてはっきりと言った。

「父上は討たれました。私はここにおります。私は父上のそばにおりませんでした。山口へ戻ることもできませぬ。陶隆房を赦すこともできませぬ」

灯が揺れた。

珠光姫の目に浮かんだ涙が、光を受けて細く光った。

「ですが」

珠光姫は続けた。

「いま阿蘇が兵を出せば、父上の死に、さらに多くの民の死が重なります」

惟種の眉が、わずかに動いた。

「阿蘇の内を見ました。道を見ました。市を見ました。薬を見ました。灯を見ました。病の者を隔て、食べ物を巡らせ、子に字を教え、寺に語らせていることも聞きました」

珠光姫は、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「それらは、まだ根が浅いのでしょう?」

惟種は、少し目を伏せた。

「宗運が言ったか」

「いいえ」

「では、なぜ分かる」

「阿蘇へ来たばかりの私でも、分かります」

珠光姫は言った。

「強い仕組みほど、作り始めは壊れやすいものにございます。山口にも、そういうものはありました。文の者も、寺も、商いも、雅も。長く積み上げたものほど、一度疑われれば崩れるのです」

それは、大内の姫の言葉だった。

山口の栄えを知り、その崩れを肌で感じている者の言葉だった。

「だから、無理は申しませぬ」

「珠光」

「陶隆房と友和を続けられていることも、分かっております」

その名を口にした時、珠光姫の声はかすかに震えた。

だが、崩れなかった。

「それが、赦しではないことも」

惟種は、静かに頷いた。

「赦してはおらぬ」

「はい」

「不問にもしておらぬ」

「はい」

「ただ、今は兵を出さぬだけだ」

「はい」

短い言葉が、二人の間に落ちた。

惟種は、そこでようやく膝の上の手をほどいた。

「珠光」

「はい」

「これは、外には出せぬ話だ」

「承知しております」

「陶隆房を、わしは忘れぬ」

珠光姫の目が、わずかに開いた。

「義隆殿を討った者を、このまま世の理として残すつもりはない」

惟種の声は静かだった。

怒鳴りもしない。

歯を食いしばりもしない。

ただ、冷えていた。

「今は討てぬ。だが、時が来れば、陶隆房には必ず報いを受けさせる」

灯明の火が、小さく揺れた。

珠光姫は、しばらく声を出せなかった。

その言葉が、軽い慰めでないことは分かった。

惟種は、できぬ約を口にする者ではない。

だからこそ、その言葉は重かった。

「……その日まで」

珠光姫は、ようやく声を出した。

「私は、待てばよろしいのですね」

「待てとは言わぬ」

惟種は首を横に振った。

「生きよ」

珠光姫が、瞬きをした。

「生きるのだ。阿蘇で、大内の姫として。わしの側室として。加世の面目を傷つけぬよう、されど己を低くしすぎぬよう」

惟種は、まっすぐ珠光姫を見た。

「そなたは、ただ待つために阿蘇へ来たのではない」

珠光姫の胸の奥で、何かが静かに動いた。

「大内の名を、そなたが抱いておる」

「私が」

「そうだ」

惟種は頷いた。

「山口の館がなくとも、大内の血は残る。兵が散っても、名は残せる。名が残れば、いつか戻る道も作れる」

「戻る道」

「今すぐではない。山口へ旗を立てる話でもない」

惟種は、はっきりと言った。

「だが、陶の手で大内が終わったことにはせぬ」

珠光姫は、両手を膝の上で握った。

その言葉は、父の死で空いた胸の奥へ、静かに落ちてきた。

慰めではない。

夢物語でもない。

惟種は、道の話をしている。

今は閉ざされている道。

だが、いつか開くための道。

「加世の嫡流は乱さぬ」

惟種は続けた。

「それは、阿蘇の内を守るためにも必要だ」

「はい」

「だが、そなたとの間に子が生まれたなら」

珠光姫の肩が、わずかに震えた。

「その子に、大内の名を継がせる道を作る」

珠光姫は、惟種を見つめた。

「惟種様」

「時が来れば、そなたとの子に大内を任せる」

その言葉は、あまりに大きかった。

側室に入ったばかりの姫へ向ける言葉としては、大きすぎた。

大内の名。

山口の火。

陶隆房。

九州探題。

阿蘇の家中。

加世の嫡流。

そのすべてを背負ったうえで、惟種は言っている。

珠光姫は、普通なら恐れるべきだった。

あるいは、疑うべきだった。

そんなことができるのか、と。

大内を失った姫に、甘い夢を見せているだけではないのか、と。

だが、珠光姫はそう思わなかった。

惟種ならば、やる。

なぜか、そう思えた。

阿蘇の館で見た暖かい部屋。

夜の灯。

市に並ぶ食べ物。

玻璃を飾るのではなく、薬と道具へ使う考え。

病の者を隔てる決まり。

民に拝まれても、それを嫌がる横顔。

義隆を救えず、それを痛みとして抱えながら、それでも九州を焼かぬために怒りを飲んだ姿。

あれらは、ただの言葉ではなかった。

この人は、本当に物事を形にする。

珠光姫のどこか深いところが、それを知っていた。

「私は」

珠光姫は、ゆっくりと頭を下げた。

「父の名も、大内の血も、私のこれからも、惟種様へお預けいたします」

惟種は、少しだけ息を呑んだ。

「珠光」

「私は、陶隆房を赦しませぬ」

「ああ」

「父上の死を、忘れませぬ」

「ああ」

「ですが、今は阿蘇におります。阿蘇の内に入りました。ならば、阿蘇を乱すことはいたしませぬ」

珠光姫は顔を上げた。

涙は、まだ目に残っている。

だが、その顔は先ほどよりも静かだった。

「私は、弁えます。阿蘇を乱すことはいたしませぬ」

「己を殺すな」

惟種はすぐに言った。

珠光姫の目が揺れた。

「わきまえることと、己を殺すことは違う」

惟種は言葉を置くように続けた。

「加世の面目は守る。阿蘇の嫡流も乱さぬ。だが、そなたを粗略にはせぬ。大内の血として遇する。それは、わしが決めたことだ」

「はい」

「つらい時は、つらいと言え」

珠光姫は、少し驚いたように惟種を見た。

「言って、よろしいのですか」

「当然だ」

「側室であっても」

「側室であってもだ」

惟種は、わずかに苦い顔をした。

「加世にも叱られた。迎えると決めたなら、迷った顔をするな、と」

珠光姫の表情が、ほんの少し和らいだ。

「加世様は、お強い方にございます」

「ああ」

「そして、お優しい方です」

「ああ」

「私に、正室は加世様であると、はっきり申されました」

惟種は黙って聞いた。

「ですが、私を粗略にする者があれば、正室として許さぬとも申されました」

「加世らしい」

「はい」

珠光姫は、小さく頷いた。

「だから、私は恐ろしくありませぬ」

惟種は、少しだけ目を細めた。

「そうか」

「はい」

短いやり取りだった。

だが、それで十分だった。

惟種は、珠光姫の前へ手をついた。

「珠光」

「はい」

「義隆殿を救えなんだ」

「はい」

「今すぐ仇も討てぬ」

「はい」

「それでも、わしは大内を捨てぬ」

珠光姫の目から、ようやく一筋だけ涙がこぼれた。

「そのお言葉だけで、今は十分にございます」

惟種は、何も言わなかった。

言えば、余計な慰めになる気がした。

だから、黙って頭を下げた。

珠光姫もまた、静かに頭を下げた。

二人の間に、香の匂いが漂っている。

弔いの香。

婚儀の香。

死んだ者を送る香であり、生きる者をつなぐ香であった。

しばらくして、惟種は立ち上がった。

「今日は休め」

「惟種様は」

「まだ少し、文を見る」

「お忙しいのですね」

「忙しくしたくはないのだがな」

珠光姫は、ほんの少しだけ笑った。

それは、阿蘇へ来てから初めて見せる、苦しみだけではない笑みだった。

「ご無理はなさらぬよう」

「宗運にも言われる」

「では、私からも申し上げます」

「二人に言われると、逃げ場がないな」

「加世様にも申し上げていただきましょうか」

「それはやめてくれ」

珠光姫は、今度は少しはっきり笑った。

小さな笑みだった。

だが、確かに笑みだった。

惟種は、その笑みを見て、わずかに肩の力が抜けるのを感じた。

「また来る」

「はい」

「何かあれば、遠慮なく言え」

「はい」

惟種は、襖の前で一度だけ振り返った。

「珠光」

「はい」

「阿蘇へ来てくれて、よかった」

珠光姫は、息を止めた。

惟種は、それだけ言って部屋を出た。

襖が静かに閉じる。

足音が遠ざかる。

珠光姫は、しばらくその場を動けなかった。

珠光は分かっていた。

自分にできることは、多くない。

父を討った者を、自らの手で討つことはできない。

大内の名を、すぐに山口へ戻すこともできない。

阿蘇を動かせと泣き叫ぶこともできない。

それをすれば、父の死に、さらに多くの死を重ねることになる。

ならば、惟種に託すしかない。

それは、とても恐ろしいことのはずだった。

父の名を。

大内の血を。

自分のこれからを。

まだ若い阿蘇の若君に預けるのだ。

恐ろしくないはずがない。

けれど、不思議と、珠光は思った。

それでよい、と言い切れるほど、心は軽くない。

それでも、ここで生きるしかない。

そして、この人に託すしかない。

この人ならば、いつか本当に成す。

陶隆房を忘れず、大内の名を捨てず、父の死をただの涙で終わらせはしない。

そして、その道の先に、自分の生きる場所もある。

なぜか、そう思えた。

珠光は、そっと胸に手を当てた。

父の名も。

大内の血も。

自分のこれからも。

もう、阿蘇にある。

惟種のもとにある。

それが、珠光の新しい生であった。